プロローグ
第三章始まります。
彼が枕にしていたリュックの中、僅かに開いたチャックの隙間から、昊刃の全力がまったく効かない女を戦々恐々と眺める妖精のリス。
鈴木昊刃が、なすすべもなくやられた。勝負にもならなかった。彼は何かを飲まされ、その意識を奪われる。
信じられなかった。鈴木昊刃は、リーの知る最高の亜人・リュカに次ぐ才能を持っている。まだまだ経験不足ではあるが、過去に遭遇し、その度に歴代の亜人を屠ってきた凶悪なエギンと戦わせても、きっといい勝負が出来るだろう。
あのリュカであっても、昊刃に全力で殴られてダメージが通らないということはないはずだ。
女は昊刃の姉を殺したが、昊刃自身を手に掛けるつもりはないようだった。息を潜めて観察する。女の目的を見極めるために。
彼女と目が合った。
リスの背筋が凍りつく。
「いるんだろう。リーンハルト」
女は呼びかける。ほんの少し遠慮がちで、しかし親しみも込められていた。
そしてこう補足を付ける。
「いいや。今は『リー』と呼んだ方がいいのか?」
「……っ!?」
リーンハルトとは、自分のことなのか。リスは困惑する。亜人を見つけてはエギンにけしかける、何度もそれを繰り返した。時間にして三千年は過ぎたが、最初に妖精リスの「リー」として目覚めた時のことは今でも覚えている。
存在を受けると、そこには、ヒト社会の基礎知識と、亜人とエギンに関する情報と、「リー」という名前があった。
初めから「リー」だった。
自分が「リーンハルト」なる名前の存在だった記憶はない。
問題は、女にリーンハルトと呼ばれた者が自分だということだけではない。女が自分を知っている。直接の面識はない。鈴木昊刃から話を聞いて、リーは一方的に彼女を知っていたが、彼女に妖精リスを知る機会はなかった。
「隠れたまま? 仕方ないか、記憶を失っているのだものな」
女はリュックを見つめていた。いると確信していた。
「ずっと待っていたよ。君たちからの、二つの贈り物を。一つめが届いてから、千年と少し経ったかな。時間通りだ、ありがとう」
感謝の言葉を告げる。リスには訳が分からなかった。
礼を言われる筋合いはない。
「と今の君なら感じるだろう。どうせすぐに忘れてしまう。これは私の自己満足だ。けれど、いずれ必ず思い出す。それまでは、語尾の怪しいリスの妖精『リー』として、君らしく、斜に構えて過ごすといい」
女は、鈴木昊刃の左手袋を外す。ジトリとした汗で張り付いていたらしく、裏側にめくれた。
掌の中心で脈づく真紅の宝玉に、彼女はそっと優しく触れる。
刹那、突然に電池が切れたかの如く、妖精リスの意識は暗転する。
翌朝、彼は亜人たちとともに、いつものアパートに戻っていた。
記憶を書き換えられた状態で。
もう一話投稿します。




