分裂病者の夢
えっちな場面はないよ。
分裂病にむしばまれた僕の全身――その日はいつもにましてひどかった。夢のなかにいるのか、現実にいるのかわからず、ただ空腹と喉の渇きに導かれて階下へ降りていた。
食卓には、母たちが食べた朝ごはんの残り物が置かれたままだった。僕は手の付けられていない皿を選んで食べ物を口に入れた。何を食べているのかはわからなかった。味もほとんどしなかった。
僕の動きはただ魂に基づくもので、理性はいうまでもなく、狂気すらないように思われた。ただしその魂は、震えも熱も知らない魂で、輪郭と、輪郭をなぞる鈍い感情があるだけだった。
思い出ばかりが僕の頭の中を巡っていた。いましていることも、いまここが現実なのかも判然としないのだが、おかしなことに、ひっきりなしに流れる思い出だけは、僕が以前にたしかに経験したことだと確信することができた。しかしだからといって、いまの世界が現実であるとは言い切れなかった。現実に経験したことを回想しているならば、回想している僕が現実を生きていると確信できるだろうか? 現実の夢と現実を区別するのに、思い出の確かさが根拠になるだろうか?
戸外で自動車の音がするのをなんとなく聞いていた。その音が近づいて、家の前で止まっても、僕は死んだように無感覚になったままで、口に含んだ食べ物をただ噛んでいた。
父が家に入ってきて、僕に声をかけた。ソファにバスタオルのようなものを投げて、僕に何かを質問した。僕は返事といえるような返事をせずに、鈍重に首を動かして、父に頷いた。父が帰ってきて、なにかを喋った、ということだけしか認識できなかった。
食べ物の味は依然としていなかった。口に含んでいたものはなくなっていたが、嚥下したのか、不快になって吐き出したのか、それすらもわからなかった。昨夜に血を流した足の親指も、いまは痛みを感じなかった。
すべてが面倒に思った。どうして階下に降りてきたのだろう? ずっと寝ていればよかったと思った。
いまから寝よう。ぐったりとベッドに身を落下させれば、あとはもう夢のなかだ。夢と現実の区別がつかない世界にいるよりは、夢とわかる世界にいた方がはるかに心地が良いはずだ。
なにか大事なことがあったような気がするが――いやたしかにあるはずなのだが――そうしたこともいまの状態ではどうすることもできない。ひとねむりすれば、すっきりするかもしれない。頭が冴えわたって、眠気もなくなり、分裂症患者を囲んでいる自閉の鎖から自由になれるかもしれない。
時間の観念も怪しくなっていた。父が来て、いつのまにか母と妹が帰ってきていた。妹がおかえりと僕に言った。妹の方から話しかけることはほとんどないので、やっぱりこれは夢なんだと思った。母が妹に僕のことについて質問した。それも普段にはない光景だった。
いつのまにか姉も帰ってきていた。大森に一人暮らししている姉が平日に帰ってくるのは珍しかった。それとも、今日は平日ではないのだろうか? 土曜か日曜だろうか? 平日でも日曜でも、なんでもおかしくはないように思った。
姉が僕に話しかけた。僕はふわふわした心地のまま返事をした。上手く声が出なかったように思ったのだが、意外にも僕はまともに返事をしたらしく、姉はごく普通に反応した。
姉との会話がしばらく続いた。会話は成り立っているみたいなのだが、僕はなんと答えているのかわからなかった。自分自身が喋っているという感覚がなかった。
姉との会話が済むと、僕は痛いはずの左足の親指の爪を触った。感覚はほとんどなかった。しかし治っているわけでもなかった。
親指をちょうど半分に割る形で、亀裂が入っている。昨夜の判断では、この亀裂は肉にまで至っていて、完全に親指をまっぷたつにしているにちがいなかった。かろうじて2つに分かれないでいるのは、爪によってつながっているからだった。
昨日、触ってはいけないとわかっているにもかかわらず、好奇心から、爪をはがそうといろんな方向にひっぱってみた。かなりの痛みが走ったが、結局爪ははがれなかった。
いまでは痛みもなくなっていた。
少し引っ張ってみると、爪がはがれ、親指が半分取れた。肉が裂けているのだから、相当な出血が始まると思ったが、一切なかった。親指の断面は赤黒くて、蟹の脳みそのような模様になっていた。取れた方の半分にも、いまも足にくっつている方の半分にも、埃がついていて汚かった。どちらも僕の体の一部には感じれなかった。
割った半分をじっくりとながめた後、母に「ねえ、みて、足の指が取れた」と言った。母はどんな反応するだろうかと思った。病院に行けというだろうか? 取り乱すだろうか?
僕の声は上手く発せられなかったようで、もう一度声をを出さなければいけなかった。今度は、母は僕の声に気がついたようだった。
しかし、やっぱりなんといったかわからなかった。
僕は、取れた足の親指ばかりを見つめていた。




