生贄と盤外の女神
この世界には六柱の女神がいる。『覚醒』『裁定』『寵愛』『闘志』『循環』『旺盛』それぞれを司る女神の加護はこの世界の発展には必要不可欠な存在。
六つの大国はいずれかの女神の庇護下にあり、それ以外の弱小国はそれらの傘下に置かれている。
我が国、クライムレス国はそのどちらでもない特殊な国だった。女神の力を弱らせ、文明を崩壊させる瘴気。それを生み出す魔王の封印の守護を司っている。封印の守護とはすなわち生贄のこと。十年に一度国民の中からランダムで一人、選ばれる。男も女も赤子も老人も貴族も平民も確率の上では等しい。そんな不条理のある国だが、対価として各国から物資の莫大な援助を受け取っている。これは六柱すべての女神の総意であり誰も否とは言わない。
そして今年もその時がやってきた。
公平性を保つために大国の神官が全国民の名前が書かれたくじを引く。
あるものは自分が選ばれませんようにと。
あるものは我が子が選ばれませんようにと。
あるものは若い者よりも老い先短い選ばれますようにと。
様々な思いで行く末を見守った。
「セルフィッシュ=エルドア」
神官が淡々とした声で呼んだ名前は私の妹だった。
多くのものの安堵のため息を打ち消す勢いで泣き崩れる妹に駆け寄るのは私の婚約者。
あぁやはりね。と私はその場をただ見つめていた。
いつだってそう。あなたは私よりあの子を見る。両親も親戚も友人もあの子を見る。
でもいいの。それを理由に冷遇されているわけではない。他者を優遇することと自分を冷遇することの違いは判る。見た目のいい子を目で追ってしまうのもわかるから。それで節度を越えなければそれでいい。
だから節度を越えてきたあなたを心底軽蔑する。
「生贄を変わってくれ」
昨日の今日で私の婚約者スマグ=チェイテは私にそう宣った。
「スマグ様は何故生贄が抽選で選ばれるかご存知でしょうか」
動揺を必死に押し殺しながら出た声は自分でも驚くほど冷たかった。
スマグ様は細かに震えながら教えられたとおりの回答を口にする。
「身分の高いものが不当に身分の低いものを犠牲にしないため。社会において命に優劣の差はあれど、女神の御前にて命は皆等しきものであるから……だろう」
「でしたら私が何を言いたいか、わかりますよね」
「確かに生贄を押し付けることは重罪だ! だが、自分から名乗りを上げるのは別のはず!」
「そしてそれを共有することもまた同等の重罪である、ですよ」
正論を説かれてスマグ様は息を詰まらせた。
「生まれたばかりの赤子が選ばれた際、その祖父が代わりの生贄として立候補して正式に認められた事例もある!」
「妹は赤子でもなければ、私も老い先短い老女でもありませんわ」
「お前は妹が可愛くないのか!」
どんどん独善的な感情論になっていく。
気持ちを落ちけるために一口紅茶を飲む。
「家族として大切に思っております」
「なら」
「ですがそれ以前に私はこの国に住まう人々の模範となるべき貴族です。今こうしてあなたの言い分を許せば、また別の世代でいらぬ不条理を生むのです」
「姉が妹を助けるのが不条理だと?」
「伴侶の兄弟を助けるために伴侶に死ねというのが不条理ではないと?」
スマグ様は自分の意見が事も無げに打ち捨てられていくことに酷く苛立ち紅茶がまだ入ったコップを床に落とした。
コップは音を立てて割れ、破片で近くにいた侍女に少し傷ができる。私はその子に手当てをするように言いつけると別の子に片づけを命じる。
「まだ伴侶ではない」
低い声でここにきて初めて真実を口にした。
「お前のような冷徹な人間を伴侶に迎えるわけにはいかない」
そして次に理性を欠いた感情を口にする。
「そうだそうさ! 最初からこうすべきだったのだ! 俺は元々お前のようにかわいげのない女よりセルフィッシュのような女と結婚したかったのだ! 妹を平然と見捨てたこと後悔させてやる! お前などとは婚約破棄だ!」
蹴破る勢いでスマグ様は部屋を出ていく。
「あのお嬢さま」
侍女の一人が気遣うように恐る恐る声をかけてくる。
「しばらく一人にして頂戴」
侍女たちは少し迷いながらも私の指示通り部屋を後にした。
私は部屋の窓から興奮した様子で我が家を去っていくスマグ様を眺める。
「全能にして全知たる最高神に願い奉る。我が身は世界のための贄なり礎なり……そうあるための勇気をお与えください」
