第1話:異界の扉
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。
高校1年の冬。
中川晃生は図書委員の仕事で遅くなった放課後の帰り道を、白い息を吐いて眼鏡を曇らせながら歩いていた。
(うぅ、冷気が染みる……)
歯医者に行くのが面倒で放置している虫歯の痛みを堪え、指が逆剥けた手をポケットに入れながら交差点を曲がろうとした時、
「あ、おーいっ、晃生くーんっ」
横断歩道の向こう側から晃生と同じクラスの女の子、天音木乃香が大きく手を振りながら笑顔で声を掛けてくる。
(あ、天音さんっ……!?)
彼女はカースト最上位に位置しながら誰にでも分け隔てなく話しかける美少女の為、クラスのアイドルと密かに呼ばれており、女子慣れしてない晃生は毎回少しキョドってしまう。
真面目だが周囲に合わせるタイプの木乃香は寒いのにスカートを折って短くしており、膝上丈の靴下を履いているとはいえ露出している太ももの部分は寒そうだ。上半身は冬用のブレザーに重ね着した白のロングコートとマフラーで防寒しているが。
手の振りに合わせて揺れる少し茶色がかったロングボブの髪。シースルーで流した前髪の下で自分を見つめる二重の大きな目に見惚れ、数瞬見つめてしまった晃生は少し照れ臭くなり、
「お、おー」
と、控えめに手を挙げ返して赤信号を待つ横断歩道の反対側で会話に応じる。
(まあ、周りには誰もいないしな……)
それを確認した晃生は、散髪に行くのが面倒で目にかかるくらいに伸びてしまっている黒髪の頭、その後部を癖でくしゃくしゃしてから自分からも話しかけることにする。
「何してたんだ? 家、ちょっと通り過ぎてるだろ」
「今日はテニス部が休みだから、猫ちゃんのためにキャットフード買いに行ってたの。ちょっと高いの買っちゃったっ」
「あー、好きだなー、猫」
晃生は教室で聞いたことのある情報でそんな会話をする。
(あ、猫好きなのは天音さんがグループ内でいつも話してる事とはいえ、俺が知ってたらキモかったか……?)
言ってから不安になってきた晃生だったが、木乃香は気にしてない顔で信号が青に変わった横断歩道を渡ってくる。
「晃生君は犬派? 猫派?」
そんな質問をしながら交差点を曲がった晃生の横を歩く木乃香。なんとなく、一緒に帰る流れだ。
帰り道が同じ方向なのは晃生も知っていたが、こうして話しながら帰るのは初めてのことで緊張してしまう。
「んー、どっちかと言うと俺も猫派かな」
「おお〜、私と一緒だねっ。そんな晃生君にはこれをあげよう」
努めて平静を装って答えた晃生に、木乃香が黒猫のキーホルダーを渡してきた。
「うちの猫ちゃん、白くてもっちりしてるからおもちって名前なんだけど、ゲームセンターを横切った時におもちに似たキーホルダーのガチャガチャが店頭にあったから思わず回しちゃった。そっちは1回目で出てきたやつ」
「天音さんでもガチャガチャとかやるのか。にしてもおもちって……そのまま過ぎないか?」
「可愛いからいいのっ。ほら、この子がおもち」
木乃香が待ち受けに飼い猫の画像を設定してる携帯の画面を見せてくる。
確かにお餅っぽいが、それよりも急に木乃香との距離が近くなって晃生は心臓をバクバクさせる。
「晃生君? もぉ、ちゃんと見てる?」
「み、見てるって。ほんとに餅っぽいな。きな粉かけたら美味そうだ」
「サイコパスだ……」
「いやっ、今のはものの例えで、餅に似てるって言いたかっただけだって」
「あははっ、分かってるよ。晃生君優しそうだし、人の飼い猫を食べるような人だなんて思ってないよ」
「なんかフォローされてる気がしないんだけど……でも、狙ったやつが2回目で取れたのはラッキーだったな」
そう言った晃生がさっき渡されたキーホルダーを木乃香に返そうとすると、
「それは晃生君にあげる。さっき猫派って言ってたし、一緒にカバンに付けよ」
そう言って差し出した手を押し戻された。
「あ、ありがとう……でも、色違いのキーホルダーを一緒に付けるって、カップルみたいで、みんなに勘違いされたりとか……」
晃生が顔を赤くしながら言うと、そこまで考えていなかった木乃香もぼんっと顔を赤面させた。
