幸福を喰らう紅
父が誇りと讃え、母が宝と愛でた。幸福だった。だから私は、殺した。
「女の子らしく生きなさい」
お母さんが教えてくれたから、フリルやリボンの付いた服を身に纏い、可愛らしく振る舞うようにした。
以前は男子に混じって遊ぶことが多く、変な子だとよく噂されていたが、振る舞いを変えてからはそのようなこともなくなり、クラスメイトの女子も、一緒に遊んでいた男子も口を揃えて「可愛い」と言うようになった。
あのまま生きていたら、次第に変人として扱われるようになり、孤立していたことだろう。
娘として、母には感謝しないといけない。
「流石、あの人の娘だ」
父は素晴らしい政治家だ。
国民の意見を尊重した大規模な改革を試みて、何度も大成功を収めた。
父は私が政治家になり、自分の意志を継ぐことを望んでいる。
娘なのだから、それに応えるのは当たり前のことだ。
そのために有名な高校、有名な大学に入らなければならない。
毎日、毎日勉強した、思考の妨げになる娯楽は全て捨てた。
父の誇りになるため努力をした、そのつもりだった。
ある時私は愚かなことをした。
高校時代、クラスメイトが私を遊びに連れ出した、一日だけではなく何日も。
一緒に食べた胃もたれするほど甘ったるいクレープの味、笑ってしまうほど目が大きく写ったプリクラの写真が自分の頭に焼き付いて、離れない。
しばらくして、家に直接クラスメイトが遊びに来た際に父が追い返してくれなければ、私は落ちぶれ、今の会社は愚か大学受験すら落ちていたことだろう。
娘として、父には感謝しないといけない。
「お前は私達の誇りだ」
政治家になるために上京する一日前のこと。
そう言って父が自分の使ってるブランドと同じスーツ、母は可愛らしい猫の刺繍が施されたネクタイをプレゼントしてくれた。
これが私の、幸せの象徴。
そこから先、今の今まで順調に人生は進んでいった。
企業した会社の運営が上手くいき、資金を集めることに成功、さらに父親以外の政治家ともコンタクトを取りパイプを繋ぐこともできた。
政治家になるという夢が現実味を帯び、すぐそこまで迫ってきていた、順調だった。
まぁ。
あくまで「今の今まで」の話だが。
「神よ、どうか我等に幸福を。」
「びちゃり。」
……少し時間を遡る。
仕事を終えた帰り、父から「合わせたい人がいる」と連絡がきた。
次の日は休みで断る理由も無く、父がこうやって何かを指示する時は必ずと言ってもいいほど良い方向に事が進むため、今回も何も考えずに従った。
場所が遠く、集合場所の飲み屋に少し遅れて行けば、その場に父は居ない。
どうやら急用で、代わりに父親と古くからの知り合いのおじ様が居た。
皆が飲んでいる場所までわざわざ手を繋いで案内してくれるとのこと、…有難いものだ。
なんてことない普通の居酒屋に入り辺りを見渡せば、何がそう感じさせるのかは分からないが、ただその場所の空気だけが異様で、直ぐに目的の場所が分かる。
勿論、飲み屋ということもあり皆、ツマミを食べ酒を飲み交わしてはいるのだが、話の中心に常に一人の男がいるのが目に付く。
おじ様に話を聞いても、「父の友人」としか回答を得られず、何をしている男なのかは分からない。
あの男が私に合わせたかった人なのだろうか、いったい何のために?