跪き祈る。加護をもたらす六柱の女神の父神とされる最高神に祈る。
クライムレス国に生まれたならその身は世界のための贄となることを受け入れなければならない。
その上で飢えることも他国に攻めこまれることもなく平穏な時を甘受できているのだから。
だから優先されるべきはそれが永遠であること。そのために私がすべきことは。
数日後、スマグ様が私を告発した。容疑は神官を買収して抽選の名簿の中に私の名前を予め抜いておいたということ。
愚かしい人。でも私にないそのような愚鈍さが愛しかったのだ。
儀式まで時間がない中起こった今回の告発。穴だらけの証拠とスマグ様に買収された証言者。
私はあえて容疑を否認しなかった。
両親は半信半疑で複雑な面持ち。それでも私を擁護しようとしたのでそれを私は止めたのだ。理由を話したら叩かれてしまった。そしてそれ以上に強く抱きしめられた。
「なんで……なんでお前はそうなのだ! もっとセルフィッシュのようになればいいだろう!」
「馬鹿! 馬鹿! どうしてそう親不孝なの! あなたである必要なんてないじゃない!」
冷遇されることと優遇されないことは違う。私はこれだけ両親に愛されている。
記者を抱き込んだ世論は私を悪女のように酷評していく。その世論に流されるように儀式前日に生贄は妹から私へ変更された。
「ふん、いらない心配をしちゃったわ。でもまさかお姉さまにそんな一面があったなんてね。私が選ばれなければバレることもなかったでしょうに」
妹は自身の信望者の男性たちを引き連れて最後の別れのあいさつにやってきた。
何とか男たちを追い出して私と二人っきりになると静かに私に抱き着いた。
「嘘なんでしょ……?」
「あら、さすがにわかる?」
「当り前じゃない。こんな他国に餌を与えられて飼われている国の貴族に買収されるほど大国の神官サマは金に困ってないもの」
「そう、少しは成長してくれて嬉しいわ」
「嫌みったらしいな! 言っておくけど助けないからね! 私は私が一番可愛いの! これまでもこれからもね! だから自分が死ぬかもしれないのにお姉さまなんて……助け……てあげ、ないんだから!」
最後は少し言いよどんだが虚勢を張り通してきた妹に最後に助言をする。
「遊びは結構だけど、制御はきちんとしておきなさい。もうフォローはできないから」
そういってドアの外で張り付いている男たちを指さした。私の意図のすべてが伝わったとは思わない。でも妹は何かをかすかに感じ取ったようだ。経験したことない絶望と後悔に襲われ立ち尽くす妹を部屋において迎えに来た神官に導かれるまま神輿に乗せられる。
「意外です。通常と同じなのですね」
「生贄が善人だろうと悪人だろうと関係ありませんから」
言外にこちらの事情には興味がないと言い切った神官とともに向かうは火山。かつて六柱の女神の加護を受けた勇者が魔王を相打ちの末に封印したといわれる霊山だった。
はじめて覗く火口は想像より暗かった。てっきりマグマの熱気が伝わってくると思っていたのに驚くほど静かだ。ここを落ちたら地獄に行くといわれても不思議ではないくらいに。
死を目前にしても私は冷静のままでいられる。そこが不気味だといわれることもあった。だが、そのおかげで私は決断することができた。
神官が定型句を読み上げて、私は台から天を仰いでその身を投げる。
あぁ、綺麗な空。
今頃国はどうなっているだろうか。両親に託しておいた冤罪の証拠とスマグ様の偽装の証拠が公表され、あの人は厳しくさばかれることだろう。
そう、セルフィッシュが生贄に選ばれた時点で私が代理になることは決まっていたのだ。
いや、正確には大衆のためにはそうしなければならなかった。
セルフィッシュを愛する男は多い。スマグ様をはじめ、多くの貴族、平民が彼女に恋い焦がれる。
そして愛は狂気を生む。スマグ様以外にも彼女の代役を立てようと画策する者たちがいた。ここで自身を代役としないところが、そして自分より立場の弱い者たちを脅迫するさまが彼らの下劣さの表れだと思う。
重罪だが、本当の問題はそこではない。死刑が絡んだ罪の場合、その罪は詳らかにしなければならない。そしてそのための裁判は長くかかり関係者であるセルフィッシュも多くの時間を取られることだろう。
