第3話:ゴブリン
晃生は冗談で、ここがガラパゴス諸島だという楽観的な予想を話していたが……
『種の起源』を著したイギリスの生物学者、チャールズ・ダーウィンが進化論を着想したその地を訪れた時、そこは爬虫類の楽園だった。天敵となる大型の哺乳類がいないそこのイグアナ達は人間にも警戒心を抱かなかったという。
だが……ここは全くの真逆らしい。
人間の天敵、『モンスター』がこんなにも敵意を剥き出しにしているのだから。
(嗤っているのか……?)
目の前のゴブリンは口角をつり上げ、ギラついた牙を見せつけるような邪悪な笑みを浮かべている。
(こんな表情をする野生生物が存在するのかよ……)
「天音さん。俺が引きつけるから、あの時空の穴まで走れ。崖に沿って行けば着けるはずだ」
「でも、危ないよっ、肉食っぽいし……」
ゴブリンはギィッと鳴きながら1歩距離を詰めてきて、怖がる木乃香が晃生の腕を掴む。
(見るからに獰猛そうな生物だが、自分よりも体格の大きい俺達を警戒してすぐには襲って来ないんだ……)
「ここは多分地球より重力が強い。体は俺たちの方が大きいけど、こいつはジャングルに慣れてるだろうし、ハンデがある分、ここでの鬼ごっこは不利だ。足止め役がいる。大丈夫。こんな小学生みたいなナリの奴に喧嘩で負けるわけがない。余裕だ」
(ボクシングでミニマム級からヘビー級まで明確な階級分けがされているように、サイズの違いは覆しようのない力量差を生むんだ。そいつを教えてやる……!)
戦力的に問題ないと判断した晃生は、
「行くぞ、走れ!」
と叫んで木乃香の背中を押すと同時に太めの木の枝を拾い、草を薙ぎ払ってガサガサと音を立てる。
「こっちだ! 来い!」
(脅威はこっちだ! 俺から目を逸らすな!)
ゴブリンを睨んで足止めに成功した晃生だったが、自分は木乃香が走り去っていく背中をつい確認してしまった時、ガサッと音を立ててゴブリンが動いた。
草むらに身を伏せて四足移動で接近し、飛びかかってきたのだ。
晃生は拾った棒を振り下ろしてゴブリンを叩き落とすが、痛みに強いのかゴブリンはすぐに地面を這う四足移動で再度晃生に襲い掛かり、鋭い牙で右の脛に齧り付いた。
「ぐッ、うぅぁァアアア!」
痛みに声を上げる晃生だが、すぐに噛ませたままの脚でゴブリンを木に蹴りつける。
(くそッ、油断したッ……! こいつ、雑魚じゃないッ)
人間は痛み刺激に対し、セロトニンやノルアドレナリン、βエンドルフィン等の脳内伝達物質が作用し、その痛みを一時的に和らげる機能がある。そのおかげで晃生は何とかゴブリンの追撃を警戒する思考力を取り戻していたが、機動力には既に致命的なダメージだ。体格差によるアドバンテージを覆す程に。
さらに、またもすぐに起き上がったゴブリンが体勢を整える間も無く襲い来る。右脚は痛みで荷重できず、避けられない晃生が咄嗟に出した左腕に爪、そして牙が、丈夫な生地のブレザーを貫通して突き刺さった。橈骨動脈、尺骨動脈が破れてブシュゥゥッと派手に出血し、激痛が晃生を襲う。
「うぁあああああぁぁァァアアアアッ!」
元々トカゲは小さい種でも歯がない分顎の骨が発達している。そこに進化の過程で肉を喰らうための牙が加わって得た強い咬合力で、ゴブリンはさらにブチッと肉を噛みちぎりながら離れ、痛みにのたうち回る晃生を眺めながら血の滴る口元を歪ませる。
(痛いッ、痛いッ、痛いッ! 死ぬッ! くそッ、喧嘩やスポーツで例えていた俺がバカだったッ……!)
