命の期限
結果から言えば、前崎さんは、幸いにも命を左右する大事には至らなかった。
その状況からすると、一命をとりとめた、と言った方が相応しいのかもしれないが、とにもかくにもあの急変の翌々日にはもう容態は落ち着いていて、それまでと同じように会話もできるほどになっていた。
「岸里さんにも迷惑かけちゃったわよね。ごめんなさいね」
さすがに起き上がったりはせず、ベッドで横になったままではあるけれど、茶目っ気たっぷりに言う前崎さんは、あのとき苦しみながら私の腕を握ってきた人と同一人物とは思えない。
「いえ、それが私の仕事ですから……」
この場面ではそれしかあり得ないような大正解の返事をしたものの、気持ち的には、”仕事” と割り切ってしまうことにささやかな抵抗感はあった。
前崎さんからご主人との思い出話を聞かされて、心の距離感がグッと縮まっているのかもしれない。
特定の患者さんに肩入れしてしまうのは避けるべきだと理解しているが、前崎さんに関しては特別に思ってしまうのはやむを得ないだろう。
その前崎さんは、今日も今日とて、また息子さんの話題に花を咲かせようとしていた。
「ところで、わたしが寝込んでいる間、息子っぽい人は来なかったかしら?」
「私が仕事についてる間は、来られなかった…と思いますけど」
仕事から離れてしまえば、すべてを把握できるわけもない。
前崎さんだってそれは理解しているのだろうけど、おそらく、私以外の職員には息子さんのことを話していないのだろうから、私の顔を見るなり確認してくるのはしょうがないのかもしれない。
「そうなの。よかった、まだ来てないのね」
限定的とはいえ、私の返事を聞いた前崎さんは嬉しそうだった。
「でも私がいない間に来られてたら、すみません」
「いいのよ。それなら仕方ないもの。でも、息子は、きっと、わたしの命の期限が切れる頃に来るんだと思うの。夫のときもそうだったから。だとしたら、早く会いたいような、もうちょっと後でもいいような、不思議な気分になっちゃうわね」
クスクスと少女のように朗らかに話しながら、前崎さんは壁に掛かったカレンダーを見やった。
「いったい、いつになるのかしらね……」
医師が診断した命の期限までは、まだ数ヵ月を残している。
それを越えるかもしれないし、そこに辿り着けないかもしれない。
つくづく余命宣告なんて酷な予言でしかないのだと、看護師の立場からも強く思う。
けれどおかしな話、前崎さんはご自分の命の期限を知らされたことで、息子さんの来訪に期待を寄せるようになったのは間違いないだろう。
つくづく人生なんて何がどうなるか分からないものだと、改めて思う。
「……もし、前崎さんの仰るように、息子さんが会いに来るのが前崎さんの命の期限が切れる頃なのだとしたら、私は、息子さんには会いたくありません」
私は本心からそう言った。
前崎さんは横になったまま私を見上げていたけれど、ややあってから、「やっぱり岸里さんは優しい人ね」と目を細めた。
その穏やかな流れの仕草すべてが、まるで幼子を相手にしてるような態度にも感じて、少し、むず痒い。
私とそんなに年齢も変わらないのに。
そう思うと、胸には針で貫かれたような、か細いくせに小さくはない苦痛が過った。