それにより儀式が遅れて魔王が復活することそれが最も避けなければならない事態だ。
立候補ではいけなかった。すでに各地で脅迫が行われている以上それに屈したと思われれば、公にならなければ何をしてもいいという因習を生んでしまうからだ。
そういった意味で私の死後、スマグ様をはじめセルフィッシュの取り巻きを重く裁くように託したのだ。
規律を守るためのこの上ない見せしめとして。連鎖してセルフィッシュも余波をくらうだろう。だがそれも必要なのだ。より多くのものが生き残っていくためには。
生産力も軍事力もないこの国が生贄排出という大義を失えばあっという間に他国に蹂躙されてしまう。
だからこれでいいのだ。
これからもこの国は公平に生贄を出して、飢えることなく、戦争におびえることなく穏やかに暮らしていける。
あぁ神よ。私は今この上なく幸福でございます。
我が身が大いなる世界への礎となれたこと。
我が命が後世の命を守る贄となれたこと。
心無き犠牲はただの餌、しかし信念があれば髪の毛一本でも贄となれる。
世界に女神の加護があらんことを。
―――――おかしい。
いつまで私は落ちている。
もはや落ちている感覚すらない。
前後上下左右暗闇。だというのに自分の姿がはっきり見える。
ここはどこ。
「ここは最果て。世界の最果て」
どこからか声がする。
あなたは誰。
「我は―――。―――――」
何、急に聞こえない。
「贄の子よ。貴殿は我に適合した」
「適合」
「幾百年ぶりか、我が巫女よ。さあ今こそすべてを鎮めよう」
まさか、あなたは――――魔王。
私は見ている。自分の目を通して知らない世界を見ている。
意識ははっきりとしているのに身体は魔王の思うとおりにしか動かない。
人々は心を失った。私の冤罪を知り、嘆き、スマグ様を糾弾していた人々も、新たな命の誕生に喜んでいた女も、親の冥福を祈っていた青年も、公園で楽しそうに遊んでいた兄弟も、酔って喧嘩していた破落戸も、みな一様に目から光を失い、ただ決められた業務を淡々とこなすだけの人形となりはてた。
「やめて……私はこんなことのために……」
私は判断を誤った? 予定通り生贄を出すこと。それは正しい判断だったはずだった。
だが、私が、私の中の何かが魔王を目覚めさせてしまった。
数々の後悔が襲い掛かってくる。こんなにも心をすり減らしたことなどない。こんなにも声を上げて泣いたことなどない。
「何故……あなたの目的は何?」
「我の司りしは『鎮静』」
久しぶりに対話が成り立った。いつもは私の言葉など意に返さない魔王が私の問いに言葉を返した。
「まるで女神のような口ぶりね」
「ような、ではない。我は女神。鎮静を司りし女神なり」
「嘘ね。女神様は全部で六柱。鎮静なんて役割も存在しないわ」
「…………だろうな」
一瞬、ほんのかすかに魔王の声が悲哀に彩られた気がした。
「貴殿は、瘴気が何から生まれるか知っているか?」
「あなたからでしょう」
「違う。瘴気は女神同士の力がぶつかり合った際の摩擦から生まれる」
視点が切り替わった。魔王は大国の国境付近に来ていた。
何か巨大で透明な半円球が押し合って、その隙間から瘴気が発生している。
「馬鹿な……」
まさか、事実だというのか。だとしたら私が信じていたものは……。私たちの国の役割とは。
「女神は人々の祈りを糧に加護を与える。領域が広がれば他の女神の領域と衝突し瘴気が生まれ、やがて万物は腐り廃れる」
また別の場所が映し出される。別の国境線だった。ここは特に瘴気の被害がひどくもはや生命の息吹すら感じられない。
「これらを鎮めることこそ我が役割」
「人の心ごと瘴気を鎮めるのがあなたの役割」
「故に鎮静」
祈るものがいなくなれば女神は加護の力を失い、瘴気は発生しなくなる。
だが、代償に人は心を失い、ただ生きるだけの人形と化す。
「許容できないか?」
「っ……」
それ以降魔王が私に語り掛けてくることはなかった。
数々の都市が、国が鎮静化され、瘴気とともに活気を失っていく。
私はただそれを見ていた。そして考えた。なぜこの人は魔王と呼ばれるようになったのか。
確かに恐ろしい力。だが必要な力だ。
人間は己が文明の発展の末女神の加護によって破滅するか、心を鎮められて衰退されるかしかないのだろうか。
おそらく、今の世界はそれを繰り返している。繁栄と衰退を繰り返すことで破滅を避けているに過ぎない。
