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透鏡越しラヴァーズ  作者: 卯月猫
6/12

お母さん



「ただいま! 良子ばあちゃん来てる?」


 鍵を開け、玄関の扉を開くと部屋の奥からふわっと唐揚げの香ばしい匂いが漂ってくる。

 お母さん、もしかして本当に塩と醤油の両方で作ったのか? 他にも色々すっごい良い香りがする。一体何を作ってくれたんだろう。

 ぐぅ、と腹の虫が鳴く。カラオケではフリーの飲み物と、皆でつまめるちょっとしたスナック詰め合わせだけだったから今匂いにあてられて改めて腹が空いたようだ。

 


 いつもと少し違う所と言えば、『お帰り』という声が飛んで来なかった事。

 普段なら、21時にバイト終わって帰宅すると部屋の奥から『おかえりー!』と声が上がるんだけど。まだ何か準備に忙しくしてるんだろうか?

 お母さんの物でない靴があるし、良子ばあちゃんももう到着しているようだ。二人で台所かな。


 そんな事を考えながら玄関から廊下を歩いてリビングの扉を開く。中から良子ばあちゃんの声がする。お母さんと何か話でもしてるのかもしれないな。

 良子ばあちゃんは、お母さんの義理の母親に当たるけど二人は凄く仲が良い。

 世間一般では、嫁姑問題と言われるくらい険悪だったり、必要以上に関りを持つ事を嫌ったりと言う関係が多いと聞くが、うちの場合は別らしい。


 そもそも、お父さんは、お母さんと一緒になる前にまゆみさんと言う同い年の奥さんが居た。良子ばあちゃんは、その人とも別に仲は悪くなかったみたいだけど、離婚してからは特に連絡は取り合っていないと言う。

 お父さんは結婚当時から仕事一筋で、まゆみさんは結構大変な中家事と子育てをこなしてきたようだ。まゆみさんとは連絡取り合う事はないが、その代わりかは分からないけれど、僕にとっては母違いの兄弟になる子供の仁くんと連兄ちゃんが遊びに来た時は僕と接するのと変わらずに優しくしていたらしい。

 と言っても、仁くんは僕より15歳上だし、連兄ちゃんは12歳上。かなり年上の兄弟である。

 祖父母宅には、まゆみさんや仁くんと連兄ちゃんの写真が沢山あったから、よく遊びに行く僕に豪六じいちゃんも良子ばあちゃんも色々と教えてくれていた。

 豪六じいちゃんは特に、


「人には色々な人生があっていいんだから、隠す事でもない。まゆみさんや仁と連、菜緒さんと夏人、皆等しく大事だからな」


 そんな風に良く話して聞かせてくれたから、お父さんに別の家族が居ようが、僕に母違いの兄弟が居ようが否定的にはならずに、そういうものなんだなと育ってきた。

 何なら、まゆみさんとは会った事は無いけど仁くんと連兄ちゃんと僕は、そこそこ連絡も取りあったり仲が良いとも言えるし。


 そんな風な遠目家だったから、豪六じいちゃんと良子ばあちゃんは、後妻となったお母さんの事を凄く可愛がってくれたとお母さんが言っていたのを思い出したし、特に、お父さんが亡くなってからも良子ばあちゃんには沢山助けてもらって凄く感謝してる『恩返ししてもしきれないよ、夏人がこの家から巣立ったらさ、私はこの家売って、お母さんと暮らすつもりだしね。一生面倒みさせてほしい』と笑いながら話していた。




 実の親子のように仲が良いから、今日もまた色々と楽しい話でもしているのかもしれない。

 




「ただいまぁ…………、あ……?」


「菜緒ちゃん、菜緒ちゃんっ目を開けて! 菜緒ちゃん!!」


「え、何、どうし……」


「菜緒ちゃん、菜緒ちゃん、なつくん帰って来たよ……菜緒ちゃん!!」


────良子ばあちゃんの声が震えてる。って言うか大きい声出して一生懸命、菜緒って呼んでる。菜緒、菜緒って僕のお母さんの名前……? そんな慌ててどうしたのさ。いつも慌てる姿なんて絶対見せる事ないのに。

 

『遠目さん、聞こえていますか、遠目さん』


 誰か、何か言ってる。誰だ?

