『見えない涙』
車道に倒れ込む瞬間は、自然と目を閉じていった。
ああ、これでお父さんとお母さんに会える………
そんな安堵感が先頭で待っていたほどで。
なのに、それは叶わなかったのだ。
『なにやってんだ!』
そんな男の人の叫び声が聞こえたかと思ったら、突如現れた腕に、尋常でない強さで引き戻されてしまったのだから。
グッと引かれた腕ごと見知らぬ男の人の胸に抱きすくめられ、その反動で二人して歩道のアスファルトに転がって尻餅をつく。
今までの人生で一番強烈な尻餅だった。
その強打は背骨を伝い、頭の方にまで響いたようだった。
わたしは脳震盪のような衝撃に、瞬時に吐き気を催し、そのままうずくまってしまう。
『どこか打ったのか?』
男の人は体を起こし、わたしに声をかけてくるが、頭がぼんやりとして正常な受け答えができない。
『おい!しっかりしろ!』
気持ち悪い……そう訴えたくて、白濁していく意識を奮い立たせて顔を上げた。
けれど、わたしを助けた男の人の顔を認識する前に、わたしの視界は靄で縁取られるようにして狭まっていき、速やかに萎んで、最後にはぷつりと、遮断されてしまったのだった。
最後の最後、かすかに靄の隙間から見えたものは、男の人がわたしを支える腕だった。
それから、その腕の手首にある、黒い、ほくろだった………
※※※※※
『―――――っ……』
いきなり飛び込んできた眩しい光に、反射的に息を詰める。
『千代?気が付いたのか?』
とたんに、左側から彬くんの焦った声が脳に刺激を与えた。
まだ覚めきれていない意識でぼんやりと見つめたのは、見覚えのない蛍光灯だった。
『千代?千代!』
彬くんの声が大きくなり、返事をしないままのわたしに我慢ができなくなったのか、
『千代っ!』
ひと際激しく呼ばれたとき、わたしは、ゆっくり、ゆっくりと、左に首を回した。
そこには、わたしを覗き込むように近付けていた彬くんの顔があった。
『…………彬くん?どうして?』
さすがに、ここがどこかの病院であることは、目覚めた直後に部屋の雰囲気で推察できた。
けれど、家族でもない彬くんがここにいるのかは分からなかった。
あの場にはいなかったわけだから、誰かが連絡したのは間違いないのだ。
では、なぜ、家族でもない、一緒に住んでるわけでもない彬くんに連絡がいったのだろう?
そんな風に不思議に感じたことが、率直に口を突いて出ていた。
『連絡をもらったからだよ。そんなことより、気分は?怪我はしてないみたいだけど、痛いところはないか?』
よほど心配してくれたのか、いつもよりもかなり早口になっていた彬くんに、わたしは『大丈夫』と即答した。
すると、
『よかった……』
わたしの返事にいくらかは安心したのだろう、彬くんはわたしの額に小さなキスを落としてから、枕元のナースコール用のインターホンを押そうと体を起こした。
『貧血で倒れたって病院から連絡があったから大慌てで来たんだけど、意識がはっきりとしてなかったから、めちゃくちゃ心配したよ』
緊張が一気に解けたように弱く微笑んだ彬くんに、わたしは『貧血?』と訝しむ声をあげた。
『え……?そう聞いたけど……?』
彬くんはインターホンに指を当てたまま、押す直前に、再び視線をわたしに戻してきた。
訝しむわたしを、訝しむように。
『誰から聞いたの?わたしを助けてくれた男の人?』
『は?男?』
彬くんは誰それ?といった感じに眉間にシワを走らせた。
『男の人……誰かは、わたしも知らないけど。車道に飛び込んだわたしを助けてくれた人だよ』
『なんだって!?車道に飛び込んだって、千代が?』
彬くんはインターホンから離れ、わたしの顔の横に手を突いて問いただした。
その表情は、目覚めた時以上に強ばっていた。
『千代?それ本当?車道に……って、どうしてそんなこと!』
愕然とわたしを見据える彬くんの目には、怒りの感情すら滲んでいて。
だからわたしは、正直に答えた。
『……一人は、嫌だったから』
『千代は一人なんかじゃないだろっ!』
端的に説明するわたしを、彬くんの大声が遮る。
あまり聞いたことのない、怒鳴り声で。
わたしは思わずビクッとして、それから、その反動なのか何なのか、一筋の涙がスーッとこめかみに向かって伝い落ちていった。
すると、今の怒鳴り声とは打って変わり絞り出すような掠れ声で、彬くんは『千代……』とため息混じりに呼んだのだ。
『千代……そんなこと言わないでくれ』
その囁きは、わたしを包み込む腕に添えられるようにして、耳元に届いた。
『千代は一人なんかじゃないから。俺がいる。俺の母さんだって、もう千代のことを娘のように思ってるし、友達だっているだろ?家で一人でいるのがダメなら、一緒に暮らそう。千代の家でも俺の家でもいいし、新しく部屋を借りてもいいから。だから、自分はひとりぼっちだなんて思わないでくれ……』
震えるように聞こえた哀訴は、わたしの心をまでもを揺らしてきて。
わたしは、わたしを抱きしめる彬くんの背中に恐々と腕をまわして言った。
『……でも、お父さんと、お母さんに、会いたいの………』
思えばこれが、わたしが両親とさよならした後で流す、はじめての涙だった。
ぽろぽろと、一粒、また一滴、落ちていった涙は耳に吸い込まれるようにして湿らせる。
彬くんはよりいっそうの強さで、わたしを抱き込んだ。
『だったら、俺が、千代のお父さんになるから。お母さんにだってなる。兄弟にだってなるし、千代が望むすべてになるから。千代は、絶対に一人なんかじゃないんだ』
何度も何度も、”一人じゃない” と言い聞かせる彬くんは、わたしの涙が乾ききるまで、ずっとわたしを離さなかった。
『千代のことは、俺が絶対にひとりぼっちになんかさせないから………絶対にだ』
その腕にたくましさを覚えながらも、わたしの鼓膜を響かせる彼の声は、まるで、見えない涙を流しているようだった………