1.憤怒
「――は?」
その日、いつもの定期往診を終えて夜半過ぎに帰宅した私は、明らかな厄介事の出現に魔力不足で鈍く痛む頭を抱えた。
華やかな王都の裏、掃き溜めのような貧民街のさらに奥。かつては王都の一区画だった名もなき街。
元は整備された美しい街並みだっただろうに、建ち並ぶ廃墟は切れかけた街灯にぼんやりと照らされて影を崩れた石畳の道に落とすだけ。
王都の住人は貧民街の存在は知っていても、この名もなき街のことまでは知らないだろう。
誰も知らない、あるはずのない街。
そんな場所に集まる人間など、みんながみんな後ろ暗いところのある奴ばかりなのは当然のこと。
だから家の前に血塗れの男が倒れていたって別に驚くことじゃない。
面倒ではあるけれど、これも飯のタネと思ってなけなしの魔力を練り上げ、こんな時のための最上級呪文を唱えた。
「時間外労働分の報酬上乗せ……!」
元は王都にある教会で治癒師として働いていた私の今の肩書は違法治癒師――要するに教会の粛清対象のお尋ね者である。
常に暴力がつき纏い、死と隣り合わせのこの街であろうとも、生きていくには金が必要で、金を稼ぐには働くか奪うしかない。奪う力のない私が金を稼ぐためには、この忌まわしい治癒魔法に頼る他なかった。
すでに没落し、もう知る人もいないだろう伯爵家の一人娘として生まれた私であるが、それも十歳までの話。商才もなくお人好しが過ぎる父が人に騙され、家も財産も何もかもを失い平民となった。
両親と私、三人で身を寄せ合い、貧民街にほど近いボロ小屋のような小さな家でその日生きるための金を必死で稼ぐ生活の始まりである。慎ましくも家族三人仲良く暮らしていたので、思い返せばそう悪い暮らしではなかったかもしれない。
けれど、荷運びの仕事中、父が積み上げた荷物の下敷きとなり、右腕に麻痺を負った。稼ぎ頭だった父が働けなくなり、母が代わりに仕事を増やした。当然のごとく過労で倒れ、風邪をこじらせ肺炎となり起き上がる事さえ難しくなるのにそう時間はかからなかった。
両親が働けなくとも腹は減るので、私が稼ぐしかない。とはいえ十歳そこらの女児にできる程度の仕事と、それで得られる報酬など高が知れている。当然すぐその日食べる物にも困り、母の薬を買うこともできず、飢えた。飢えて飢えて、明日にでも私たち一家は天に召されるのだと覚悟すら決めた。
その時、なんの因果か私が治癒魔法に目覚めたのである。そりゃあもう驚いた。神様はいるのだと、平民になってからは祈るどころか存在すら忘れていた神に感謝した。
私の治癒魔法により、僅かな痺れは残ったものの、父の右腕が再び動くようになった。土気色の顔でひゅうひゅうと喘ぐだけだった母が起き上がり、元の美しい笑みを浮かべるようになった。
そんな奇跡のような出来事に家族三人、涙を流し喜んでいたところに雰囲気どころか実際に家をぶち壊してやってきたのが教会の聖騎士たちである。
この国では魔法は貴族のみに発現する大変貴重なものとされていて、私のような元貴族の平民がさらに特異で神聖な治癒魔法を発現させてしまうのは少々具合が悪い。なんせもうどこからどう見ても貧乏で小汚い平民――というより貧民に近い小娘なので。
家族共々教会へ連行され、善意の近隣住民が教会へと違法治癒師の存在を報告した経緯を聞き、違法治癒師は誰かと問われて諦めと共に手を挙げた。
どうせ最初からわかっているくせに、いやらしい連中だと内心で唾棄する程度には私は見た目だけでなく中身まですっかり平民に染まっていた。
元は貴族の生まれであることを考慮し、治癒魔法の違法使用は不問に処する。ただし、罪を雪ぐべくその身を教会へと捧げ、神へ奉仕せよ。――つまり、一家全員の処刑を免除してやるし衣食住は提供してやるので、無期限・無報酬で治癒魔法を使えとのお達しである。衣食住の提供とは名ばかりの監禁で、私が断れば両親共々即処刑。
やっぱりこの世に神などいない。クソが。などと内心で悪態をつくしかできない無力な少女だった私は、ぼろ雑巾のようになるまで両親の処刑を防ぐべく教会でこき使われたわけである。
衣食住のうちまともに提供されたのは住だけで、それも平民には似合いだと嘲りと共に押し込められた埃だらけ・窓無し・隙間有りのおんぼろ倉庫。衣食に関してはお察しの通りである。とにかく飢えていたし、支給された制服は擦り切れてボロボロ、奴ら平民は成長しないとでも思っているらしい。まぁ成長できるほどの栄養摂取もままならず発育不良ではあったが。
その後は物語なんかでよくある話ではあるが、両親は捕まったその日のうちにとって付けたような適当な理由ですでに処刑済みであると知り、まだ十八歳だった私は絶望から治癒魔法が一時的に使えなくなり、教会から放逐。貧民街へ逆戻りというわけだ。
