4.傲慢
どんなに言葉を尽くしても言い表すことのできない美貌。表情をそぎ落としたイーラはまるで人形のように無機質だった。
扉をぶち破って入ってきた驚きよりも、その圧倒的なまでの存在感に時すらも凍り付いたようだった。
「――名もない街にもルールはある。
知らなかったでは済まされない。なぜならそれは、お前のような弱者が身を守るためのものなのだから」
止まった世界を動かしたのは、昏く深い怒りを宿した声だった。
こつり。革靴が一歩、床を踏み鳴らした。
散らばった破片すらも彼のために道を開けるのでは、と思うほどに神々しく、威圧的に響いた。
先ほどまで興奮しきった様子で私を踏みつけていたロッシが、息をするのも忘れて青褪めた顔のまま膝を震わせた。
そのまま腰が抜けたように倒れ込む。そのおかげで強張りが解けたのか、慌てて手足をばたつかせて部屋の隅まで逃げ退った。
どんなに逃げたくとも、この小さな部屋の出入り口は先ほどイーラが蹴破った扉一つだけで、窓すらない。ロッシは追い詰められた鼠だった。
きっと何が起きたか理解どころか考える事すらできていないのだろう。ロッシの強張った顔には恐怖と驚き、困惑、焦り、怒り、様々な感情が混ざり合っていた。
憤怒の名を冠する絶対的な力の前に立つには、この男はあまりにも矮小すぎる存在だ。
展開を知っていた私ですら、イーラがここまで激怒した状態で来るとは思わなかったので、何も知らないロッシからすれば突如として天災に見舞われたような気分だろう。
新天地での足場固めや収入源の確保のために動いた結果としては、あまりにも重い罰だと思うかもしれない。理不尽だ、と。
けれどそれがこの街だ。
理不尽で残酷な名もなき街。
管理する者はなく、捨てられ、忘れられた街。
捨てられ、忘れられた者たちの集まる場所。
法も適応されないこの街で、少しでも安全に生きたいのなら、権力者と呼ばれる七人に関わるべきではない。
関わってしまったのなら、怒らせてはいけない。
怒らせてしまったのなら、諦めるしかない。
理不尽な街の、理不尽な存在。
傲慢。
憤怒。
強欲。
怠惰。
嫉妬。
暴食。
色欲。
街の住人が畏怖を込めて呼ぶ彼らの名は、唯一絶対の秩序に等しい。
そして憤怒は秩序の番人でもある。
「お前の罪は無知だ」
イーラの唇が裁判官のように罪状を告げる。
慈悲を願う事すら許されない酷薄さがその声にはあった。
ロッシは何も言えなかった。
何か一言でも――それが反論であっても、意味のない呻き声であっても――声を出せば、それだけでイーラが不快を理由に命を摘み取るだろうと、本能で察したのだろう。
こつり。こつり。ゆったりとした速度でも、長い脚は狭い部屋をすぐに征服してしまう。
そうして部屋の隅にへばりつき、本能的な恐怖に顔色をなくして震えるだけの愚かな罪人の前に立ちふさがる。
「街で唯一の治癒師。誰もがその力を望んだがゆえ、誰もがその命を失った」
歌うようにイーラが語り掛けるたび、ロッシは縮み上がっていくようだった。
吸っても吸っても足りないとばかりに呼吸を荒くし、冷や汗と共に涙を流しながらも恐怖から目を逸らせないでいる。
目を逸らしたら、瞬きをしたら、その瞬間が最期になってしまうと思っているようだった。鼻を突いたアンモニア臭からもロッシが極度の恐怖に襲われているのが察せられた。
イーラが僅かに眉を寄せた。
彼の足が上がる。
そのまま降りた足がロッシの腹を踏み潰した。
反射的に飛び出た声はあまりにもひしゃげすぎていて、悲鳴ともえづきとも判別がつかなかった。
もう一度、イーラが足を上げる。
腹を抱えて蹲るロッシには見えていない。
踏み下ろす。
今度は後頭部を垂直に踏み抜いた。
自ら汚した床板に顔面をめり込ませて、ロッシはピクリとも動かなくなった。
「生と死を施す魔女。他者の命を弄ぶことを許された傲慢な女」
こちらを振り返ったイーラは、すでに今踏み潰したばかりの人間への興味をなくしたようだった。
いや、最初から興味などなかったのだろう。
ただ不快感だけを覚えていて、ひとまずの解消を得たのだ。
こつり。
人の腹を踏み潰した革靴が目の前で音を鳴らして止まった。
目の前に立つイーラが痛みで声も出せない私を見下ろす。
長身の上、逆光でその表情は読み取りにくいが、その瞳は怒りに燃えていた。
炎というには生ぬるく、粘度の高い怒りが煮え滾っていた。
まるで騎士のように片膝をついたイーラが、恭しく私を抱き起こす。
「傲慢、あれに望む罰はあるか?」
毒のような声が、甘やかに耳元で囁いた。
私が望めば、きっと彼は想像すらできないほどの残虐さでロッシに罰を与えるだろう。
犯した罪に対して相応しいかなど関係ない。均衡はすでに失って久しい。
背を支える腕が力強く私を抱きかかえる。
イーラの長い指が、腕にぎちぎちと食い込んだ。