 男の人?

 側に携帯が開かれたままになっていて、どうやら声はそこから聞こえてきているようだ。

 

『呼吸はしていますか?』


「だから、していないのよ、いっくら呼んでも目を開けないのお願い、お願いします、早く来て!」


 良子ばあちゃんが酷く狼狽えている。気が動転しているんだろうか、身振り手振りでそんなに大きな声出すと血圧上がっちゃうよ。


『遠目さん、既に救急車を向かわせていますから落ち着いてください、動かさなくて良いので、出血などは見られますか?』


「いいえ、いいえ、ない、ないみたいです。夕飯の準備をしていたみたいなの、エプロンつけたままで倒れていて」


 コトン


 握りしめてきた卒業証書の入った賞状筒が僕の手か離れ、床に吸い込まれていく。

 ダイニングテーブルには、テーブルいっぱいの手料理達が並び、そのメニューは和洋折衷あり全て僕の好物で満たされている。反対側の椅子には、大きな花束が置かれていて夏人へと書かれた白い封筒が見えた。


「お母さん、こんな沢山用意してくれたんだ。おーすっごい量、しかも全部僕の好きな物ばっかりじゃん。3人でこんなに食べきれるの? まぁ無理だったら冷蔵しといて後日でも良いよね」


「なつ、くん…………うぅ、」


 ダイニングテーブル横の床の上に、うつ伏せになっているお母さんが居た。近くにはひっくり返った楕円の白い皿と焼きそばが散らばっている。

 連日の仕事でやっぱり疲れてたのかな、こんな所で寝ちゃうなんて珍しい。仕方ない寝室まで運ぶか、ソファーでも良いか。あぁ、肌寒いと困るから掛ける物も後で取ってこないと。

 抱き上げようと近づいた所で、遠くに微かに聞こえていたサイレンが急にすぐ側に聞こえてそれからすぐに玄関のチャイムが鳴った。


 今からお母さんを運ばないといけないのに、何だよ。床で寝たままじゃ寒いだろ、固いしさ。ほっぺに床の跡ついちゃうじゃないか

 

 仕方なく触れるのは止めて、玄関へと向かう。

 鍵を開けると、蛍光のオレンジ色の衣服に身を包みヘルメットをした人達が数名で挨拶後に家の中へと上がって来た。


 なんだって言うんだ、大袈裟だな皆。

疲れて眠ってるってだけなのに、ほんと何しに来たんだろう。ゆっくり休ませてあげたら、明日にはいつも通り、そうだよいつも通りに起きて


『おかしいなー、何でお母さん床なんかで寝落ちちゃったんだろ』って笑って──────



「遠目さん、遠目菜緒さん、聞こえますか」


 隊員がお母さんの肩に軽く触れながら声を掛け続ける。目を瞑ったまま反応は無く、全身から力が抜けているようだった。


「反応なし、気道確認確保・呼吸確認」


「胸骨圧迫、人工呼吸開始」


 数名の隊員が忙しなく囲んで動いている。僕と良子ばあちゃんは、あっという間に蚊帳の外だ。

 ただ、ぼんやりとその光景を眺める。


 

────いやいや、待て待て。呼吸をしてないってなんだ? そんな訳ないだろ、午前中は一緒に居たんだぞ、いつも通り。

 話して、笑って、おかしい所なんて一つも無かった。

 朝ご飯だって一緒に食べたし、何なら僕よりモリモリ食べてたじゃん。なんで?

 何、これ盛大なドッキリとか何か? お母さんが倒れて救急車呼んでみたなんてドッキリでもしてんの? 誰が? 何の為に? 何にも笑えないんだけど。 一ミリも笑えないんだけど。どうなっての? 息、息しなきゃ死んじゃうじゃないか、死って…………だれが、…………お母さんが……?