我ながらなかなかに波乱万丈な半生である。
なんやかんやありつつもまだ生きているのはこの名もなき街へとたどり着けた強運と、ここで生きる術を教えてくれた金貸しと呼ばれる女性のおかげである。諸々の諸経費という名目で一生かかっても返せないのではと言うほど膨大な借金を抱えさせられたが。やっぱりこの世に神などいないのだ。ちくしょう。
金貸しが斡旋してくれた治療所兼自宅の玄関をご丁寧にも背もたれにして意識を失っている男は、よく見れば頭の先からつま先まで固まった血や泥で汚れていた。これはちょっと触りたくない。
指先でつまむように布切れと化した服をめくれば、血の気のない白い肌には赤黒い血を零す傷が無数に走っていた。内臓が飛び出すほど深い傷はないようで一安心だが、傷も出血量も多くこのままでは朝を迎えることはできないだろう。
とりあえずまずは止血か、と汚れとの対比でより白く見える顔にため息を零しつつ大きく裂けた腹の上に手を翳した。
治癒魔法特有の白い光が溢れ出し、腹を斜めに大きく切り裂く傷に吸い込まれていけば、ゆっくりと切れた筋繊維が、血管が、皮膚が戻っていく。そのまま肩から胸にかけて走る傷にも手を翳して同じように治した。
大きな傷をふさいでしまえばとりあえずの応急処置は完了である。きちんとした治療は怪我の具合を確認しなくてはならず、そのためにはぼろきれみたいな服を脱がせて汚れを落とさなくてはならない。
治療行為とは言え、自宅前で意識のない男を裸に剥いてその体をまさぐるなんて絶対にいやだ。外聞が悪すぎる。
「……職務範囲外ってことで追加請求しよう」
ついついため息と文句がこぼれそうになる唇を一度引き締めてから、覚悟を決めるために請求書を思い浮かべた。よし、これだけの大怪我、時間外、範囲外で通常の三割増しで請求する。絶対に。
怪我の度合いにもよるが、王都の教会付属の治癒院で治した場合とは比べ物にならないのはよく知っている。我ながらアコギな商売だが、これも生きるためだ。
気を失い脱力した男をどうにかこうにか背負い、家の中に運ぶ。引きずった足から脱げた靴は後で回収することにする。
治療所が一階になっているおかげで自分より大きな男を担いで階段を上る羽目にならなかったのは何よりだが、それにしても重い。治療用のベッドまで運ぶつもりだったが、その手前の待合用ソファに転がすことにした。ベッドまで運ぶ前に私が力尽きてしまう。
大きな傷はふさいだが、衝撃やらですぐにまた開いてしまう程度の応急処置だ。ソファに寝かせるのも慎重にしなければならない。でも重い。ちょっと支えきれなくて落とすような形になってしまったが、傷は開いてないので問題なしとする。血の滲んだ唇から呻き声が聞こえた気がするが、傷が開いてないなら痛かろうと知ったことではないのだ。
暖炉に火を入れて湯を沸かすついでに部屋を暖める。気温的には暖かいぐらいの日だけど、けが人には適していない。どうせ身体を拭くのにお湯を沸かさなければならなかったし、ついでだ。
お湯が沸くまでの間に落とした靴を回収し、治療に必要な道具をかき集める。治癒魔法は便利だけど無理やりその人の回復力を促進させるから体力を消耗するし、あまりかけすぎると魔力に慣れていない場合、副反応が起こる可能性もある。細かな傷は自然治癒に任せる方が良い。
両手いっぱいに治療道具と布を抱えてソファに戻れば、暖炉にかけっぱなしのポットからしゅんしゅんと白い湯気が見えた。少し沸かし過ぎたが気にせず持ってきた桶にお湯を注いで、布を浸した。
待合用のソファは大人三人が腰かけられる程度の物だけど、長身の男が横になると膝から下は乗り切らずに床に投げ出されている。切り裂かれて血と泥と埃とでボロボロの服はもう手遅れだろうし、気にせずハサミを入れて男から剥ぎ取った。汚いのでそのままゴミ袋へ直行だ。
とりあえず上半身を裸にしたところで熱いお湯に浸していた布を取り出し、火傷しそうになりながら絞る。やっぱり沸かし過ぎたようだが、血の気がなく冷え切った怪我人にはいいだろう。
傷口を強く擦らないように気を付けながら汚れを落としていく。固まった血は落ちにくいのでちょっと布を当てて蒸らしてから拭いた。
汚れを落とした男の身体は予想以上に鍛えられていて、この街の住民ながら食べるものに困っていない生活を想像させた。けれどそんな鍛えられた身体に残る無数の傷跡と、左胸に刻まれた紋章の痕――これは奴隷商が奴隷に刻む紋章だ。
「見たことない紋章……」
この街にも奴隷商はある。今日の定期往診もそこの奴隷たちの健康診断だったので、仕事柄奴隷やそれを売買する人たちとも縁はある。それでも彼に刻まれた紋章は見たことのないものだった。もしかしたら他国から売られてきたのかもしれない。
