第75話 噂の美人①
久しぶりの講義で俺の体力がガリガリと削られていく。夏休みに慣らされた俺の体は、長時間の拘束には耐えられなくなってしまっていた。
長い講義時間。短い休み時間。硬い椅子。繰り返される階段の上り下り。どこをとっても少しずつ、しかし確実に体力を奪っていく。周りを見渡せば亡者の群れ。ここはさながら地獄のようだ。
そんな中、人を掻き分けこちらに向かってくる男が1人。この混沌とした世界においても輝きを失わない陽キャの望である。今日も羨ましいくらい爽やかな笑顔だ。
「おっすおっす。清隆、昼飯どうする?なんか持ってきた?」
「いや、なにも考えていなかった。次、空いてるし、時間をずらしてテキトーに学食で済ますつもり」
「それなら、もうに行こうぜ。先に大我が席取ってくれているらしい」
「まじか。あの人混みの中、椅子取りゲームをしないのは助かる。ただでさえヘトヘトなのにさ」
「ふにゃふにゃしてないで、さっさと行こうぜ」
「へいへい」
キャンパス内は多くの人が行き交い、賑わっている。夏祭りの日に閑散としていた情景が嘘のようだ。
当然、人の流れは学食方面。腹の虫に操られた人々が1つの意志を持った生き物のように歩いている。会話として耳に入ってこない、見知らぬ人々の声が鳴き声のようだ。俺達もその末尾に加わり、鳴き声の一部となる。
「なに食べっかなぁ。昨日はA定食だったし、今日は学生カレーで節約すっかなぁ。生姜焼き定食も良いな」
学生カレーとは、具がほとんど入っていない格安カレーのことだ。他のメニューを作る際に生じるクズ野菜をすり下ろして使用しているため格安で提供できているのだが、野菜の旨味が存分に溶け込んだカレーは、家カレーの数倍美味しい。俺も財布がピンチの時には何度も助けられた。
「俺はB定だけどね」
今日のB定食は、麻婆茄子。この食堂の麻婆シリーズは万人受けするように甘めの味付けとなっているのが特徴だ。しかし、侮ることなかれ。これが不思議なことに白飯が進む進む。腹ペコモンスターが満足するにはうってつけのメニューなのだ。
そして、忘れてはいけない。そう、定食には玉子焼きが付くのだ。俺のお目当ては、日替わり定食のメニュー表には書いていないこやつだ。考えるだけで、よだれが垂れそうになる。
「ほんと定食好きだな」
「定食ってか、玉子焼きが好きなだけだよ」
「どっちでも同じようなもんだろ?ほれ、先に買えよ」
人といる時の時間はあっという間なもので、望と話しているうちに券売機の所まで来ていたようだ。望に促されるまま、お金を入れて迷わずB定食のボタンを押す。お釣りと共に吐き出された食券には、しっかりとB定食の印字がされている。これを見ただけで、脳内にイマジナリーB定食が登場。腹の虫が鳴き止まない。俺はこんなにもお腹が空いていたのか。
「なにしてんだ?行こうぜ?」
「ごめんごめん。お腹が空いていたことを思い出していたんだ」
「なんだそりゃ」
俺が昼食に思いを馳せているうちに望も食券を購入し終えていたようだ。食券を渡しに厨房直結のカウンターへ向かうと、幸いなことに定食コーナーは空いていた。今がチャンス。もう行列に並ぶのはこりごりだ。
トレイと箸を取ってから食券を出すと背後から伸びる手が1つ。
「なんだ。望も定食にしたのか」
「A定の鯖の味噌煮。誰かさんが定食中毒だからな。俺も毒されちまったみたいだ」
「まぁ、あの玉子焼きの誘惑には勝てないから仕方がないね」
横に移動しながら、ご飯、味噌汁、サラダに麻婆茄子、最後に主役の玉子焼きを受け取る。熱々のご飯を安く食べられるのは、学生の特権だ。たまにスーツ姿のサラリーマンが紛れ込んでいることもあるが、ご愛嬌。
お昼時、広い食堂スペースであっても空いている席を探すのは至難の業だ。窓際で手を振っている大我がいなければ、この定食にありつかなかったことを思うと玉子焼きを贈呈しても良いくらいだ。そんなことは絶対しないけど。それくらい感謝しているってことが伝わって欲しい。
「大我、ありがとな」
「さんきゅーさんきゅー」
「今度はどっちか代わってくれよ?ラグビー部のやつらに睨まれて、すんげー気まずかったんだからな」
「わりぃわりぃ、このとおり!」
望が顔の前でわざとらしく手を合わせて謝ってみせたが、妙に小慣れているのが気になる。しかし、なぜか許してしまう雰囲気になるところからすると、既に彼の処世術として完成の域に達している証拠なのかもしれない。
「大我、食券まだだろ?荷物見てるから行ってこいよ」
「俺は大丈夫だよ。持ってきてるから」
「またコンビニかー?安上がりなのは分かるけど、せっかく食堂があるんだから使えば良いのに」
大我は昼食をコンビニのおにぎりとスープで済ませることが多い。OLのような食事だと揶揄うこともあるが、本人曰く食堂よりも安くてカロリー計算も楽ということらしい。
おそらく今日もそういうことなのだろう。場所だけ取らせて申し訳ない。俺は改めてそう思った。しかし、その考えはすぐに間違いだと気付かされる。俺は忘れていたのだ。こいつには相手がいることを。
「ん?なんだそれ?」
俺達が席に着いたことを見計らって、大我がリュックから巾着を取り出す。柄物を好まない彼にしては珍しく賑やかなデザインだ。
「いやね?彼女が休みだからって、こっちに遊びに来ててさ。作ってくれたんだよ」
照れ臭そうに笑う大我に俺が思うことは、ただ1つだけ。俺を置いて、大人の階段を駆け上がっているということだけだ。
「愛妻弁当ってやつか。羨ましいこって」
「望……前にお弁当ブッキングして大変な目にあったの忘れたのか?」
2人の女性に追いかけられる望の姿が懐かしい。あの後、女の子達が意気投合して、望そっちのけで遊びに行ったんだっけか。
「お前だって咲良さんがいるじゃないか。あーあ、良いなぁ。良いなぁ。羨ましい」
「咲良さん……ね。そんな関係じゃないって」
咲良さんとは、夏祭りの後から会えていない。連絡は取れるし、返信も来るのだが、この1週間大学でその姿を見かけることはなかった。
次回更新は、11月5日(土)の予定です。




