プロローグ
夕焼けが大地に差し込む時間帯、その公園では長くなった人影が幾つか動いていた。
今時の子供なら塾で忙しいか家でTVゲーム、もしくはスマホを弄るか五月蝿い親の目を盗んで無料で使える通信電波のある場所に集まっての携帯ゲームが多い印象だが、昨今の安全意識の強さから排除されている遊具が未だに多く残っているこの公園では親に叱られる時間まで遊ぶ子供の姿があったのだ。
網が少し破れてボードに錆の浮いたバスケットゴール前でボールを追い掛ける少年達、それを時々羨ましそうに眺めながらも幼い妹のおままごとに付き合っている少年、ひたすら滑り台と数人乗りのブランコを往復する少女等々、その中の誰かの面倒を親から言い付けられたのかベンチに座っている女子高校生は参考書を横に置いてスマホを眺めるのに夢中な様子。
故にとある事が決定付けられる。
古びていて遊ぶ度にキィキィと金属が軋む音が鳴る遊具、忙しなく動き続ける少年達、そして伸び放題荒れ放題の雑草の隙間から時折頭を覗かせている今や手入れする者も居ないであろう放置された古びた祠。
もう帰ろう、そろそろ時間だ、誰かがそれを口にすれば赤の他人でも釣られて帰るであろう時間帯に長く伸びたそれら影の先、其処から真っ黒な手が姿を見せている事に。
黒い腕とは言っても黒人の肌とは別物で、質感に生物らしき物は感じ取れず、何重にも墨を塗りたくった石像や彫刻の類いの無機質な物。
それを目にした物は悪趣味なオブジェだと不気味がっても大体の物は直ぐに興味を無くすだろう。
その腕が指先を尺取虫の様に動かして前進し、影の中から肘の無い腕が伸び続けていなければ、の話だが。
「気を付けなさいよー。この前熱中し過ぎて膝を遊具にぶつけて怪我した子が居るんだから」
「はーい」
息抜きは終了とばかりにスマホから目を離した女子高生は参考書を広げ、バスケットボールを追い掛けるのに夢中な少年達の一人に呼び掛ける。
この場の誰も黒い腕を意識していないのか……若くは見えていないのか腕が公園で遊ぶ子供達に近付いて、その中の一つがシュートを決めながら姉らしき彼女に返事をした少年の足首に触れても誰も反応しない。
触った腕が掃除機のコードを巻き戻すかの様にシーソーの影の中に戻って行っても誰も目で追わず、触れられた少年の足首に掴まれた跡が真っ黒く残っているにも関わらず誰も騒ぎもしない。
何事も無かったかの様に地面を跳ねるボールを追い掛けてキャッチした少年は公園の時計に目を向けて、未だ遊んでいられると思った所で動きを止める。
何か大切な事を忘れてしまっている、それを思い出そうとした彼の視界に入ったのは姉が再び眺め始めたスマホ。
その瞬間、少年は慌てて体の向きを変えた。
「あっ! 今日はゲームのイベントが始まる日じゃん! 姉ちゃん、急いで帰……痛っ!?」
急に振り返って動こうとしたからだろう、剥き出しの地面の窪みに入れてしまった足を中心にバランスを崩して少年は転んでしまったのだが、その時に響いたのはグキリという嫌な音。
「もー! だから言ったじゃない。お母さんに怒られるの私なんだからね!」
足を捻って今にも泣き出しそうな弟に文句を言いながら近付く彼女だが、スマホはベンチの上に放り出しているし、声にも怒られる事への不満よりも不注意から怪我をした弟を心配する気持ちが感じられる。
「ほら! おんぶしてあげるから帰って湿布でも貼るわよ」
「……うん」
「もう暗くなるし、君達も早く帰りなさいよ。じゃないとこの馬鹿みたいに怪我しちゃうんだから」
側から見ていてほのぼのしそうな姉弟仲の良い光景。
弟を背負った彼女はベンチの上に置いた荷物を適当にカバンに詰め込むと残った子供達に声を掛けて公園から去って行き、それを切っ掛けにして残りの子供達も解散した。
もう、公園には誰も居ない。
子供達が帰って三十分程経った頃に雨が降り出したから夜の散歩に少し遠出してこの場所まで来る者も居ないだろう。
だから、例え見えていたとしても黒い腕には誰も気が付かない。
そもそも黒い腕は子供達が帰るよりも前に影の中に戻っていたのだから、何かの拍子に誰かの目に映る事も無いだろう。
