1 人間ではない
体が、軽い。
こんなに軽く感じるのは久しぶりだった。制服に身を包む同世代の群れを、リズミカルに抜き去っていく。約半数は「ながら歩き」で、進みが遅い。いつもなら苛立つ彼ら彼女らの存在も、今日はおおらかな気持ちで許せる。
友達の背中を見つけた。軽くバッグを叩く。
「おはよう白西」「はよー」
声はほとんど聞こえなかった。ホントに「はよー」と返してくれたのか、イマイチ自信がない。幻聴の可能性がある。
「人ってのは、見据える方角が前なんだよ。スマホの中が白西の前?」
「スマホん中以外のどこに未来があるとゆ−の?」
「少なくともそのゲームにはない。制作会社が倒産寸前なので」「まじ?」
「ゲームしながら歩くのは超危険だぞ。地図アプリですら危ない時あるのに」
「ダイジョブよ。ぶつかりそうになったら右上にアラート出る設定にしてるし」
「へー。どんどん人間をダメにしてくるな、悪い恋人みたい」
下駄箱の靴を入れ替える。白西がローファーを片方落とした。拾ってやる。
「あーあ。『第三の手』欲しー」
「ああ、あの『装着出来るスマホスタンド』? でもお高いんでしょう?」
「十五万円」「フツーに高い」「持てるのスマホだけじゃないしね」
本も持てるらしい。便利そうだ。俺も欲しい。
手袋を着けた、少し不自由な左手を見ると、余計にそう思う。
「……なあ」「んー。どしたの昊刃」
「今日、なんか軽くね?」「へ?」
顰めっ面が目に入る。
「曇りだし、湿度も高めだし。ダルくて重いくらいなんだけど?」
訝しむように、彼女はそう言った。
「ごめん、変だった」
理解されない寂しさを、少し笑って誤魔化した。
◇◇◇
体が軽い。どんなステップでも踏めそうだ。
下校時刻になっても、それは変わらない。
「あちゃちゃ〜。結構降ってんな〜」「天気予報見てなかったん?」
傘なし少女、室の背中に冷ややかな視線を向ける白西。俺も見ていなかったが、常に折り畳み傘を二つ携帯している。
一つを室に貸しつつ、二人に尋ねた。
「あれ、鳥矢は?」「先帰った。なんだろう、忙しいって」
「あの暇人が? ヒマを溶かしたヒマでコーティングして、さらに上から大量の粉末ヒマをかけたような存在のあいつが? 暇過ぎて忙しいんじゃねいの〜?」
「ムロぉ、さすがにいーすぎ。つかさ、ヒマって溶けるの? 何度で?」
「デミ・シード」
「あのゲームおもろいよねー。確かにヒマな時間溶ける」
知らないゲームだった。あと、大量の粉末ヒマの方が気になったせいもあって、会話に乗り切れない。
「早く帰ろうぜ。今日は寒くないけど、雨見てると少し寒い」
「昊刃、デミ・シードはまじおすすめだから。今度ムロんち集まってやろー」
「え〜。鳥矢の家で良くな〜い?」「あっこ四人も入るスキマないじゃん」
「はあ。キミら知ってるでしょ」
傘を広げて外に出た。雨の感触が、ビニルの膜を通じて、ポツポツと伝わってくる。
「俺の左手。興奮したらゲーム機すり抜けちゃうの」
ゲーム機だけじゃない。
どんな物でも、すり抜ける。
談笑しながら行く帰り道。鳥矢含めた三人は、幼馴染で、とてつもなくいい奴らだ。医師も匙を投げた俺の特異な左手を、気持ち悪がらず側にいてくれる。彼らがいたから、俺は自分の体質と上手く付き合ってこれた。
しばらく持ちそうな腐れ縁。俺は白西のことが好きだから、このまま腐れ縁で終わってほしくはないけれど。
当の本人は恋愛に興味がなさそうだから、まったく踏み込めずにいる。
「あれ」
室が立ち止まった。つられて同じ方角を見る。
自動販売機が二台並んでいた。列から「あったかい」飲み物が消えて、大体一ヶ月と少しになる。片方を背もたれにして、子供が座っている。
傘も持たず、ずぶ濡れだ。
息が荒い。震えている。
嫌な予感がした。傘を捨てて走り寄る。特徴的なピンク色の髪。隣の部屋に住んでる子だ。見かけたら挨拶する程度の仲だが、知ってる少女だった。
ボロボロで、傷だらけ。
「おい、しっかりしろ! 何があった!?」
至る所に噛み跡がある。人の歯形だ。
食いちぎられてはいないが、しかしかなり出血している。手当が必要だと感じた。
少女は勢いよく顔を上げた。怯えて後ろに下がろうとする。「お兄、さん?」と呟いてから、すぐに落ち着いた。顔は覚えてもらっていたみたいだ。
「富良野さん、だったな? 今から救急車呼ぶから」
「もう呼んだよ」「さすが白西。愛してる」「それ照れる」
「富良野さん。警察も呼んだ方がいい? ホント何があった?」
「……あ」
少女の円な瞳が潤む。