ゴブリンの緑色の皮膚は草木の生い茂るこの環境が保護色となり、天然の迷彩服として機能していた。さらに捉えづらい四足移動で迫ってくる一連の動きと、ナイフのように鋭い爪と牙による攻撃。この弱肉強食のジャングルに生息する捕食者のそれだ。
例えるならゴブリンは、紛争地域を生き抜く武器を持った少年兵のようなもの。平和な日本で生まれて喧嘩もしたことがない晃生とは経験値が違う。
上腕を右手で掴んで圧迫している苦肉の策も虚しく、動脈が切られた晃生の左腕からは血がボタボタと流れ落ちている。左の指先にはすでに感覚がなく、拳を握ることも出来なくなっていた。
その流れる血を見ながら、クチャクチャと音を鳴らし晃生の腕の肉を咀嚼し終えたゴブリンは最初に晃生が使った木の棒を拾う。
(コイツ、さっき俺が武器に使ったのを見て覚えたのか……ッ!)
その知能の高さに驚く晃生に、ゴブリンが棒を振り下ろす——
「晃生君っ!」
——その寸前、割り込んだ木乃香がカバンを盾にして攻撃を防いだ。
「天音さん!? なんで……早く逃げろ!」
さらに興奮し、棒を捨てて飛びかかるゴブリンの両爪が木乃香のカバン、そして肩に突き刺さる。
「あぅぅっ!」
痛みに叫ぶ木乃香のカバンが中に入っていたキャットフードの袋まで突き破られ、肩は晃生の左腕と同様制服を貫いている。その肩に爪を食い込ませてしがみつき、牙を突き立てようとするゴブリンが晃生の目に映った時、
「やめろぉぉぉぉォォォオオッッ!」
——パァァァァァァァァッ!
叫んだ晃生を中心に謎の光が発生し、それに驚いたゴブリンが飛び退いて距離を取る。
(なんだこれ……体が光って……いや、俺に光が集まっている……?)
発光と同時に晃生の右脚と左腕の痛みが引いていき、目を向けると——傷が塞がっていく。
謎の現象に驚きながらも晃生はすぐに立ち上がり、木乃香に駆け寄った。
「天音さん! ごめんッ、俺のせいだ……!」
謝りながら木乃香の肩の傷に触れた晃生の手から何かが流れ込んでいく感覚があり、木乃香の傷も治っていく。
「私は大丈夫。けど、これ、晃生くんが治してくれたの? すごい……」
「いや、俺にも分からないけど……」
戸惑う晃生はもう一つ、不思議な感覚を覚えていた。
(至る所に、光る粒子のようなものが見える……気がする)
晃生は木々や大地、周囲の空間、自分の体内になんらかの粒子が漂っているのを感じていた。
(特に多いのは、あの巨岩……)
実際に目に見えているわけではなく、見えないけど光っているかのような不思議な感覚。それは今まで感じたことのないもので、五感以外のもう一つの感覚が目覚めたように周囲を知覚していた。
「まあ、傷が治るなら負けようがないよな」
呟きながら、晃生は自分が突然回復したことに警戒するゴブリンを見据える。
「晃生君……」
「すぐ終わるから、後ろにいて」
重力や風の影響を受けずに漂う謎の粒子は、ゴブリンの中にも感じる。
(さっきのやり取りで感じた、小柄な体躯に不釣り合いなこいつのパワーの原因は、この粒子かもな……)
そしてそれは今、晃生の体内にもある。
ダッとゴブリンに向かって駆けた晃生はこの世界に来てから常に受けていた強い重力の影響を感じなくなっていることから、自身の身体能力が上昇しているのを実感した。
——ギィィイイァァアアァァアゥッ!
真上に向かって叫び声をジャングルに響かせたゴブリンはバッと晃生に向き直ったかと思うと、再度草木に紛れる四足移動で距離を詰める。
爪で顔を引き裂こうと跳び上がったゴブリンの首を晃生が左腕で掴む。リーチ差により爪は空を切り、そのまま地面にゴッッと押し付け、脚でもその暴れる小さな体を押さえ付けた。
——ギィィッ、ギェァ!