足を挫いた少年に触れた時の様に残った黒い腕の全てが彼の姉の首に触れていた事をその場の誰も知る由が無く、次の日の早朝に起きた事を結びつける筈がなかった。
次の日の朝に彼女が階段から転げ落ちて首の骨を折って死んだ事を公園での出来事と結び付ける事をその場に居た誰もする筈が無い。
唯運が悪く彼女が亡くなり、その瞬間を犬の散歩から帰った少年が目撃しただけの悲劇として処理して、公園の遊具の影から聞こえる笑い声等、公園で遊んでいた誰もが耳にする筈が無かった。
「絶対に面倒を見るって、本当に見てたら私の面目丸潰れじゃないの」
受験勉強をしていたのか彼女は徹夜明けの顔を二階の窓から覗かせて二匹の犬の散歩に出る弟の背中を眺めていた。
一匹は彼女が拾って来た犬で、面倒を見ると言って飼う許可を得たのだが、今は散歩は祖父と母と弟の役目となっており、二匹目は同じ事を言いながら弟が拾って来た犬だ。
「未だ遅刻ギリギリの出発時間まで二時間あるし……」
トイレを済ませた彼女は睡眠時間を稼ごうと自分の部屋へと向かい、その途中で階段の前を通り過ぎようとして……誰かに引っ張られた。
「……え?」
彼女が見たのは階段の僅かな影から伸びる黒い手が自分を掴んでいる光景。
咄嗟に手摺を掴もうと伸ばした腕は叩き落とされ、頭を庇おうと伸ばせば引っ張られる。
「お姉ちゃん……?」
散歩から帰った弟が見たのは受け身すら取れずに頭から階段を転がり落ちて首の骨が折れ曲がっている姉の冷たくなった姿であった。
ヒヒヒ、ケケケケ、アハハハッ!
彼女の家族が寝ずの番をして蝋燭の灯りと線香の煙を絶やすまいとする中、その一家に降り掛った不幸を招いた黒い腕達は楽しそうに笑い続ける。
本来ならば爪がある部分が周囲と一切変わらずツルリとしているが、肉と爪の間の辺りには裂け目が存在した。
そこだ、そこに在るのだ、この化け物の口は。
不揃いでガタガタの歯も真っ黒で、同じく黒い舌の長さは口のサイズに相応しい物の二倍もあった。
五本指の一本一本に存在する口が不揃いに笑い声を上げ、笑いを堪えるかの様に手は地面や遊具を何度も叩く。
それが公園の至る所から生えた腕からなのだから不協和音と化すも、それを常人が認識はしない、出来ない。
存在を知覚不可能だからこそ避けられない災害、姿が見えていれば、声が聞こえていれば、そうだったならばこの様な異形の化け物から遠く離れて手出し不可能な場所まで逃げ仰せただろう。
『次ノ玩具ハナァーニ? ケヒヒヒヒ!』
それが出来ないからこそ起きたのが今回の悲劇であり、これから起きるであろう悲劇達。
誰も危険を察せず、成す術等は存在する筈も無い。
見えない聞けない触られても気が付けない、それはつまりは一切の抵抗の手段が、立ち向かう為の力なんて誰も有して居ないという事なのだから。
「五月蝿ぇ。夜中に騒ぐな。聞こえなくても何か感じる奴は感じるんだよ、潰すぞ」
……僅かの例外を除いて。
月が雲で半分以上覆われ、少し離れた場所の街灯が頼りなく周囲を照らす中、その少年は不愉快さを隠そうともせずに公園の敷地に足を踏み入れた。
聞こえない筈の声を聞き、見えない筈の姿を捉える相手の存在に黒い腕達の嘲笑は一斉に止み、目など存在しない手の平を彼に向ける姿はその場所に本当に目があるかにさえ思えて来る。
年齢は高校生程度だが、その身長は平均を越えて高く百八十五やや上程度、ジャージとタンクトップという動き易い服装の下の肉体は逞しく鍛え上げられており、過剰に膨らんだ魅せる為の筋肉ではなく格闘家やスポーツマンの引き締まった動く為の物だった。
それらだけでも特徴的なのだが、彼を目にした者達の印象に強く残る場所は別、その長い間鍛え上げて得たであろう肉体よりも強く記憶に刻まれるのは彼の瞳、有り体に言ってしまえば目付きの悪さだ。
顔の作りは良い方であるが、本人に威圧の意思がなかったとしても気弱な者なら正面から見られただけで身を縮込ませるであろう鋭い目、その背丈の大きさや逞しい肉体、オールバックにした針金の様な黒髪と、彼を何かに例えるならば仏像、それも四天王や風神雷神の類い……とまで言ってしまえば本人から何かしらの抗議の声が上がりそうではある。
『玩具! 玩具ダァ!』
「……気に入らねぇ」