 


           は?



 意味が分からない、一つも分からない。なんでこんな事になってるの。

 今朝は変わらなかった、いつも通りの元気なお母さんで、軽口叩き合って笑って、最後の登校だなんて思って一緒に学校に行って、おかしい所なんて何にも無かった。

 毎日の仕事が忙し過ぎたとか? いや、見てたらそれはやっぱり忙しそうにしていたけど。

 僕の為に用意してくれたこの山盛りの料理を作るのに張り切り過ぎた? それで、疲れて、そのまま床に寝ちゃったんだろ?



           ねぇ。


 

 考えが堂々巡りしている事にも気が付けず、理解しようにもすぐさま否定を飛ばす自分が居る。そんな筈無いじゃないかと。ある訳ないだろうと。


「菜緒ちゃん、菜緒ちゃんっ!! 目を開けて、ほら、ね? 目を、開けて……! お願い……」


「あ、ちょっと、離れてください!」


「離してください、だって、このままじゃ菜緒ちゃんが……っ」


「我々に出来る限りの手を尽くします、ですから今は離れてっ」


「菜緒ちゃん! 菜緒ちゃん、う、うぅぅ! 目を開けてぇ」


「良子ばあちゃん…………」


「君、頼むからこの方そっちへ連れていって」


「僕……?」


 救急隊の一人が困ったように僕を見た。

 良子ばあちゃんがボロボロ涙を零しながらお母さんの名前を叫ぶ。お母さんの側に行こうとしているのを、隊員が必死に抑えている。


「良子、ばあちゃん、駄目だよ。今は……僕と一緒に居て」



 目の前の景色が、酷く遅いスローモーションのように進んでいく。

 慌ただしく動き、喋る隊員の声も、良子ばあちゃんの泣き声も全部。何もかもが酷く、遅い。



 救急隊の人から警察に連絡してすぐ警察が2名程で訪問しに来た。救急隊の人達が警察の人に引継ぎ、警察はその場で検視開始。家族に話を聞きながら。


「遠目さん、こんばんは、大本警察です」


(警察、警察が何しに来たんだろ……)


「遠目さん、入りますね」


「失礼します」


 その後は、ぼんやりとした事しか覚えていない。

 けれど、聞き方を変え何度も同じような事を聞かれた。


「お母様はここの所、何か変わった様子などなかったですか? 息子さんが一番よく知っていますよね?」


 いつも通り元気で、仕事にも休まず行っていてご飯も良く食べていたし、まるで変った様子が無かった。

 繰り返し、繰り返しこう話した。

 結局、事件性は無いと判断されそのまま病院へ運ばれた。

 その後、一日程でお母さんは帰って来た。

 

「ご自宅で亡くなると、触ってしまう人が多いんですけどね、場所を大きく移動したりだとか、お風呂場で亡くなっている時なんかはタオルを掛けたり、衣服を着せたりね。でも、それされちゃうとご遺体なかなかお返し出来なくなっちゃうので誰も触れなくて良かったですよ」


 最後に誰かからもそう言われた。正直、そうなんですかとも何とも言えない。一つ頷く動作をするのがやっとで、どうでも良かった。

 お母さんが返ってきて、警察の人が帰った後、入れ替わるように今度は豪六じいちゃんの時も、お父さんの時にもお世話になった葬儀屋さんがやってきた。


「この度はご愁傷様です」


 スーツに身を包んだスタッフがベッドに横たわるお母さんに手を合わせてから、白い手袋をはめ、手際よくドライアイスをしいていく。

 その作業もぼんやりと眺める。

 良子ばあちゃんは、取り乱したあの日以来、あんな風になる事はもう無かった。まず葬儀屋さんに連絡してくれたのもそうだけど、その後の葬儀屋さんと話し合いでは、僕の意見も聞きながら後の全ての手配を引っ張ってしてくれたのはしっかりとした顔付の良子ばあちゃんだった。

 

 動く合間合間に、ベッドで横たわるお母さんの顔を見る。



 おかしいな、涙が一滴も出てこない。



 豪六じいちゃんが亡くなった時も、中3の時お父さんが逝ってしまった時もボロボロ泣いたのに。なんで?

