9 おばさん
最後に「おばさん」と、もう一度だけ話をしたい。
青髪の少女はそう願った。彼女に連れられ、二号館最上階の個室に案内される。移動の合間に互いの紹介を済ませた。
少女の名前は水晴巴。桃架ちゃんや浜世椎奈と同じく、この街にある私立女子中に通っている。二年生。成績は学年トップ。スポーツも得意だが体力に課題があるらしい。数学研究会に所属。
「数学研究会とは、学校の魔窟っぽい。どんな勉強してるの?」
「イキって大学数学やってるだけよ。今は、株価とか為替とか、ちょっと時間が経つと値がフラフラ変わるものを記述するための数学の基礎」
「あー。ウィーナー過程とか伊藤の補題とか?」「知ってるの?」
「将来はFX投資で働かずに財を成したいと思っているから」
「それは無理じゃないかしら……、ここよ」
扉が開けられる。柔らかな日差しが、白く清潔なベッドを照らしていた。高齢と目される痩せ衰えた女性が、生気なく目を閉じている。
しかし、かろうじて生きてはいるようだった。
「こう見えてまだ五十七なのよ。あと一週間も保たないって」
「病状は?」「末期ガン。ステージ4よ」
「…………優しそうな人だな」
「私は、この人に育てられたわ」
「水晴さんのご両親は」「赤ん坊の私をおばさんに預けて雲隠れ」
「関係を聞いてもいい?」「おばさんは、お父さんの従姉なんだって」
腕を組む。
確かに三日前、俺に不思議な力が備わっていると分かった。歪な障害があるだけだった左手には、人の理性を喰らう化け物を撃退し、モノに透過能力を与える力があると判明した。しかし、昏睡状態にある余命僅かな人間と意思疎通する方法なんて、さっぱり思いつかない。
「この人は私を愛してくれた。私の自惚れじゃなかったら、心の底から。暮らしに余裕もないのにね。もちろん、応えようとしたわ。大人になったらお返し出来るように、いっぱい勉強した。中学校は私立だけれど、特待生として入学したから学費はゼロよ──」
誇らしげに言って、水晴巴は涙ぐむ。
「大人になったら……大人になるまで、待ってよ……」
袖で目元をゴシゴシと拭く。ハンカチでも差し出せれば良かったのだが、生憎持ってきていなかった。
無力感に襲われる。
「……ごめんなさい鈴木さん。無茶言って」
「いいや。俺たちに頼ったのは間違いじゃない。間違いじゃなかったことにしたい……。……そうだ、俺は知っている。肉体と魂はパイプとアイテールによって繋がっちゃいるが、異なる位相にあって、それぞれ別の原理で動いているはず。肉体は限界であっても、その魂が傷つき果てているとは限らないだろう、リー? 俺の持ってる力で、おばさんの魂に干渉は可能だろうか」
「ソラハは本当にカンがいいナ。可能だヨ」
失望されたくなくて、憶測のまま語ってみた願望が当たった。言ってみるものだ。「やっぱりね」と笑ってみせる。強い人間とは、虚勢を現実に出来る者のことだ。
ベッドの前に立つ。
「どうすればいい」「前任たちは『潜って辿る感じ』と言ってたヨ」
「なるほど。つまりフィーリングというわけだな。鳥矢に教わった恋愛ゲーム攻略のノウハウが役に立ちそうだ」
左手をかざした。目を閉じる。
他者のプライバシーに無断でお邪魔するのは容易いことではない。心のファイアウォールをすり抜ける必要がある。すり抜けるのは得意だけど、激流を突き進むのは大変だ。こうも激しいのは、おばさんの意識がすでに遠のきかけているからだろうか。
俺はきっと、汗だくになっている。
「おばさんは……夢を見ている……水晴さんと過ごした日々の」
実況を始めた。
「最近遊園地に行った? 普通の生活に、アトラクションが混ざり込んでる……水晴さんを呼ぶのにジェットコースターの発車ベルを鳴らして、花模様のレースが敷かれた大きなテーブルに、君を乗せた作り物のペガサスが飛んでやってくる……窓から見えるはオレンジ色の街……ここは観覧車の中だ……愉快な夢だなあ。ああ、壊れてしまった」
まだ先がある。魂までまだまだ遠い。さらに奥へと踏み込んでいく。
「おばさんの心は、君への感謝と愛でいっぱいだ、苦しいほどに……自分がいなくても、君なら一人でもやっていけると信頼していて。君には危なっかしいところも少しはあるけど……、だからこそ、ずっと独りでやっていけてしまうのではないかって不安も……。あと……ちょっとだけ、巴ちゃんと離れて私は大丈夫なのかなって、ちょっぴり心配かも。あの世で上手くやっていけるかな。でもま、私のことなんて気にしないで。巴ちゃん、後悔しないように生きてね。ありがとう。お元気で。好きな人が見つかったら、遠慮しちゃダメだからね……」
「ソラハ! 侵食されてるネ! これ以上はヤメロ!」
リーに左手を弾かれる。尻餅を突いた。たった二分の接続にもかかわらず、俺は疲れ果てていた。ああ、屋上から落ちても無事だったから、調子に乗っていたかもしれない。俺は自分の力を、全然使いこなせていないんだ。
見上げると、水晴さんの顔が側にあった。眦から涙が溢れている。
彼女に謝った。
「話をさせてあげられなくて、ごめんね──」
意識が途切れた。




