満月
「名前、ですか……?」
そんな些細なことを?と勘ぐる私に、前崎さんは「だってわたし、息子の名前を知らないんですもの」あっけらかんと訴えた。
「そうだったんですか?」
これには驚いてしまう。確かに前崎さんから聞いた思い出話の中には、息子さんの名前は一度も登場してなかったけれど。
「名前を付けないまま、そのアヤセさんという人に息子さんを託したんですか?」
「そうなの。色々候補は考えてたんだけど、わたし達とは離れて別の世界で暮らすことになる息子に、わたし達との繋がりは残さない方がいいのかもしれないと思ったのよ」
「そんな……」
「病気が治って元気になっても、息子が未来の世界に馴染めなかったらいけないでしょ?だから、息子の名前は、わたし達の代わりに育ててくださる方に付けてもらった方がいいのよ。例え血が繋がってなくても、名付けという行為が、絆を生んでくれると思うし、それが、わたしと夫の願いでもあるのだから」
切なくなる願いに、私は、親の愛情の深さというものを見せつけられた気がした。
だが次の瞬間、前崎さんが布団に隠れる形で胸に手を当てて、瞼を閉じたのだ。
「前崎さん?また苦しいですか?」
ベッドに駆け寄ると、前崎さんからは「平気よ」と即答された。
「息子のことを考えてたら、ちょっとドキドキしちゃっただけ。この前みたいな痛みじゃないから、心配しないで?本当に苦しいときは、ちゃんと知らせるから」
その説明通り、前崎さんはすぐにケロッとしていた。
だから私は、すぐに医師を呼ぶことはしなかった。もちろん、あとできちんと報告はするつもりだが。
前崎さんの様子をうかがっていると、サイドテーブルにある吸い飲みに視線を流したので、私がそれを取って前崎さんの口元に持っていく。
前崎さんは急変時よりは元気だったが、その姿は、かなり弱々しく感じられた。
「ありがとう。でもだめねえ……。こんなんじゃ、今夜の満月鑑賞は無理かしら。せっかく東側に窓のあるお部屋なのに、残念だわ」
「今は無理なさらないでくださいね。満月はまた来月も見られますから」
「そうね……。満月は、また昇るものね……」
慰めと励ましのつもりでかけた言葉が、思わぬ闇を誘ってしまう。
次の満月の夜、果たして前崎さんは、今と同じ状態でいられるのだろうか。
もしかしたら、前崎さんとの時間は残り少ないのかもしれないのに……
その恐怖が、実感として、私のもとに落ちてくる。
けれど私には他の担当患者さんもいるので、いつまでもここに留まっているわけにもいかないのだ。
本当は前崎さんのそばにずっと寄り添っていたいのに……
だけど仕事だ。
私は自分自身の心を説き伏せ、前崎さんの容態が落ち着いてるのを確かめてから、
「何かあったら呼んでくださいね。また来ます」と言い残して、他の持ち場に向かうことにしたのだった。