 

 僕は夢でも見ているのだろうか

 夢、そうか、これは夢に決まってる。決まっていると思うんだけど。

 いつから夢の中にいるんだろ? 白昼夢ってやつ? それにしても長くないか?

 卒業式はこれからだろうか

 今日は、何月何日

 

 目が覚めたら、きっと、いつもと変わらない朝で、お母さんが朝ご飯用意してくれていて、それで、一緒に食べてから、着替えて、卒業式に一緒にいく。

 卒業式にいかないと

 最後くらい、同級生達と心底騒いどくのも悪くはないかも

 ブルーミングプロダクションから連絡なんて、来る訳ない

 光る何かを持たない者の癖に、どんな都合の良い夢を見ていたんだろう

 僕は一次選考で不合格通知を貰っただろうに

 全ての人の夢が等しく叶えられる訳じゃない

 そこから僕は転がり落ちたのだから

 

 

 悪い夢なら、はやく覚めてくれないだろうか

 頬をいくらつねってもぼんやりとした痛みしかない

 いつまで続くんだろう

 さっさと寝てしまおうか、そうすれば明日になって、それで……



 ぐぅ


 

 何の音?


 

 ぐぅうぅ


 腹の音か、誰の? 僕の……?


 何で? このタイミングでお腹空くの? あぁ、昨日の夜から何にも食べてないんだっけ。

 お母さんが作った物もそのままじゃないか。

 勿体ない、食べないと。


「良子ばあちゃん、ご飯を食べよう。あっためないといけないのもあるかな。夏場じゃなくてよかった」


「……そうね、そうしようか」


 それから、山盛りになっているご飯を前に二人で手を合わせて『頂きます』と声を上げる。

・塩と醬油の唐揚げ、カレー、卵焼き、サンドイッチ、手毬寿司、ハンバーグ、ピーマンの肉詰め、ベーコンアスパラ巻き、肉巻きおにぎり、一口魚ナゲット、一口お好み焼き、たこ焼き、ミニピザ、和風スパゲティ、一口ホットドッグ、チーズボール、甘辛ミートボール、焼肉ガーリックライス、ピラフ、炒飯、刺身カルパッチョ、エビチリ、麻婆豆腐、麻婆茄子、チンジャオロース、肉餃子。チーズ大葉餃子、イカリング、玉葱フライ、オムライス、コロッケ。



「あははすっごい量。本当に多すぎだよ、…………うん、でもやっぱり美味しい」


「どれも美味しいわ、菜緒ちゃん本当にお料理上手なんだから」


 それから黙々と食べた。あれも、これも全て僕の好きな物。弁当の中に入っていた物も沢山あった。キャラ弁みたいな器用なやつは苦手だったみたいだけど、ガッツリ弁当は得意で上手にぎっしりと詰めてくれていた。