「ねえ、女神の糧が人の祈りであるなら、あなたは何故力を使えるの?」
解答は期待していなかった。だが、誰もいないここはとても寂しくて、誰かと話したくなったのだ。
「我を祈る者たちはいる」
声が返ってきたことに驚いた。
そして移った光景は異教徒として迫害されている集団だった。
「彼らは鎮静されないの?」
「力と加護は違う。女神の加護は己を含めたすべての女神の力を無力化するもの。人間が普段加護と思っているあれは力だ。我は我を祈る者たちすべてに加護を与える」
「は、ははっ……それが本当だとしたら、今まで信じてきたものは現実と全然違うのね」
「その方が効率よく祈りを集められる」
「今までの私たちの信仰は女神の餌でしかなかったというの」
魔王はそれ以上何も言わなかった。
私は今までのことのすべてが否定された気分になった。
祖国の生贄制度も微力に魔王の力を使わせて瘴気を鎮静化しようとした女神たちの思惑だったのだろう。
私たちの命は大衆のための必要な犠牲ではなく、一部の者たちの我欲を満たすための肥料に過ぎなかった。
身命をとした決意も覚悟も結局はその程度のもの。ただ一つの誤算があるとすれば私が魔王に適合して完全に復活してしまったこと。
「あなたはいつまで鎮静を続けるの?」
「我が身が滅びるその日まで」
「その日はいつ来るの?」
「いつかは来る。終わりの時はすべての命に等しく訪れる」
「嘘ね」
「……」
「あなたの力は強大で、ほかの女神からすれば文明の発展を阻む疎ましいもの。でも、世界を破滅させないためには必要なもの。
だから、あなたは封印される。そして中途半端な餌を与えられて力を使わされ、復活してはまた封印される。その繰り返し」
そう、きっとそれがこの世界の仕組み。少数の犠牲の上に成り立つ多数の幸福。
「父神も姉神たちも我を疎んだ。発展を願う神の意向を妨げる邪神だと。ならば滅却を願えば無責任だと責められた。ある日、姉神の一人が初めて宴に誘ってくれた。だが、連れてこられたのは最果てだった。誰もいない暗闇の中で減っていく祈りを糧に力を使うだけの日々だ。
稀に貴殿のように我の器となれる贄がやってくる。そのたびに多くのものの恨みを買い、再び暗闇の中での生活が始まるのだ。永遠にな」
「地獄ね」
「だが、それが世界に必要なことだ」
「世界のための贄であり、礎であることか」
「貴殿もいずれは解放される。六柱の女神の力を宿した使者が我を封印したその時に」
「そう……なら、それまで付き合うわ」
あの日から何年、何十年たっただろう。
長い時の中でようやくわかった。私はただこの心を誰かに理解してほしかったのだ。
冷徹と評される合理的な思考を、それをなすための努力を。
きっとこの子も同じだった。己が役割に疎まれても順守し続けたその気高き志を。その手を振り払われ、永遠の贄という宿命を背負わされてもまだ。
暗闇の中に自分しかいない空間が開けてもう一人の姿が現れる。
骨が浮くほどやせ細った小汚い少女の姿をした女神の手を取る。
「我らが身は世界のための贄であり礎なり。志を同じくする汝と死に分かたれるまで茨の道を歩まん」
「あぁ……ありがとう」
犠牲もシステムにも正しさも間違いもないのだろう。ただ、必要なだけ。ならばせめて永遠の贄となる盤外の女神の心が少しでも報われるように。
そうすればきっと私の行動もいつか報われる気がする。
だからその時まで鎮め続けよう。それこそが世界のために捧げる最上の供物であり、私が突き通す信仰なのだ。
以後歴史に記録が残らない空白の時代において、唯一伝えられる魔王の存在があった。
これは、記録に名も残らぬ少女と人々に名も知られぬ盤外の女神のほんの少しの会話であった。
期待するような報復がなくて残念に思う方もいらっしゃるでしょうが、
主人公はどこまでも個人の感情よりも大衆のための行動を選びます。その中で最も美徳と考えているのが自己犠牲であり、ある意味サイコパスです。
盤外の女神も主人公と似たような思考です。己を否定されたことに悲しみを抱きながらもやはり優先するのは己ではなく世界。
そんな二人だからこそ同調し、勇者に封印されるその日までともにあり続けたのでした。
いつかこんな歪なシステムを変えてくれる真の勇者が現れることを信じて。