――いや、これはちょっとお待ちいただきたい。
「ちょ、折れる折れる! イーラ、痛い! 離して!」
散々踏まれてひびが入っているだろう腕に、とどめを刺す気としか思えない。絶対にやめてほしい。
「上書きだ。俺という痛みを骨の髄まで刻み付けて、忘れさせてやる」
そんなとち狂った上書き方法は望んでいない。
というかこの男、折る気満々である。なんでだ。怪我人に対する思いやりや慈悲の心をどこへ捨ててきた。
「スペルヴィア……ジェーン、捥がれるよりはましだろう?」
「ぴぇ……」
腕を折るどころか捥ぐ気だったことに震えて、悲鳴にもなりそこなった情けない声が漏れた。
私はいま、拉致監禁されて暴行と脅迫を受けたばかりの被害者のはずである。
なのになぜ更なる脅迫を受け、腕欠損の危機に瀕しているのだろうか。というかイーラの理論でいくと、腕だけでなく腹も抉られかねない。殺す気はさすがにないはずだが、死なない程度に抉られる可能性は否定できない。
この男は主人に逆らうと心臓が潰れる隷属魔法の発動より早く、その身一つで主人を噛み殺し、顔を穿ち、肉を引きちぎり、腹を抉って臓物を引きずり出してなお、納まらない怒りを持て余し全身の骨を砕いた。
強力な制約を課せられてなお、死の痛みと恐怖すら怒りの元として凶行を成す男だ。
何の制約もない私に対して、加減や遠慮などあるはずもない。
この部屋で目覚めたときにも感じなかった死の恐怖を、助けに来たはずのイーラに感じている。支え守るために回されたはずの彼の腕が、私を処刑するための断頭台に思えてならない。
「私の腕を折ったら、治るまで誰があんたの治療をするの?」
「大丈夫だ、君が治るまで俺は怪我をしない。何なら君の腕の代わりになろう」
これまでわざと怪我をしていたことをさらりと認めて、イーラは名案とばかりに笑みを浮かべた。
血迷っているとしか思えない。
「治ったとしてももうあんたの治療なんてしないから……」
「そうか、なら腕を捥いで俺以外の治療もできなくしないと、不公平になってしまう」
不公平とは。
「ついでに脚も捥いでしまえば安心だ」
安心とは。
私は不安しか感じていないのだが。
絶句した私の腕や足を撫でたイーラの向こうから、「もぉいーい?」と独特な甘ったるいしゃべり方の声が聞こえた。
イーラの肩越しに見れば、ぶち抜かれた壁をきゃっきゃと手を叩き鑑賞している少女姿のルクスリアがいた。
「ルクスリア?」
「さっきはありがとぉ。スペルヴィアちゃんのためにぃ、一肌脱いじゃおっかなって♡」
えへっ、と手を頬にあてながら首を傾けるルクスリアの横から、先ほどまで往診の手伝いをしてくれていた調教師が現れた。
部屋に入ってきた彼は慣れた手つきでロッシの首と手に枷をはめ、それぞれを鎖でつないで拘束すると、首の枷から伸びる別の鎖を持ち、そのまま部屋から出ていく。
どうやらロッシは気絶しているだけだったらしい。
遠慮も配慮も一切ない、力ずくの連行だ。
「彼とその仲間はぁ、みぃんなアタシの商品にしちゃいまーす☆」
そう言ってピースサインとウィンクでポーズを決めたルクスリアに毒気を抜かれたのか、腕にめり込んでいたイーラの手はただ添えられているだけになっていた。
「ルクスリア、待って。イーラ、立たせて」
ずるずると無抵抗のまま床を引きずられていくロッシを引き留めるべく、ルクスリアに声をかけた。私の足を撫でていたイーラの袖を引いてねだれば、彼は素直に手を貸してくれた。
イーラに腰を支えられながら床に転がるロッシに近づく。
絡まれるのも拉致監禁も、初めてではない。こんな街でこんな力を使っていれば、この程度は当然起こりえる事として想定している。
だから今回もアヴァリティアからの警告を受け、事が起きた際のためイーラに救助を要請し、ルクスリアに後始末を依頼していた。
対応だって慣れたものだ。
私はこの街で唯一の治癒師。
死ぬはずだった者を生かし、生きるはずだった者を死なせる魔女。
人の生死の運命を弄ぶ、傲慢な女。
だからこそ、私は中立でなければならないと、この街で治癒師として生きていくと決めた時に誓った。
見下ろしたロッシを今の私の渾身の力で蹴り上げた。
意識のない重い体が揺れたが、体勢を変えるほどではなかった。私のつま先は痛いし、動いたせいで腹と腕も痛い。何なら体力の限界でふらついてイーラに全身でもたれ掛かってしまった。
それでもなけなしの魔力を捻り出す。
イーラに踏み潰されて損傷しているだろう内臓を治療した。
――そしてそのまま意識を手放した。
気づいたら、自分の家の自分のベッドだった。視線を巡らせてもいつもと変わらない、私の部屋だ。
見慣れた自分の家の寝室。拘束されていないが、痛いところだらけ。でも意識ははっきりしている。
