名前
私は、潤んでくる目頭をキュッと人差し指で押さえ、スン、と一度鼻をすすった。
私が泣いてる場合じゃないのだ。
涙をこらえる途中、ふと、前崎さんが『お願い、もう、ひとりは嫌なの……』と取り乱した姿を思い出していた。
けれど今の状況からして、前崎さんが、もうあんな風に苦しむことはなくて済みそうな予感が濃厚で、私は本気で、良かった……そう思っていた。
もう、前崎さんの辛そうな姿は見たくない。ひとりぼっちだと言って、悲しんでほしくないから。
でも、大人になった我が子に語りかける前崎さんを見る限り、それは杞憂となって消え去ってしまったようだった。
「それで、今の年齢は、いくつなのかしら?」
「48です」
「まあ、親のわたし達よりも年上になるのね」
「あと三ヶ月で49になります」
「あら、じゃあわたしが産んだ日を誕生日として採用してくれてるの?」
「もちろんです。誕生日だけでなく、”アヤセ” という名前もお二人からとらせていただきましたから」
「名前を?」
和やかに続いていた会話は、そこで彩を変えた。
気持ち的に少しばかり退いて二人を見守っていた彬文さんも、「それは初耳だ」と訴えてきたからだ。
「そうですね、名前の由来まではお話ししていませんでしたね…」
上司はわずかに照れ臭そうに目尻に皺を走らせる。
”アヤセ” という名前については私も聞いたことがない気がして、興味がわいてきた。
「俺、てっきり ”アヤセ”って苗字だと思ってたけど、違ったんだな」
「わたしは今の今まで苗字だと思ってたわ。でもわたし達からとった…というのは、どういうことかしら?」
不思議がる前崎さんと彬文さん二人に正面を向くよう、上司は前崎さんの腕を支えたまま自分の体を回して体勢を変えた。
そしてその際、私とも一瞬目が合った。
視線がぶつかった刹那、上司の口角がピクリと上がったようにも見えた。
ほんの一瞬だったので、私の気のせいである可能性は大きいけれど。
上司は、私を通り過ぎてお二人を見つめると、丁寧に打ち明けたのだった。
「”アヤセ” という名前は、私の養父母が付けました。あの夜、予め決められた時間世界の、選定された夫婦のもとに、私は赤ん坊の自分を連れて行きました。その時間世界では、それまで治療不可能だとされていた心臓病の手術が90%の確率で成功するようになっていました。私はその夫婦とは面識はありませんでしたが、夫の方は私と同じように時間を行き来する仕事をしていた人間で、この赤ん坊の重要性をよく知る者でした。ですから、連れて来られた赤ん坊を大切に養育するのは分かっていましたので、何も心配することはなく、私は彼らに自分自身を託すことに迷いはなかったと断言できます。ですが、生まれたばかりの我が子を手放すとき『例え血の繋がりがなくても、名付けという行為が絆を生んでくれるはず』と仰ったお二人の言葉は、きちんと彼らに伝えました。そして彼らは、”彬文”と”千代” から一文字ずつとって、”アヤセ” と名付けたそうです」
誤字報告いただき、ありがとうございました。




