あの夜
「………アヤセさんは、あの夜のことをどこまで覚えてらっしゃいますか?あの夜は、まん丸い大きな月が出ていたのですが、それは輪郭がぼやけていて、なんだか奇妙なお月様でした。アヤセさんはご覧になってませんでしたか?でも……アヤセさんの外見はあの時とあまり変わってないようにも見えますから、ひょっとしたら、最後にお会いした時から、アヤセさん的にはあまり時間が経っていないのでしょうか?」
前崎さんにはいろいろ訊きたいことがおありのようだ。
本当はまだまだ質問したいのを、取りあえずは露払いに二つほど尋ねた様子だった。
アヤセさんに投げかけられた疑問なので、私は流れを見守るしかなかったが、彼がどんな風に応えるのかは非常に興味があった。
「そうですね……まず一つ目のご質問のお答えですが、あの夜浮かんでいた月のことは、私もしっかり記憶に留めておりますよ。新生児室から出た私は、確かに、何とも表現しがたい、不思議な満月を見ました。それから二つ目のご質問についてですが、仰る通り、私個人の時間軸では、あれからさほど経過はしておりません。少なくとも、あの夜から数年が過ぎている前崎さんの時間よりは、はるかに短い時間です」
「やっぱり!そんな印象がしました。アヤセさん、全然変わってないから……。では、息子を然るべき方に預けてくださってから、この時代に?」
ご自分の予想が当たっていたことに、前崎さんは若干得意気に話された。
するとアヤセさんは親愛を込めたような眼差しで前崎さんを見つめ返した。
上司にとって前崎さんは、よほど思い入れのある人物なのだろう。
だがそれは、上司の仕事を知っている私には大いに頷けることでもあった。
もし、前崎さんご夫婦が息子さんを未来の世界に託さなかった場合、息子さんは間違いなく命を落としていた。
そしてそれは、今の私達の世界を大きく変えてしまう要因になっていた可能性が高いのだ。
前崎さんご夫婦の息子さんは、時間を移動する能力の研究に必要不可欠な人物だったのだから。
私は彼のことを直接は知らないしお見かけしたこともないけれど、その能力の強さや、そのおかげで我々の生活に有益な研究が行えたという事実は、周知のものだった。
もちろん、時間を行き来する能力については、まだまだすべてが公になってるものではないが、前崎さんの息子さんは、知る人ぞ知る有名人だったのである。
上司は前崎さんの質問に「ええ」と短く返した。
そして満月にちらりと視線を流したあと、なぜか窓とは反対にある扉に歩き出しながら先を述べた。
「あれから、一度、自分の時間世界に戻りましたが、それから数日と空けずに今の時間世界にやって参りました」
「あらまあ、それじゃ、まるで出張続きなのね」
時間移動のことを出張と表現するお茶目な前崎さんに、私上司も声を出して笑った。
けれど次の瞬間、その声はピタリと止まる。
やがて、静かな緊迫感が、たったひとつのノックと引き換えに部屋中に蔓延ったのだった。