苦しそうに声を出すその首に体重を乗せていくが、ゴブリンも爪で首を掴んでいる左腕を切り裂いてくる。
晃生は、さっき木乃香を偶然治した時に粒子を流す感覚を掴んでおり、その超常の回復能力で左腕を傷つけられる度に治しながら、首を絞める手は離さない。
本来柔道やプロレス等で使用される背後から腕で相手の喉を圧迫する裸絞めは、喉仏の左右にある圧受容器を圧迫して、頚動脈洞反射により徐脈、血圧低下、脳血流量低下を引き起こして失神させるものだが、ゴブリンが人間と同じような内部構造をしているのかは分からない。それでも、口から酸素を取り込む肺呼吸なのは間違いないだろうから、気道を押さえ続ければ窒息死させられると晃生は判断した。
——ギィぃ……!
そうして首を押さえ続けるうちにゴブリンの抵抗は徐々に弱まっていき、ついに——ドサっと脱力した四肢が地面に投げ出され、動かなくなった。
「フゥー……」
(襲いかかってきたモンスターとはいえ、生き物を窒息死させた後の気分は良くないな。これが、現実の戦いか……)
大きく息を吐いた晃生は、左手に残るゴブリンを絞め殺した感触と痛みを反芻しながら立ち上がる。
「晃生君! 大丈夫っ!?」
不安そうにゴブリンとの戦闘を見ていた木乃香が晃生に駆け寄ってきた。
(近い……!)
「ちょ、大丈夫だって。もう治った。何でかは分かんないけど……あ、助けに来てくれてありがとう。あのままじゃアイツの餌になってたよ」
「ううん。晃生君こそ、また助けてくれた。ありがとね」
突如得た高速治癒能力や変な光を知覚する超感覚、発見した人工物や、この星自体のこと。気になる謎は多いが……
「じゃ、早く先に進もうか」
「そうだね。また何が出るか分からないし」
このジャングルの危険性を理解した2人はなるべく急いでワームホールへと向かう。
(頼む、もうモンスターは来ないでくれよ。天音さんをこれ以上危険な目に遭わせるわけには……!)
モンスターが現れなくとも、ここに来てから晒され続けている高気温、高湿度。直射日光は木の葉で遮られているとはいえ、高度の脱水症となる体重の10%の水分を失うまで、そう長くはかからない。重度の日焼けになってショック状態に陥る可能性もある。その危険を肌で感じている晃生は焦りつつも強化された身体能力で木乃香を置き去りにしないよう頻繁に振り返りながら崖に沿って真っ直ぐ進んで行くと……ようやく晃生達がこの世界に迷い込む原因になったと思われる時空の穴へと辿り着いた。
「はぁ……戻ってこれて良かった。それにしても、ここがもし宇宙のどこかの星じゃなくて異世界なんだとしたら、これも時空の虫食い穴ってよりかは世界間の扉って呼んだ方がしっくりくるな」
「そう……だね。でも、本当に戻れるのかな……もし戻れなかったら……」
「状況的に見ても大丈夫だと思う。ちょっと待ってて」
そう言った晃生は「あっ」と止めようとする木乃香をスルーして左手を宙に浮かぶ穴の中に通す。
するとその左手は下校中と同じ冬の冷たい空気に触れ、ひんやりとした感覚が伝わってきた。
「やっぱり大丈夫そうだ。向こう側の気温的に、多分元いた公園に繋がってるよ」
「もうっ、晃生君。危ないことはしないで」
「い、いや、危なくないって。あ、そうだキーホルダー……残念だったな。一応歩いてる時にあの黒猫が落としていってないかって探してはいたんだけど……」
「この状況でずっと探してくれてたの? 草むらの中で見つかる可能性なんてほとんど無いし、ただの200円のガチャガチャのやつなのに……」
「いや、だって——」
——俺にもくれたお揃いのキーホルダーだから。
その言葉は、途中で恥ずかしくなった晃生の口から出ることはなかった。
「だって、何?」
「あー、えっと……」
晃生が別の理由を考えていると——
——ガサガサッ、ガサガサガサッ、ギィィッ、ギャウゥ、ギェァッ!
草むらをかき分ける足音と不気味な鳴き声が、四方八方から響き渡る。