尤も、幾ら厳つく鬼神の如き強面であろうとも、それで臆するのは人か一定以上の知能を持った獣だ、少なくても人とは理を別とする化け物には意味が無い。
新しい獲物が現れたと間の声を上げたのは一番近い位置に居て、尚且つトイレ横の水の出が悪い手洗い場の真下に潜んでいた個体。
待ちきれないとばかりに叫んで飛び出した時、その姿は更なる異形となっていた。
『ヒヒ、ヒヒヒヒヒッ!』
指の股に発生した目の粗い裂け目が手首まで届き、ズタズタの断面を持つ長くなった指は一本一本が別の個体である様に激しくうねりながら少年の右腕に巻き付いた。
腕に絡み付いて収縮、ゲタゲタと笑いながら力を込め続ける姿は獲物を締め上げ骨をも砕く蛇を思わせ、指が力を込めた三秒後には肉が軋み骨の砕ける音と共に響き渡ったのは甲高い絶叫。
『ギィヤァアアアアアアアアアアアッ!?』
響き渡ったのは人間の物ではない耳障りな叫び声、肉の軋む音も骨が砕ける音も少年の腕ではなく、少年に掴まれた黒い腕からだった。
絡み付いた腕の手首を少年の手が掴み取り、食い込んだ指が黒い手の肉に食い込んで行く。
その力に黒い手の指が少年の腕から離れ、必死に逃れようとするも微動だにせぬまま彼の指は更に強く食い込んで、掴まれた部分は他の部位よりも二割以上細くなっていた。
「本当に気に入らねぇよ」
『痛イ痛イ痛イッ!』
ポツリと呟いた少年の顔に浮かぶ感情は怒り。
同時に彼の腕からごく微量のオーラが漏れ出すと更に力が強まって行く。
黒い手は必死に逃れようと身動ぎしながら叫ぶも指は肉と骨を押し潰して食い込むばかりで、その光景に臆したのか他の手はその場から動けずにいた。
彼が強く奥歯を噛み締めた音が静かに響き、そして折れた骨が砕ける音と共に黒い手は灰になって生暖かい風の中に消えて行く。
それは動かずにいた他の手も同じで、悲鳴の一つも上げる事無く鏡に映った虚像の様に指先から灰になって風に飛ばされて消えた。
残ったのは虫の声すら聞こえない静寂、そして剰りにも呆気ない終わりに拍子抜けといった様子で深く息を吐き出し肩を落とした少年の姿だけ。
「マジか。まさか本体が速攻で仕掛けて来るなんてな」
何処か呆れ果てた様子の彼はジャージのポケットからスマホを取り出して何処かに掛ければ、ワンコールで真面目そうな青年に繋がった。
「すいません倉持さん。下級妖魔の討伐依頼完了しました」
『お疲れ様、大和君。迎えと後処理を向かわせるから待っててくれるかい? ……この間みたいに補導されかけないようにね』
「あれは野犬に追われていた子を助けた時に派手に動いたからですよ。この辺のお巡りさんは仕事熱心だから普段なら助かるんですけどね。じゃあ、遊具の影にでも隠れてるんで」
通話を追え、パトロール中のお巡りさんに見え辛い場所に移動しようとする少年……大和。
その姿を草むらと祠の影に隠れた黒い手が息を潜めながら見ていた。
玩具と侮り、今や驚異となる相手と恐怖する存在が離れていくのを観察し、ホッと安堵の息を漏らす。
『アガッ!?』
その体の中心を少年の指先から弾き飛ばされた礫が撃ち抜き、今度こそ黒い手は完全に消滅したのだが、それを成した彼の表情は暗い。
「本当に気に入らねぇんだよ。誰かに被害が出てから漸く下級妖魔なんぞに気が付くテメーの無能っぷりがよ」
そのまま大和は物影に隠れて迎えの車を待ち、少し眠そうな顔で一軒家まで帰って行った。
直ぐ隣の神社の塀の上では数匹の猫が彼を見張る様に眺め、家に入るのを見るなり境内へと消えて行く。
そして大和が玄関の戸を開けると其処には……艶のある黒髪を伸ばした着物姿の少女が三つ指ついて待っていた。
「お帰りなさいませ、随分と雑魚に手間取った様で御座いますね。汗で気持ち悪いだろうと着替えとお風呂の支度をわざわざしていますので臭い汗をお流しになってはどうでしょうか。それとも……我の夜伽を命じましょうか?」
尚、この言葉の最初から最後まで彼女は不機嫌を隠す気が皆無であった。
絵は和服女子メーカーにて作成 次回は明日十二時投稿予定です
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