「あ、えっと……ほ、ほんとだね……」
別にいいよと言うと告白っぽくなってしまうし、やっぱだめと言うのも失礼な気がして木乃香はどっちつかずのことしか言えずに俯いた。
それを見た晃生も居た堪れなくなって反応に困っていると、ヒュッと後ろから飛びかかってきた黒猫が木乃香のキーホルダーを掠め取る。
「あっ、おもちが!」
「おい! それは食べ物じゃないぞ! 返せ!」
せっかくゲットした飼い猫っぽいキーホルダーをなくしてしまうと木乃香が悲しむと思った晃生がすぐに捕まえようとするが、その黒猫はキーホルダーを咥えたままタタタッと走って逃げ出してしまった。
「晃生君っ、もういいよ。ただのキーホルダーだし……」
「いや大丈夫、俺が取り返してくる!」
「あっ、晃生君!」
取られてたまるかと晃生は必死に黒猫を追いかけ、木乃香も一緒になって駆け出す。
そっちに住処でもあるのか、黒猫が住宅街にありながらも人があまり寄り付かない寂れた公園に逃げ込んでいく。
それを追いかけて晃生達も公園に入ると、黒猫が回り込んだ木の裏に——奇妙なものがあった。
それは、3次元空間に描いた2次元のトンネルのようなもの。直径2m程で空中に静止しており、向こう側は度の合っていないレンズのようにぼやけている。
晃生から逃げる黒猫はその異次元トンネルのような空中の輪を潜ってどこかへと消えてしまった。
「逃がすかッ!」
「ちょっ、晃生君!」
木乃香から貰ったお揃いのキーホルダーを取り返そうと必死な晃生も猫を追ってその穴に飛び込むと——
急に地面が無くなるような浮遊感に襲われた後、ガサガサガサッと草の生えた地面を転がっていく。
ほぼ崖のような急斜面を滑り落ちているのだ。
なんとか木の根のような部分を掴めた晃生はそれを全力で握って落下する体を留めるが——
「きゃぁぁああああああああ!」
晃生の後であの穴を潜ってきた木乃香が上から落ちてきて、それを抱き止めた晃生もろとも斜面を転がり落ちていく。
枯れ木や石などで木乃香が傷付かないよう晃生が強く抱き締めながらどんどん転がり、転がり……ようやく傾斜が緩まってきて地面に投げ出されるようにして止まった。
(うっ……痛った……どうなったんだ……?)
2人が戸惑いながら目を開くと——そこは見たこともないほどに雄大な大自然だった。
草木が鬱蒼と生い茂り、真上から世界を照らすその陽射しは怪しげな色の果実を実らせる大木のテントように密集した葉で遮られ、まるで肌を刺すような木漏れ日が降り注いでいる。
状況が理解できず、2人はしばらく固まってしまう。
木乃香の髪から香るフローラル系のシャンプーの匂いに鼻をくすぐられる晃生が、ようやく今抱き合って寝転んでいることに気付き、慌てて離れた。
「あっ、えーっと、ごめん……!」
「う、ううん。助けてくれてありがとう……」
(男の子の体って、おっきい……それに、力強いんだ……)
「晃生君って……身長何センチ……?」
「え、176くらいだけど……」
「そ、そうなんだ……結構高いんだね……」
161cmの木乃香は何となく、カップルがキスやハグをしやすい理想の身長差が15cmであることを思い出してしまう。
二人とも顔を赤くし、うるさいほどに高鳴る心臓の鼓動が現状をしばらく忘れさせるが、立ち上がろうとして、気付く。
(——重い?)
脚に力が入りづらい、というより体自体が普段より重く感じ、晃生は少しよろけてしまう。
「なんだこの重さ……あ、天音さん、怪我はない?」
「うん。私は大丈夫だけど、晃生君の方こそ、ほっぺが切れてるよ」
結果的には二人とも厚着で土の地面に転がっただけで済んだため、木乃香を守った晃生の露出していた手と顔に擦り傷がついただけで事なきを得た。
「俺は男だからこのくらい大丈夫。それより——」
そしてようやくこの状況に対し意識を向け、改めて周囲を見渡す。
「どこだ、ここ……?」
「うん……元いた街、どころか日本じゃないよね、多分。暑いし……」
今は2月1日。まだまだ衣替えには早く、晃生も冬制服に黒のマウンテンパーカーを重ね着して寒さ対策をしている時期だ。それなのに今の気温は晃生の体感で45℃前後もある。
(真夏でも日本で観測される最高気温って41度くらいじゃなかったか?)