体力と魔力は回復しているが、蹴られた腹とひびの入った腕やあばらは痛い。手当として薬を塗られているようで、薬草の青臭いにおいが鼻を突いた。
「起きたか」
「……おはよう」
窓から差し込む光は、朝日というより夕日のようだったが、それでも起床の挨拶が口から出た。
ずきずきと痛む身体を無理に起こす気になれず、ベッドに寝たまま視線だけをイーラに向けた。
彼はいつものように上等なシャツのボタンをいくつか外し、いつか二人で赤と白のワインを飲み比べたのと同じ席に座ってこちらを見ていた。
なんだか酷く疲れ切ったような、憔悴した顔をしている気がして、怪我のない方の手を伸ばす。
椅子から立ち上がったイーラが数歩で距離を詰め、ふらりと崩れ落ちるようにベッド脇に膝をついた。伸ばした私の手を、指の長い、大きな手が包み込む。いつもより冷たい手だった。
よく見れば目元にはうっすらと隈ができていた。疲れた顔に見えたのはこのせいだったらしい。
「変な顔」
「初めて言われたな」
そりゃあそうだろう。絶世の、と称しても過言ではないどころか、そんな言葉では不足しているようにすら思えるほどの美貌を持つ彼だ。その見目を褒められたことはあれど、変などと言われたことがあるとは思えない。
「寝てないの?」
「眠り姫を守る騎士だからな」
そう言ってシーツに散らばる私の髪をひと房掬い取って、口づける。
あまりにも気障で笑ってしまったが、気品と色気を兼ね備えたこの世のものとは思えない美しい男なので様にはなっていた。なりすぎていたともいう。
「王子様が起こしに来る前に起きちゃったわね」
「来てほしかったのか?」
手に力がこもる。
せっかく無事だった手だというのに、軽口で骨を粉砕されては堪らない。
「乙女の寝室に無断で入るような王子はごめんよ」
握りつぶしそうだった手から力が抜けた。
そのまま指を絡めとられて一本一本、形を確かめるようになぞられる。労わっているつもりだろうか。
「無断で入る騎士は?」
「仕事熱心なのは素敵ね」
くすぐったさに耐えかねて、イーラの手を今度は私から握り込んだ。
伯爵令嬢時代も、王子様より騎士様に憧れていたのを思い出す。
大きな手はいつものように温かくなっていた。
「仕事熱心な騎士には褒賞を与えるべきじゃないか?」
するり、と手を解かれたと思えば、離れはせずに掬い取られる。
いつの間にか片膝をついたイーラは恭しく手の甲に唇を押し付け――そのまま薄い皮膚に歯を立てた。
忠誠を誓う騎士のように振る舞ってみせておきながら、こちらを見上げる目に忠誠心などちらりとも見当たらない。
与えられるものに興味などないくせに。
手の甲に牙を立て、強奪者は褒美をねだった。
奴隷に堕ちてからは復讐のみを心の支えに生きてきた彼は、それを奪った主人に怒り狂い、噛み殺した。殺しても殺し足りずに亡骸を甚振って。
主人はただ、美しい最愛の奴隷のために望むものを与えてやりたかった。それが逆鱗に触れるとは思いもしなかったに違いない。
「ご褒美のためにお仕事したのかしら」
「実利的なんだ」
打てば響く、というよりもこう言えばああ言う、と表現する方が適切だろう会話を重ねて本意を探ろうとしてみても、妖艶な笑みを浮かべたイーラはまるで考えを読ませてくれなかった。
「ご褒美は何が欲しいの?」
結局わからなくて、直接聞くしかできなかった私に、イーラは目を細めた。彼が満足しているときの表情だと、最近気づいた。
「そろそろ名前を教えてくれてもいいんじゃないか? ジェーン・ドゥ」
「……随分と謙虚なおねだりでびっくりしちゃった。
ならあんたも教えてくれるのかしら? ジョン・ドゥ」
もったいぶったわりに大したことのない、褒美にもならない褒美を求められてなんだか気が抜けてしまう。
いったい何をねだられるのかと、警戒していた私がばかみたいじゃないか。
「もちろん、君が望むのなら」
上機嫌に頷いた。
無駄に色香を振り撒くくせ、不意に幼い仕草を見せるのはなんだかとてもずるいと思う。狙ってやっているわけではないようなのがまたずるい。
「謙虚すぎてなんか怖いんだけど……、ツケの支払い以外で来るのも許してあげるわ」
ずるい男に騙されている気がしないでもないのだが、それでもまぁ良いかと思ってしまったのが私の敗因だろう。
いや、これはただ手持ちがないなんて嘘までついて次の約束を取り付け、来るたびにわざわざ大怪我をしてまでツケを作る、彼の手間を省くだけの話だ。
私に会うために怪我をされるんじゃ、良心がちくちくと痛むのだから仕方ない。
金づるを逃すのは大変惜しいが、これはもう仕方がないのだ。
「――」
「――」
初めて口にした彼の名前の響きが、唇に馴染んでしまうのだから。
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