無数に残る深さも大きさも形も様々な傷跡は、きっと主人から折檻されたのだろう。しかし奴隷というには男の身なりは整っていたし、身体も怪我を除けば健康的である。切り刻んで捨てたシャツは生成りじゃなくて真っ白の上等なものだったし、靴も上等な革を使ったものだった。
なんともちぐはぐな男である。奴隷なら金を持っていないだろうし、こんな大怪我で放置されていたところを見ると主人が治療費を払ってくれるとも思えないが、上等な衣服と健康的な身体を見るになかなか金持ちの主人のお気に入りそうでもある。
考えながらも手を動かすのは止めず、顔の汚れもすっかり落としてしまえば思わずため息が漏れた。
疲れというよりも、あまりに端正な作りの顔だったので。固まった血を落とせばさらりとした黒髪と同じ色の睫毛は長く、白い頬に濃い影を落とす。すっと通った鼻筋と形の良い薄くも厚くもない絶妙なバランスの唇。目を閉じていてもわかる精悍さとけぶるような色気のある、元奴隷の男。
私は、この男を知っている。
「主人を殺して憤怒を奪った、新しい憤怒……」
正確には、男の噂を知っている。こんな街で生きていくには情報は命綱だ。そして、この街には逆らってはいけない権力者たちがいる。
イーラはそのうちの一人。本名は知らないが、憤怒という組織を率いていた五十代の男だった。王都の裏社会にも顔が利くとかで手広く仕事をしていたが、その男がつい先日亡くなった。自らの奴隷に首を食い千切られ、心臓を抉り、腹を裂いて頭を潰されて。殺しても殺したりないと叫ぶような無残な殺され方だった。
生前の彼の主治医みたいなことをしていたせいで、顔が判別できない遺体の身元を調べるために呼び出されて大変だったのを覚えている。
自分たちの首領が奴隷に殺されたせいか、憤怒はピリピリとしていた。けれど強さこそがあの組織での唯一のルールだ。今頃は主人殺しの元奴隷を新たな憤怒の主人として回り始めているのだろうと思ったのだが。
そのイーラが死にかけでうちの前に転がってたところを見るに、組織内でも反発するものが多いのかもしれない。
まぁ、どこの組織にも属さず、中立を貫く私には関係のないことだ。
重要なのは男がこの街の権力者の一人・イーラで、間違いなく金を持っていて、私以外に治せる人はこの街にいないということ。つまり、絶対に死なせてはいけない金づるということだ。
俄然やる気の湧いてきた私は嬉々としていまだ気を失っているイーラの治癒に取り掛かった。
ふと、物音がした気がして目が覚めた。
見慣れた自分の家の寝室。拘束されていないし、痛いところもない。意識もはっきりしている。
物音は階下の治療所から――……、そこまで考えて数時間前まで治療していた男のことを思い出した。どうやら目が覚めたらしいが、起きて早々暴れるほど元気なら意識のないうちに拘束しておくんだった。
仕方なく起き上がって軽く身支度を整え、私は治療所へ向かった。
火の消えた暖炉の前、待合用のソファから落ちたのか男は床に座り込んでいた。あれだけ血を流したのだから、傷はふさいだとは言え数時間で失った血が戻るはずもない。貧血で立っていられなかったんだろう。
「あんまり動くと傷が開くわよ」
「誰だ」
こちらをじっとりと観察しながら低く問うイーラ。そんなに警戒しなくても、と思いつつ気にせずカーテンを開けて部屋に明かりを取り込みながら「命の恩人」と応えた。感謝して治療費をお支払いください。
「ここは治療所で、私は治癒師。
あなたが今立てないのは、昨日の失血量が多すぎたせいで、私は薬を盛ったりはしてない」
気になっているだろうことを先回りして教えてやれば少しは落ち着くだろう。
と、思ったのになんで不機嫌になるのか。眉間のしわがコインでも挟めそうなほど深くなっている。
「……なぜ俺を助けた」
「うちの前で死なれちゃ評判が悪くなるじゃない。
わざわざ玄関前で倒れてたし、治療のために来たんじゃないの?」
まるで手負いの獣のようにこちらを警戒しているけれど、実際にそんなものは必要ない。私が彼を殺す気だったら昨日のうちに治療などせず殺している。そして何より私は貧血でふらふらのイーラにも負けるほど弱い。
「…………世話になったようだ」
「払うものさえ払ってくれたらなんの問題もないわ」
一人で納得したようだけど、誰かがここまで運んだという事だろうか。そんな事するのは部下だろうし、組織に敵しかいないという訳ではなさそう。これなら支払いも問題なさそうで一安心だ。
「今は手持ちがない。
何より、俺は治してくれなんて頼んでないが?」
いまだ床に座り込んだままのくせに、尊大な態度でこちらを見下すように鼻で笑うイーラに、こめかみがピクリと痙攣した。
「……わざわざご丁寧に治癒師の家の前で死にかけておいて、踏み倒す気?