2人は体感したことのない高気温にアウターを脱いだ。
「それに、時間もおかしい。下校時刻だったのに、太陽が真上にある」
乱立する歪んだ大木の葉は空を覆い隠すほどの密度だが、木漏れ日から判断できる太陽の位置は確かに直上だった。
「じゃあ、海外の森に瞬間移動しちゃったってこと……?」
(いや、森ってよりこれは……)
晃生の見立て通り、そこは改めて見ると森林よりも樹木が密集していて、人の手が入っている感じが全くしない——密林だ。
携帯を見ると——圏外。
スマホはネット回線で時間を調整するため、圏外では時刻を修正できず、画面に映っている時刻は17時12分と下校の時間からそのままの経過で表示されている。
一応、充電を温存するために画面を切って携帯をポケットに仕舞った晃生は自分達が落ちてきた崖の上を見上げる。
手前の方はまだ斜面が緩やかで登っていけそうだが、上に行くほど傾斜が強くなっていき、最終的には90度を超えて抉られたような天然の忍者返しの形状の崖になっていて頂上までは戻れそうにない。
高さも20m程ある為、1回目は斜面と土のクッションに助けられたが次落ちれば無事に済む保証はない。
「多分、こんな意味不明な場所に出てきたのって、あの変な穴のせいだよな……」
「そう、だと思うけど……でも、それじゃあれ、ワームホールだったってこと? そんなことが……」
「まあ、実際に起こってるからな。とにかく今はそれが正しいと考えて、なんとか迂回してあの崖の上に戻ろう」
「うん……そうだね」
方針を決めた2人は崖に沿って移動し、登れそうな所を探して歩き始めた。
「それにしても、ここはどこなんだ? 日本が冬の時に夏でこの大自然ってことは、アマゾン熱帯雨林とかか?」
晃生は周囲の光景が森というより密林であり、湿度と気温が高い環境からそう予想するが、
「それなら雨季のはずだし、熱帯とはいえ2月なら気温は20度を超える程度だったと思うよ。晃生君、地理苦手だっけ」
と、早々に木乃香に訂正されてしまった。
「天音さんが優秀すぎるんだよ……地理得意でも普通分からないって。化学と物理なら好きなんだけど」
「そっか。なら今度の学年末テストで勝負しようよ」
「遠慮しとく……でもアマゾンじゃないならこの変わった植生からして、ガラパゴス諸島とかかな。世界自然遺産だし、旅行代浮いてラッキーだ。パスポート持ってないけど」
「エクアドルへの不法入国になっちゃうね。でも、確かにあそこも赤道直下だし、海流の影響もあって温暖だけど、この時期はこんなに暑くないよ。ただ、もしそうなら私は金のビーチで可愛いアシカが見たいなぁ」
「いや、ジョークで言っただけだって。まあ、それなら俺はダイビングでマンタとかイルカの群れを見たい」
「あ、それもめっちゃ見たいね!」
その時、現実逃避のような事を話していた2人の視界を、大きな蝶々(ちょうちょう)が飛んだ。4対ある8枚羽で、その羽を広げた全長は人間の顔が隠れる程に大きい。
「うわ、なんだあの蝶」
「綺麗……だけど、なんか怖いね……」
「ああ……」
その蝶につられて周囲をよく観察してみると、他にも奇妙な虫達が多数目に付いた。
後ろ足がバッタのように発達したカマキリ、木から木へ糸で飛ぶように移動する拳サイズの蜘蛛等、テレビでも見たことのない種だ。
虫は地球上で最も多種多様な進化を辿り、現在においても日々世界中で新種が発見され続けているが、それにしても既存の種とはかけ離れた虫が多すぎる。
(……あり得ないだろ、あんな虫……)
そう思った時、晃生の脳裏に不安な仮説がよぎる。
状況から考えられる、1つの可能性は——
「——ここ、本当に地球か?」
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