第37話:逃走
人間離れした身体能力で屋上から飛び降りてきた咲和の外見に目立った欠損はないが、制服は浴びたような血で赤く染まっており、特に両手と口元はドス黒い血がこびり付いていた。
その瞳孔が散大している眼は焦点が定まっておらず、口元からは「ぁ゛……ァ゛ァ゛ッ……!」と不気味な声を漏らしている。
完全に、もう手遅れだろう。
雄理に悪態をつく程愛理とひなのの事が好きだった仲良し3人組の1人、梨木咲和が、虚な目で愛理を見ている。そしてその視線が徐々にひなのへと移っていき、恐怖とショックで力が抜けたひなのがすとんっと地面に座り込んでしまう。
「逃げろ!」
雄理が駆け出すと同時に叫び、愛理はその声に弾かれたように雄理の方へと走るが、ひなのは動く事ができない。
(間に合わない……!)
そう思った雄理だったが、何故かひなのはすぐに襲われず、見れば咲和は何かを堪えるようにその小さな体を小刻みに震わせている。
(自我がまだあるのか……?)
ザザザァッとひなのと咲和の間に体を滑り込ませた雄理は、チラッと一瞬だけ奏司に目線を送り、すぐに咲和への警戒に全神経を集中する。
(何だこの魔力……他のゾンビより桁外れに多い……)
集中して感じ取れば今までのゾンビにも魔力量に若干の差があったが、咲和が持つ魔力はそれらとは比較にならない程の量だった。
それはつまり、その魔力に依る身体能力も桁外れに高いということ。
「ひなちゃん、立てるか? 俺が食い止めるから、奏司達の所へ走るんだ」
「は、はい。でも……咲和ちゃんが……そんな……本当に……」
雄理が背中を向けたまま語りかけるも、ひなのはすぐ動けそうにない様子だ。
それを見て目で合図された奏司も仁渚からバットを受け取って咲和の元へ駆け付ける。
「加勢するぞ雄理。屋上から飛び降りる身体能力といい垣間見える知能といい、コイツは得体が知れなさ過ぎる。ここで確実に倒そう」
「いや、バットを渡せ。咲和ちゃんは俺1人で止める。お前はひなちゃんを守りながら逃げる準備だ」
「1人でってお前……」
「この子は愛理とひなちゃんの友達だ。2人の前で殺すわけにはいかない」
「そんなこと言ってる場合かよ。それに逃げる準備って言ったって……」
「先生達のゾンビが車のキーを持ってると思う」
「お兄ちゃんまさか……運転する気? 警察に捕まっちゃうよ……?」
「死ぬよりマシだ。奏司、いいから早く」
「ああ……死ぬなよ」
ようやく決心がついた奏司がひなのを支えて立たせ、みんなの方へ離れて行った。
そこで咲和は自我による抑えが効かなくなったように、ガァァァッッともう人間ではない叫び声を上げて雄理に襲い掛かる。
バットを両手で横に構えて防ぎ、押し合いにして時間を稼ごうとした雄理だったが、想定以上のパワーに押し込まれ、あっけなく地面に倒されてしまう。
(強過ぎる……!)
だが倒される直前に何とか曲げた脚を咲和の腹部に滑り込ませていた雄理は巴投げの要領で咲和を蹴り飛ばす。
雄理は咲和の体勢が整う前に追撃しようとすぐに立ち上がって駆け、バットを振るう。
腕を上がらなくしようと肩を砕く狙いでフルスイングしたバットは、ガンッッと咲和に掴み取られてしまう。
(マジか……!)