新しい憤怒の主は随分とケチ臭い小物みたいね」
腕を組んで胸を反らし、物理的に見下ろしながら挑発したは良いが、これで憤怒の名の通りキレて襲いかかられようものなら、私はまともな抵抗すら出来ずに殺されるだろう。前イーラ以上に無惨な遺体となった自分が脳裏を駆け巡って背筋を冷たい汗が伝った。
腹が立ったからって喧嘩売る相手くらい見極める分別は持ってたはずなのに、確実に寝不足と疲労のせいだ。つまり、やっぱり全部この男のせいだ。
「……俺を知っているのか」
「この街で生きてくなら権力者に関する情報くらい把握してて当然でしょ」
内心のビビりをおくびにも出さずに肩を竦めて見せた。
変な汗かいてきたしここは早いところお引き取り願おう。お金は大事だが、命あっての物種である。
「そろそろ仕事の時間なの。金を払う気がないなら邪魔よ、さっさと出てってくれる?」
足早に玄関へ足を向けてそのままドアを開け放つ。
「金はいいのか? 治癒師は金にがめついと聞いていたが」
誰だそんな失礼なこと言ったやつ。
確かに生きてくために、そして借金返済のため、お金にうるさいところは少し……ほんの少しだけあるかもしれない。
「今回は家の前で死なれちゃ困る私が勝手に治した、つまり自己満足にしといてあげるって言ってるのよ」
嘘ですほんとは請求したい。とても請求したい。
手に入るはずだった額を思えば来月の返済分くらいになりそうだし、上手くいけば再来月の返済も楽になったかもしれない。
そう思ったら前言撤回しそうになる自分の腕を強く握って耐えた。金はまた稼ぐ機会があるが、命は失えば終わりだ。こんなことで死にたくない。
余裕を見せるために開け放ったドアの枠に背を預けてかしこまった仕草で外を示す。
イーラはこちらをしばらく見つめたあと、ゆっくりと立ち上がって歩き出した。まだ貧血がしんどいのだろう、平静を装ってはいるが青白い顔や僅かにふらつく足取りに柳眉をひそめた。整った顔だと苦しげな表情も色気になるから不思議だ。
玄関前、すれ違いざまに大きくふらついたイーラは身体を支える――風を装って私の顔の横に手を着いた。壁から鈍い音が響いて預けた背が揺れる。
え、こわ。ひとんちの壁そんな力いっぱい叩く? それほど怒ってらっしゃるということだろうか。
「借りを作るのは性にあわない」
ぐっと身を寄せられて、壁に着いた手と彼の身体に囲い込まれた形で耳元で言われる。
低く艶のある声と共に吐息が耳をくすぐって思わず肩が跳ねた。
「……意外と律儀なのね。でも支払い実績のないやつのツケは信用しないことにしてるの」
必死で取り繕う私のことなどお見通しとばかりにイーラはくつりと喉を鳴らして身体を起こした。知らず止めていた息をそっと吐き出す。
イーラがまた笑みを深くしたけれど、悔しいので見なかったことにする。
そのまま家を出ていこうとしたイーラだったが、ふと何かを思い出したように足を止めて振り返った。
「――あぁ、治癒師のお嬢さん、お名前をお聞きしても?」
朝日に照らされたイーラはその整った顔に妖しげな笑みを浮かべたまま貴公子のように礼を取って見せた。
「ジェーンよ」
「なら俺はジョンだ」