エピローグ
大きな、とてつもなく大きな地獄の蝶、その名もそのまま「地獄蝶」が、百八本の足に亡者の魂を引き連れて、境界近くを優雅に舞っている。
毒々しい羽を広げて、我が物顔で飛んでいる。
死の鱗粉を撒き散らしつつ。
「たかが蝶の分際で、あそこまで大きくなるとは。肥え太りやがって。どれだけ蜜を吸ってきたってんだ? あん?」
男はそう吐き捨てた。
彼の眺める先、里の外は、人の住める世界ではない。腐気立ち込める、化け物たちの楽園である。少し体を動かすだけで、生半可な都市なら半壊させてしまうような怪異たちが、あちらこちらに跳梁跋扈している。
この位相において、里より安全な場所はなかった。しかしその事実は、境界より内側が、真に人の世界であるということを意味しない。本来化け物たちの住処であった場所を、切り開いて作られた空間だ。
化け物たちに、人の生活を尊重する習性などあるはずもなく、平気でお邪魔してくる。
本能で襲いかかってきて、無邪気に食事を行う。
「隊長。どうするでありますか?」
「はっはは。今は二人しかいねえんだから、『お父さん』でいいだろ。なんなら『パパ』でも構わないんだぞ」
「任務中でありますゆえ。それに、『パパ』は随分前に卒業したであります」
「あん? そうだったっけな?」
地獄蝶はゆったりと、こちらに向かって近づいてくる。
男は、自分の娘かつ部下に尋ねた。
「透圧は?」「急速に低下中であります。大物でありますな」
「いいねえ!」
装束備え付けの通信機を口元に寄せ、男は部下たちに呼びかける。
「十三秒抑えろ」
いよいよ蝶が、里と外との境界を越える。飛び散った死の鱗粉によって、木々、草花が枯れていく。蝶の足にぶら下がる無数の魂が、死後も囚われ続ける苦しみから、憎悪と怨嗟の声を上げる。蠢いて、不完全でも人の形を取ったと思えば、すぐにドロドロと融けていく。
四方から鎖が伸びた。先端のクナイが、蝶の肉に刺さる。
人の水準に喩えるならば、小さな木の皮が指の腹に刺さった程度の、取るに足らない負傷である。況してや、人よりはるかに丈夫な化け物に痛痒を与えられるとは、まったく考えられない規模の攻撃だった。
しかし、地獄蝶は止まった。全身が麻痺して、羽を上手く動かせない。滑空するように落ちていく。
「よし」
隊長の男は、満足そうに頷いた。
懐から種を取り出し、口に投げ入れ、噛み砕く。
血に刻まれた術式を発動させて、虚空から武具を取り出す。それは、古き時代の大砲だった。重々しく黒々しく、壊れかけで、しかも錆び付いている。
どう見積もっても遺物であって、現役の武器ではない。
男は無造作に右腕を伸ばした。胸部から先が変質し、肥大化する。
彼の右腕が、古き大砲と融合し、脈付く肉の巨砲と化す。
墜落の直前に立て直す地獄蝶。クナイを振り払い、男に突進する。
彼は口ずさむ。
「波鬼・一奥」
砲身から吐き出されたのは、無数の血管、筋原繊維と、神経だった。絡み合って、凝縮され、硬化して、鬼のツノを象る。
蝶の胴を、貫いた。
溜め込んだアイテールの結晶を方々にばら撒いて、今度こそ地に墜落する。すり抜けたため、巨体による森への被害はなかった。鱗粉だけ直ちに消え失せ、羽が透明になる。
本体は、徐々に消えていく。
「任務完了でありますな。大丈夫でありますか?」
「大丈夫な訳があるかよ。ったく、ごっそり持っていきやがって、頭がぼうっとするぜ……。誰も死んでないよな?」
「もちろん。お父さんは、私の誇りであります」
今年で十四になったばかりの小さな娘では、彼の図体を支えるには足らなさ過ぎた。大人しく、散開していた部下の再集合を待つ。
男は娘に話しかける。
「六華。お前は本物の蝶を、その目で見たことあったか?」
「ありませぬな。ずっとここにおりますゆえ。護衛として採用されるまでは、それでもいいと思ってますゆえ」
「忙しいからな。しかし、外界での旅行も悪くない。ちと刺激は足らんがな」
通信機のダイアルを弄り、統括部に戦闘終了の旨を伝える。
電源を切った。彼は続ける。
「アゲハと呼ばれる蝶は、それはそれは美しかった。写真で見るよりずっとな。ソレが舞う姿を見た瞬間、目に焼き付いたと思ったくらいに、黒と黄色のコントラストが綺麗だったのさ」
「そう言われても。蝶と言われると、私には地獄蝶の、気持ち悪く悍ましい、生理的嫌悪感を掻き立てる姿しか思い浮かびませぬな」
「アレこそ紛い物だ。現実に生きる蝶を、不相応にも真似しやがっただけの、出来損ないにも満たない贋作だぜえ。お前も知ってるだろうがよ。本物は違う」
「それはそうでありますが」
「いつか見せてやりてえな。花畑で楽しく踊り回る、華々しい蝶たちを。アゲハの他にもたくさんいる。モンシロチョウは、シンプルで可愛いな。似てるヤツにモンキチョウってのも……」
黄色い羽をパタパタとさせて、懸命に舞う彼ら彼女らの姿の想起が、別の記憶を掘り起こすトリガーとなった。
周りの倍以上努力しても、適性がなく、すべてがすべて上手くいかない、健気だが可哀想な少女。
黄色い髪の落ちこぼれ。
「あの子。椎奈ちゃん、元気かねえ?」
一章終わりです。今のところ四章構成を予定しています。巴ちゃんが個人的にいいキャラしてるのと、寝ている時に夢が夢だと気づき、昊刃の真似をしてビュンビュン飛んでみて最高に楽しかったので、最後まで書けそうです。
次回更新は八日後の月曜日(6/20)からです。
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