さらに会話に耳を傾ければ皆、口を揃えて「彼は優しい男」 「素晴らしい人間」だと。
それが変だとは思わないが、皿の上の食材が落ち、びちゃりと嫌な音が響いたというのに男の話に夢中で誰一人反応を示さなかったことには少しだけ、気持ち悪さを感じた。
その後はただひたすらおじ様のありがたーーーい話を頂戴する、なんとも有意義な時間。
「パッ パッ」
まるで電池が無いかのようにゆっくりと進む時計の針を恨み念を飛ばしていれば、軽快に手を叩く音が聞こえてくる、あの男だ。
どうやら二次会の会場に行くとのこと。
冗談じゃ無いが、おじ様がいつの間にか腕を腰に回してきたため、笑顔を向ける他にない。
全員で二次会に行くことが決まり外にでれば、酒で火照った身体に冷気が染みた。
時刻を見ればもう数分で日を跨ぐ時間、せめてタクシー代くらいは出してくれればいいが。
普段は行かない街の奥へ奥へと進んでいく、段々と飲み屋街特有の淡い光も消え、突然ここに連れて来られようものなら、スラム街と見間違っても可笑しくはないような場所。
二次会の会場、あの男の家がこの奥にあるらしい、十分程歩けば、キラキラとしたイルミネーションと大きなぬいぐるみに包まれた趣味の悪い洋館の前に辿り着く。
今からここに入る嫌な現実から目を背け、ぬいぐるみをしばらく見つめていれば、豪邸特有の重い門の開く音が聞こえた。
……どうやらここで合っているらしい。
無駄に広い庭を、素晴らしく長いトークと共に進んで行けば玄関扉に辿り着く。
ようやく着いたと安堵して、開く扉を見つめれば暗く長い廊下が見えた。
どれだけ歩かせれば気が済むのか、酒と疲労で震える足に鞭を打ち、さらにしばらく歩けばようやく扉に辿り着き、転がり込むように全員で部屋に入る。
闇に包まれた、からっぽの餌場に。
「好きなだけ食べると良い、神の化身よ。」
突如、「ガシャン」と背後に落ちてくる牢の様な鉄格子、一斉に何かを崇めるかのようにぶつぶつと呟き跪く人々、その場に出現した強大な人間ではないなにか。
……その化け物が獰猛な野生動物のよう生きるため、本能のまま行動する存在であれば、いったいどれ程恐怖心が和らいだだろうか。
「あり が と う」
化け物が、その場に跪く己の信者にそう一言つぶやき、礼をしてから一人一人丁寧に首を刎ねる。
その音を時計の針の音に見立ててしまい、緊張感に似合わないゆっくりとした時間が流れ、ようやく落ち着いたかと思えば、化け物が人だったものを一箇所に纏め、両端が付着しそうなほど大きく口を開き、貪る。
先程の居酒屋でトマトを落とした時と同じ音がすると、ついズレたことを考えるが、鼻腔に突き刺さる鉄の臭いと、コロコロと転がる誰かの視線がそれを否定した。
通常の生物のそれとは違う鋭く尖った毛、針と形容した方が正しいだろうか、そんな名状しがたい何かを身に纏う醜く肥えた化け物が心底幸せそうな顔をこちらに向ける。
「 おい しい ね」
目の前の怪物が私に好意を寄せていた政治家のおじ様と同じことを言うものだからつい「ふっ」と、こんな状況で笑ってしまった。
それが化け物は気に食わなかったのか、嬲るように爪ではない部分で私を薙ぎ払い、吹き飛ばす。
壁に叩きつけられ、衝撃で血が喉元に逆流する。
何とか抑えようと口元に手を伸ばそうにも間に合わず、生暖かい音が、部屋の冷気を打ち砕くように響いた。
「…血って思ったより黒いんだな。」
身体が真っ赤に染まり、暖かさよりも熱さを感じるこの状況でなぜか頭だけは冴えきっていた。
いや、焦る必要が無いからだ、どうでも良い。
走馬灯、幼い頃の疑問がふと浮かび上がる。
「人間ってどうして生きるの?」
それはついにこの瞬間、最後まで分かることは無かった。
でも、それが答えなのだ。
この世に生を受けた時、「生まれたい」と明確に考えて生まれた人間はいない。
全員「生まれてしまった」のだ。
そこに理由なんて存在する訳が無い、仕方が無いことに頭をさく必要が無い、だからこれだって。
「びちゃり。」
質量を感じさせるかのような、粘液の滴り落ちる音で意識が現実へと覚醒する。
意味も無く口元に手を伸ばし、もがく私を見て気分を良くしたのか、図体に合わない高い声でケラケラと私を嘲笑う。
「…次こそは楽に死ねるだろうか。痛みだけは、もうこりごりだ。」
目の前に大きな口が広がり、ゆっくりと目を閉じる。
お父さん、お母さん、私。
幸せだったよね。
「パッ パッ」
何処かで聞いた音が部屋中に響き渡り、いつまで経っても死神がごちそうさまを告げることは無かった。
恐る恐る目を開けば、化け物が口を閉じ、涎を垂らしてこちらをジッと見つめている。一体何がーーーー
「それは僕の妻になる女だ、丁重に扱え。」
声の聞こえた方向に目を向ければ、そこに居たのはあの男。
何故こいつだけ無事なのか?その答えは直ぐに得ることができた。
「アイツめ、だから劣等種は嫌だと言ったんだ、餌に手間がかかるうえ、知能も低い。」
冷たい笑顔を化け物に向け、指をパチンと鳴らせば男の持つ指輪へと怪物は吸い込まれていく。
「久しぶり、麗花。ご機嫌いかがかな?」
戸惑う私を気にもせず、今まで見せてきた冷たい笑顔とは違う純粋無垢な笑顔で照れくさそうに話を続ける。
「21年前2月27日15時21分」
「転んだ僕を助けてくれただろう?一目惚れ、してしまってね。」
「だからご両親にお願いしたんだ、最大限可愛くなった時、娘さんを僕にください、ってね。」
男がそっと、私の手の甲にキスをする。
「僕の妻になってくれないか?そしたら麗花の夢も願いも、ご両親と同じよう私が全て約束しよう。」
……は?
