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空白の擁壁

作者: せーや

真夜中のコンビニエンスストアの蛍光灯は、いつもよりも白く、そして無機質に感じられた。深夜勤のバイトを終えたばかりの僕は、レジ横の温かいペットボトルのお茶を手に取り、会計を済ませた。外に出ると、湿ったアスファルトの匂いが鼻腔をくすぐる。今日は一日中、小雨が降ったり止んだりの鬱陶しい天気だった。

アパートへの帰り道、いつも通る擁壁の前で、僕は足を止めた。古びたコンクリートの表面には、長年の風雨に晒されてできた黒ずみやひび割れが、まるで現代アートの抽象画のように広がっている。この擁壁は、僕がこの町に引っ越してきた十年前から、変わることなくそこにあった。高さは三メートルほどだろうか。上には、誰が住んでいるのか知らないが、古びた二階建てのアパートが建っている。

ふと、その擁壁に、今まで見たことのない落書きがされていることに気がついた。油性ペンで書かれたような、拙い文字。「ユウマ、元気?」たったそれだけの言葉が、コンクリートの灰色の中に、奇妙なほど鮮やかに浮き上がっていた。

「ユウマ、元気?」

僕はその文字を、指でなぞってみた。インクは乾いていて、わずかにざらついた感触がした。誰が書いたのだろう。そして、誰へのメッセージなのだろう。僕の知る限り、この町に「ユウマ」という名の知り合いはいない。もしや、これは僕ではない誰かへの、偶然のメッセージなのだろうか。

その日以来、僕は毎日のように擁壁の落書きを確認するようになった。最初は、ただの好奇心だった。しかし、日が経つにつれて、その落書きに、僕自身の内面が投影されているような気がしてきたのだ。

ある日、僕は仕事で大きなミスをして、上司に厳しく叱責された。同期からは冷ややかな視線を向けられ、自分はまるで価値のない人間であるかのように感じた。その夜、コンビニからの帰り道、僕はいつものように擁壁の前に立った。暗闇の中に浮かび上がる「ユウマ、元気?」の文字。その文字が、僕に問いかけているように思えた。

「元気か?」

僕は思わず、その文字に向かって呟いた。「元気じゃないよ」僕の声は、夜の静寂の中に吸い込まれていった。

次の日、僕は会社を休んだ。特に体調が悪いわけではなかったが、会社に行く気になれなかった。一日中、アパートのベッドに横たわっていた。夜になり、再び擁壁の前に立った。すると、驚くべきことに、その落書きの下に、新たな文字が書き加えられていた。

「ダイジョウブ、ミンナソウダヨ」

僕は息を呑んだ。まさか、誰かがこの落書きに返事をしているのか?しかも、まるで僕の心の声を聞いているかのように。

僕は震える手で、ポケットから油性ペンを取り出した。この擁壁に、僕の返事を書きたい。誰が書いたのかも分からない相手に、この衝動的な気持ちを伝えたい。

「ありがとう」

僕はただ、それだけを書いた。稚拙な文字が、既存の落書きの上に重ねられる。僕は擁壁を背にし、夜空を見上げた。月は雲に隠れて見えない。しかし、僕の心の中には、微かな光が灯ったような気がした。

翌日、会社に出社した。昨日までとは打って変わって、不思議と心が軽かった。上司や同期の視線も、以前ほど気にならなかった。僕は自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げた。そして、ふと、隣の席で仕事をしている後輩の背中を見た。彼の背中は、どこか小さく見えた。

休憩時間、僕は後輩に声をかけた。「最近、なんか元気ないみたいだけど、大丈夫か?」

後輩は驚いたように僕を見た。そして、少し躊躇した後、静かに話し始めた。彼は最近、プライベートで悩みを抱えているのだという。僕はただ黙って、彼の話を聞いた。

その日の帰り道、僕は再び擁壁の前に立った。僕が書いた「ありがとう」の下に、また新たな文字が書き加えられていた。

「ココデマッテル」

僕は、その文字をじっと見つめた。この擁壁は、知らない誰かと僕を繋ぐ、奇妙な交差点になった。そして、その交差点は、僕自身の心の中に、小さな変化をもたらしている。

僕たちは皆、見えない擁壁に囲まれて生きているのかもしれない。誰かの声が届くのを待ち、そして、誰かに声を届けたいと願う。

僕はポケットから油性ペンを取り出した。そして、新たに言葉を書き加えた。

「また来るね」

夜の静寂の中、擁壁は、僕たちの見えない対話を、黙って見守っていた。そして、その擁壁の空白は、僕たちの秘めたる感情を、これからもずっと吸い込み続けるのだろう。

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