意地でも手を離さない雄理をバットごとブゥンッと振り回した咲和は、もう一回転させた遠心力で雄理を浮かせて手を離し、ダンッッッと壁に叩き付ける。
「がはッッ!」
肺が圧迫されて一時的な呼吸困難に陥った雄理が霞む目をそれでも迫る咲和に向けた時——ドンッッッッと咲和が車に撥ねられた。
「雄理! 大丈夫か!?」
「あ、ああ。ごほッ、出せッ」
雄理はよろける脚で助手席に乗り込み、奏司がすぐさま車を発進させる。
「どこに向かえばいい!?」
「街外れへ……とにかく、学校から離れ続けろ……!」
初めての運転、しかも無免許でゾンビとはいえ人の形をしたモノを撥ねて若干パニクっている奏司に、呼吸を整えながらの雄理がそう答える。
校門から飛び出すと、既に学校の周囲にも感染が拡がっていて、あちこちで事故を起こした車が煙を上げ、人々がゾンビから逃げ惑っている。
前方の信号が黄色になり、奏司が反射的に減速しようとした時、助手席から脚を伸ばした雄理がガツンッと奏司の脚ごとアクセルを踏み込む。
「おい雄理! ここで事故ったら終わりだぞ!」
「あの子に追いつかれるよりマシだろ」
そう言ってアクセルを離させない雄理の視線を奏司が追うと、バックミラーに猛スピードで追走してきている咲和が映っているのが見えた。
後部座席に座る愛理とひなのも不安そうな顔をし、清耶と瑛士も、
「くそッ! 何だあのゾンビは!」
「飛ばせ奏司! 追いつかれるぞ!」
と焦りに声を荒げている。
なるべく直線で加速しながら咲和を引き離していく奏司。
流石に単純なレースでは車と勝負出来なかったか、徐々に遠くなる咲和の姿はやがて見えなくなっていった。
ふぅ、と、運転する奏司以外の全員が一息ついて緊張を解いた。
「良い車選んだな奏司。隣に榊先生が無理して買ったって自慢してたオープンカーもあっただろ。ベンツのEクラス カブリオレ」
「あんなの全員乗れないだろ。それに榊のやつ、無駄にMTに改造してたんだ」
「一応見たのか……」
「車好きの雄理なら運転できたか?」
「多分。敷地内で父さんの車運転してた」
ATならギアをDに入れたら後はアクセルとブレーキとハンドル操作だけ。ゲームと同じようなもので、運転未経験の高校生でも感覚的に操縦はできる。このパニック状態で細かい交通ルールを気にしなくても良い状況なら尚更だ。
今雄理達が乗っているのはトヨタのランドクルーザー。4輪駆動で高い馬力にも対応しているし、山野横断のスポーツ用多目的車で悪路での走破性も高い。
車に詳しくない奏司は先生の死体から手に入れた3つの鍵のうち適当に全員乗れる大きさのを選んだだけだったが、この状況で手に入るものとしては最適な車両の1つと言える。
「仁渚、後ろからまた何か追いかけてきてないか見張っててくれ」
「うん」
「清耶と瑛士は左右の警戒を頼む」
「ああ」
「分かった」
奏司の指示で方向を分担して四方に注意を向けながら学校から距離を取り、なるべく人口密度の少ない街外れを目指してしばらく車を走らせていく。
「俺達はラッキーだったな。覚醒者も揃ってて」
運転に慣れてきた奏司が助手席に話しかけると、
「ラッキーならこんな事態に巻き込まれてない」
雄理は周囲への警戒を解かずにそう答えた。
「お前は凄いな、雄理」
「ん?」
「いつもは何に対してもやる気出さなかったくせに、こういう事態になったら愛理ちゃんやひなのちゃんを守って戦ったり、こうしてチームを率いて行動したりさ。向いてるよお前」
「何にだよ……率いてるのは奏司だろ」
そこでワンテンポ間を空けて会話を区切った奏司は話題を変える。
「どこまで拡がると思う? この感染」
「……分からない。そもそもこれが自然に発生した現象なのかどうか……」
「犯人がいるってことか? 単なるアンデッド系のモンスターじゃないのかよ……誰が何のために……」
「……それも分からない。けどゾンビ達の動きに誰かの視点を感じるような気がする」
「視点?」
「奴らには魔力が宿ってるし、あり得なくはないだろ。ゾンビ自身に意思は残ってなさそうだけど、誰かが——」
「奏司! 後ろから凄いスピードで近付いてくる車があるよ!」
雄理が推測を語る途中で、後方を警戒していた仁渚が叫んだ。
徐々に迫る車は、ベンツのEクラス カブリオレ。
「おいアレ……まさかゾンビが運転してるのかッ!?」