 節約料理が多いのに、凄く美味しくて腹もちゃんといっぱいになる。凄い料理だった。

 そして、いくらなんでも流石に一か月分くらいの食費は優に吹き飛んだであろうこの好物オンパレードは、どれも美味しくてあっという間に少なくなっていった。

 お腹いっぱい食べて、残った物はラップをかけ冷蔵庫へ仕舞う。


「っはー!! 食べた!! ご馳走でした!」


「夏くん、」


 ぽんぽんに膨れた腹を摩っていると、良子ばあちゃんが静かな口調で僕に話しかけてくる。


「うん」


「これからもうちょっと忙しくなるから、一緒に手伝ってくれる?」


「勿論、なんだってやるよ。お父さんの時には僕何にも出来なかったからね」


「ありがとう、そうだ。久しぶりに咲ちゃんにも連絡をしないとね。元気にしてるかしら」


「咲って、咲叔母さんの事?」


「そうよ、姉妹だものね」


「そっか、了解。メール交換してなくて知らないんだけど、大丈夫? あ、待てよ。お母さんの部屋に何か色々とあるかも。後で探してみるよ」


「じゃあ、そっちはお願いね。おばあちゃんも色々と動くからね」


「うん、何か僕こんな時に頼りなくってごめん」


「いいの、親が逝く時って言うのはね、後はこうしていくんだよって子供に最後に教えられる事なんだから。みんなそうして覚えていくものなのよ」


「そっか、うん。わかった」


「洗い物はおばあちゃんやるから、咲ちゃんの事先に調べてきてくれる?」


「了解、じゃあお願いね」


「はいね」




 食後、早速お母さんの部屋へと行き『連絡先』まとめノートを探す。以前、お父さんの時に大変な思いをしてから自分がもしもの時用に一冊に纏めておくと言っていたのを思い出したのだ。


「分かりやすい所に置いておくって言ってたからな……」


 お母さんは片づけが結構好きで、部屋はコンパクトにまとまっていた。あんまり余分な物がない、無いけれど、僕が小さい頃に作ってあげた物とかは『夏人がくれた宝物』って大きく書かれたボックスの中に丁寧に仕舞われているのを発見してちょっと恥ずかしくなった。

 それからくるりと見回していると本棚の一つに、ノートのような物を見つける。


 連絡先まとめ、と言うよりは【もしもの時ワンページ】と書かれていた。


 中を開くと、後から付け足していけるような日記みたなもので、生年月日は勿論、生まれてから最近の事まで、色々な事が細かく記されていた。


「うわっこまかっ! やっぱこういう事やってたんだなぁお母さん。そう言えば、家計簿もせっせと付けてたもんな。そのおかげで、うちの家計は回ってきてたって事か。守護神じゃん」

 

 ぷつぷつ独り言を零しながらそのノートをめくっていくと、後ろの方に知り合いの連絡先一覧があった。その中に咲叔母さんの連絡先も載っていたのでひとまずリビングに戻る事にする。


「良子ばあちゃん、これに載ってるけどあってるのかな」


「おや、早かったね。どれどれ、見せて」


 老眼鏡をポケットから取り出してからノートを覗く。


「うん、これで合っていそうだね。じゃあ、咲ちゃんに電話を掛けてくれる? 一通り伝えて大丈夫だから」


「了解、」


────

──


 久しぶりに声を聞いた咲叔母さんは、僕の声が変わりすぎていてとても驚いていたけど突然の電話でも迷惑そうにはせずに聞いてくれた。

 そして、お母さんが亡くなった事を告げる。

 電話の向こう側は相当なパニックになったようで、咲叔母さんは涙声で『夏、連絡ありがとうね。すぐそっちに行くから』と言って通話を終えた。


「あ、お母さんが働いてた喫茶店のマスターにも伝えに行った方がいいのか?」


 良子ばあちゃんに、咲叔母さんが急ぎこちらへ向かってくるらしいと言う旨を伝え、喫茶店のマスターについて聞くとお店が終わってから行っておいで。と言ってくれた。

 19時に閉店になるからもう少し。

 

 

 時刻少し前になって、家を出た。

 割と近くて自宅から10分程。昔ながらの純喫茶で、常連さんに愛されているお店だ。

 どんどん歩いていくと【時計】の看板が見える。

 近くに来ると珈琲の良い香りがして、何だかホッとするんだよな。と思いながら店の扉を開けるとカウベルが鳴る。


「あれ、夏くん」


 一人後片付けをしていた老齢のマスターが驚いたようにこちらを見た。


「丁度良かった、菜緒ちゃんどうしたの? 卒業式終わってから一回顔見せてくれて、明日はやっぱり行きますって言ってくれてたんだけど……長い事勤めてくれてるのに無断で欠勤はした事が無かったから……」


