その時の前に
「所長っ!」
ノックもせずに飛び込んだ特別室では、上司が私の登場に驚きもせず、いつもと変わりない涼しい顔で書類に目を通していた。
そしてわざとらしいほどにゆっくりとした動きで私を見ると、
「そろそろ来る頃かと思ってましたよ」
平然と言ってのけたのである。
年齢は四十代後半、人当たりの良さそうな人相をした長身の男前だ。
低めの声は女性受けがよくて、部下や仕事相手からも憧れの視線をこれでもかと浴びせられているのは有名な話だった。
けれどそれが外見の良さのせいだけでないことも、周りはみんな知っている。
優しい物腰に、誰にでも優劣つけない丁寧な態度、仕事だけでなく部下や周囲に対する責任感……どこを取っても、慕われる要素だらけの人間である。
そしてそんな私の直属の上司でもある彼は、その鋭い洞察力によりあらゆることに目が行き届く、いわば千里眼の持ち主でもあった。
「……私が来ることを分かっていたんですか?」
「長い付き合いですからね」
「じゃあ、私が今から何を言い出すのかもご存じなんですよね?」
「もちろん、おおよその想像はつきます。おそらく、前崎 千代さんから何か話を聞いたのでしょう?そして、心動かされるものがあった」
「そうです!だから―――」
私はつかつかつかと上司に足を進め、デスクの上に無造作に置かれていたその腕をひしっと握り上げた。
そして
「早く仕事をしてください!早く、連れて来て下さい!」
渾身で想いを乗せて告げた。
その想いが、この上司に違わずに伝わったのかは定かではない。
定かではないものの、上司の涼しい相好を崩すことには成功した。
にわかに眉を上げ、おや?という感情を見せたのだ。
けれど、私はそのまま上司の体をデスクチェアから浮かせたかったのだが、それはできなかった。
「今すぐには無理です」
上司は逡巡すら見せずに端的に断ってきたのだ。
私は負けじと再度噛みついた。
「まだその時ではないのかもしれませんが、ちょっとでいいんです、ほんのちょっとでも、前崎さんのところに、」
「今は無理です。まだひと仕事残ってますから、すぐに伺うことはできません」
懇願と言っても過言ではない私の奏上にも、上司はどこまでも冷静に、穏やかに断ってきたのだ。
「でも!でも……今夜は、満月なんです。知ってますか?前崎さんが息子さんと過ごした最後の夜も満月だったそうです。でも、前崎さん、次の満月を無事に迎えられるか不安だというようなことも仰ってたんです……」
この上司は、あの夜も満月だったことを、果たして承知してるのだろうか。
でも、前崎さんの中では満月があの夜を連想させるのは事実であり、また、今の前崎さんに次の満月を見られる保証がないことは、明らかなのだ。