あまりに突拍子もない話に固まり、そもそもその話を覚えてなく、直ぐに頷くことができなかったが、なんとか強く首を縦に振る。
拒否権が何処に存在するのか是非とも教えて欲しいところだが、受け入れれば助かるなら断る理由が無い。
「よ、よろしくお願い、します…」
男の差し出した手をゆっくりと掴み、立ち上がれば、無邪気を通り越して赤ん坊のような笑顔で男は涙を流した。
「本当に!?嘘だ、信じられない…僕も好きだよ!」
「私も好き、です」
第三者が見れば大笑いされそうなこの茶番も、この男には天国のように感じれるらしい。
血が出そうになるほど私の手に爪を食い込ませ喜びを表現してくる。
その後も繰り返される茶番に吐き気を催すが今は耐えるしかない。
…生きてさえいればなんとでもなるからな。
「へへ、疑ってた訳ではないけど、面と向かって言われるとこうも嬉しいんだね」
「沢山、傷つけてごめんね?でもこれも麗花の幸せのためだったんだ」
…幸せ?
「?うん、幸せだよ。」
「僕の妻になればなんでも手に入る、綺麗なドレスも可愛いアクセサリーも。」
「金も地位も名誉も夢も希望も、望むなら何もかも!」
「「ね?」」
男が私にハグをして頭を撫でれば、温かさと優しさを感じた。
お父さんと、お母さんと、同じ。
シンと、部屋が静まり返る。
聞こえるのはサラサラと髪を撫でる音と、びちゃりと血の滴り落ちる音だけ。
しばらく、長い時間、耳を傾けた。
サラサラ、びちゃり、サラサラ、びちゃり、びちゃり、びちゃり、びちゃり。
ドクン。
音が、聞こえた。
「……めるな」
「ん?なに?なに!なんでも言って!何が有っても絶対に麗花を幸せにしてみせーーーー」
次の瞬間、瞬きから目を開けば、私は目の前の男を殴り飛ばしていた。
衝撃で男の指輪が外れてコロコロと私の足元に転がり、それを全力で踏み潰せば、みるみる男の顔が青ざめていく。
あぁ、最初からこうすれば良かったのか。
「え、…は?」
「私の幸せを勝手に決めるな。」
足音、声、匂い、空気。
全てが男の記憶の奥深くに刻み込まれるようにゆっくりと近づく。
「ひっ、く、くるな!」
男がプレゼントと、腕に投げつけ刺したナイフを快く受け取り、抜き取れば、父からもらったスーツに噴き出すそれが付着した。
「私の望むものをくれると言ったな」
プレゼントをそっと、男の首元に近づける。
「私が好きなのは、純白のドレスでも桃色のスカートでもなく」
「俺は……お前を幸せに……できたのに……」
躊躇うことなく首に突き刺し、母からもらったネクタイに見慣れたそれが付いた。
いらない刺繍は、もう見えない。
「紅に染まる、自分自身だ。」
再びシンと静まるその空間に温かさと優しさはもう、何処にもなかった。
ーーーー脱出するために外への鉄格子をこじ開けていれば、警察を呼ぶサイレンが鳴る。
焦りを必死に抑えつけナイフを動かし、なんとか鉄の柱を一つ切り落とす。
部屋を飛び出し、サイレンで赤く染まる長い廊下を駆け出して行く。
荷物はほとんどない、この先どうするか、そんな不安は札束の重みがかき消した。
血まみれの手で現金を掴み、バッグに詰め、走った。
もう立派な犯罪者だな、でも。
「…ふふふ、あははははー!」
走る、走る、走る。
気がつけばそこは街を見下ろせる小高い丘の上。
遠くで朝日が昇り、紅の光が、ゆっくりと世界を塗り替える。
「…よし!」
空気を大きく吸って、吐き。
男から奪った外套を身につけ、壊れた指輪を指に通し、着ていたスーツとネクタイを幸せへと、投げ捨てた。