「お、お母さんが」「お母さんがどうしたの?」
「っ……っ!?」
言いかけて、その表情が強張った。恐怖で歪んでいた。
振り返る。
強い雨の中、裸足の女が立っていた。
彼女もまた、よく見かける人物だった。富良野家の母。やはり挨拶する程度の関係で、会話したことはなかったが、優しそうな人という印象を抱いていた。
なのに、今の彼女は、見るからに異様な雰囲気を放っていた。濡れた体に宿るは、研ぎ澄まされた本能と、何をしでかすか分からない危うさ。
ヒタヒタと近づいてくる。富良野母の眼は、冷ややかで、悍ましくて、とても娘に向けていいものじゃなかった。
人間じゃないみたいだ。
怯む。背筋が凍る。雨を忘れそうになるが、雨音は休みなく響く。
意識が尖っていく。ピンク髪の少女は、ショックで呆然とするだけ。二人の女友達は、固まって動かない。
意を決して前に出て、富良野家の母に話しかけた。
「あの。鉄分不足ですか?」
質問を聞こうともせず、彼女は隣を駆け抜けて、後ろの娘に噛みつこうとした。体が軽いから反応出来た。腕を差し込むと、己の肉に歯が食い込む感触がした。痛い。
振り払う。ものすごい力が出た。背中から倒れ、水溜まりで転がる富良野家の母に叫ぶ。
「あんた何やってんすか!? 錯乱ってのにも程があるでしょ!」
「違うの!」
少女に腕を掴まれる。
「お母さんのせいじゃないの!」「え?」
濡れたコンクリートの上、もがく富良野家母の後ろから、それは現れた。
半透明の大きな黒球から、鳥の足が四本生えている。そして、球体のど真ん中に、大きな一つ目がギョロリと蠢いた。瞳孔の開きを調節している。まるで、俺たちに焦点を合わせるみたいに。
なんだ、あの化け物は。
ピンク髪の少女を抱えて、横に飛ぶのが精一杯だった。
化け物から五発の弾が射出される。
室には当たらなかった。しかし白西の頭に一つ当たった。
彼女は後ろに倒れ、水飛沫を上げた。すべてがゆっくりに見えた。
心が黒く染まっていく。怒りと絶望が身を焦がす。なぜ俺はこんなに遅い、と自らを呪いながら走ったら、少し速くなった気がした。
化け物に殴りかかる。右手、全身とすり抜けた。半透明な化け物だ。この世のモノじゃないのかもしれない。人間の攻撃が当たらずとも不思議じゃない。
にもかかわらず、左手はその半透明の体に、引っかかりがあったように思われた。
だから踏みとどまって、踵を返し、左手で殴った。ちゃんとヒットした。
もんどり打って転がる化け物。力尽きたのか、ドロドロと融けて消える。
「やった、のか……? ……、──おい、白に、し」
撃たれて倒れているはずの彼女が、今まさに、俺の喉元を食い千切らんとばかりに襲いかかってきていた。
息を呑みつつ体をずらす。肩に歯が食い込む。痛みなど気にならない。ひたすら困惑するだけだ。
見知った少女がボロボロで、見知ったおばさんが狂っていて、気色悪い化け物に遭遇して、友達が狂ってしまって。
いきなり過ぎる。訳が分からない。
体はどこまでも軽い。
「どういうことだよっ、おいこれ、どういうことなんだ白西!?」
「グウ、うゔううう、ううっ」
視界の奥に、メソメソ泣く室の姿が映った。俺も泣きたい。
強い風が吹いた。水滴の暴力に瞼が閉じる。無意識のうちに、左手が白西を押し退けていた。
するとだ。雷にでも撃たれたかのように彼女の体は硬直し、俺に向かって倒れ込んでくる。
「はあ、はあ」
死んではいない。気絶しているだけだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
荒く息を吐く。俺はこれからどうすればいい。どうすればいいのだろう。
「そうだ、警察に」
「それはあまりよろしくないネ」
右手のスマホがはたき落とされた。隣には、リスっぽいけどリスそのものではない、生き物とぬいぐるみのキメラがいた。ずぶ濡れだが眼光は鋭い。
また訳が分からないのが。
情報量が多過ぎる。
「ふう。やっと見つけたヨ。亜人」「……亜人?」
「お前のことネ」「はい?」
「もう救急車は呼んじまったんダロ? 異常者扱いされるのは目に見えてるネ。幸い目撃者はいないヨ。早う逃げるネ」「は? ……はあ」
頭はパンク寸前で、冷静に思考出来る状態とは到底言い難く、イエスマンになるより他はなかった。一先ず、気絶した白西、呻く富良野母と、現実を受け入れられず呆然としている少女二人を連れて、ここから最も近くかつ最も広い、室の家に向かうことにした。
俺とアイツの悪夢は、大体そんな感じで始まった。