「マスター、あのね、母さん……卒業式の日の夜亡くなってしまって。すみません、母さん普通に行くつもりでいたと思うんですけど」


 ガシャン


 マスターの拭いていた皿が落ちて、割れた。


「わっ、マスター大丈夫? 皿が……」


「……え、いや夏くん、皿なんてどうでもいいよ。え、今のそれ、ほんとに……? え、だって、あの日も私の所に寄ってくれて元気で、夏くんの卒業すごく喜んでて…………」


 咲叔母同様に酷く狼狽える。


「あのもし、マスターが良かったらで良いんですけど、この後家に来ませんか? 母さん、きっとマスターにごめんって一番に伝えたかったんだと思うから」


「……いいのかい? 私は身内ではないから本当はお通夜から参列すべきなのに……」


「何言ってるんですか、マスターとはもう家族みたいなものでしょ。母さん、絶対喜ぶよ」


「……わかった、今から一緒に行くよ」


「うん」


 マスターは鍵を閉めて、店を後にする。元々齢が多いマスターはいつも背筋がシャンと伸びているのに、横に並ぶと今日は小さく丸まっているような気がした。

 歩きながら、「本当なのかな、夢じゃないのかな。菜緒ちゃん……」と小さな声で涙をポロポロと零しながらゆっくりゆっくり歩いていく。


 自宅に到着すると、良子ばあちゃんと顔を合わせてまたポロポロと泣くマスターは、お母さんが眠るベッドに寄ると膝から崩れ落ちてしまった。


「菜緒ちゃん……菜緒ちゃん……どうして、私を咲に空へ送ってくれる約束だったろう? もっと美味しい珈琲の淹れ方を勉強するんだろう? 夏くん、これからじゃないか。う、うぅ…………

でも、でも……大変な事がいっぱいあったね、ここまでよく頑張って来たね。夏くん、とってもいい子に、立派に育てたね。よくやった、よく頑張ったねぇ…………少し、上でゆっくりするんだよ。

お父さんとお母さんと今頃楽しく話せているかい?」


 暫く涙ながらに話をした後、マスターはまた後日、改めてねと帰って行った。



 人は、悲しい事に直面すると皆泣くのだろうか。

 いや、豪六じいちゃんの時も、お父さんの時も悲しかったよ。色々な事を思い出して、逃げたくなるくらい苦しくて。

 じゃあ、泣かないって事はお母さんが亡くなった事は悲しくないのか…………? 僕は、いつの間にか、どこかに人の心を捨ててきちゃったのかな。この言い表せない感情は何だろう。よく分からない思いは何だろう。分からない、分からないや。



 思考が渦に引きずり込まれていくかのような気がして、慌てて頭を振る。

 気を取り直して、今後の話を良子ばあちゃんとする事にした。人が亡くなった後は本当に慌ただしい、結構ゆっくり別れを惜しむなんて事出来ないもんだな。と感じた。


 決める事をある程度決めて、風呂へ入る事にした。って言ってもシャワーだけだけど。

サッと浴びて出る。歯を磨いて、寝室へ行く前にお母さんの元へ向かう。

 深呼吸を一つして、話しかける。


 料理さ、全ー部美味しかったよ。って作りすぎだよありゃ、食べきれなくてまた明日、ちゃんと食べるからね!

 ご馳走様でした!

 所で、ねぇお母さん、ドライアイスってかなり冷たそうだね。大丈夫? 腹壊してない?

 冷えるとすぐお腹に来るもんね。だけど、夏は懲りずによくアイス食べてたよなー、多い時は2回とか食べてたの僕実は知ってるんだからねー。


 って言っても、まぁ、こうしとかないといけないんだよね。まだ日があるし。


 


 長い沈黙が落ちる。






「お母さん……」








 顔色も結構良くて、本当に眠っているようにしか見えないのに、胸の前で重ねられた手は、酷く冷たかった。












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