『探し人』
『もう、ずいぶん前のことなんだけどね。わたしが五歳か六歳のときだから…十年前の夏休み、友達と無断で近所の小学校に入って遊んでたの』
『意外。長堀でもそんなヤンチャしてたんだ?』
眉を上げて小さく驚いた前崎くんに、わたしは『まあ、子供の頃の話だし……』とありふれた言い訳しか返せない。
前崎くんには、わたしはそんなに優等生に見えていたのだろうか。
『…でもそれは今はどうでもよくて。とにかく、友達と遊んでたの。夏休みの人気のない学校で』
前崎くんはうんうん、という風に聞く姿勢を強めてくれたので、わたしの話しやすさ度も増していく。
『夏休みといっても無人じゃなくて先生達は働いてるし、探検したくても校舎は鍵がかかっていて入れないから、子供がすることなんて鬼ごっこかかくれんぼくらいじゃない?わたし達も例に漏れずかくれんぼをしてたわけなんだけど、校舎の外階段の踊り場に隠れてたわたしが、近付いてきた鬼に見つからないように隠れ場所を変えようと慌てて階段を駆け下りようとしたとき、あまりに慌て過ぎて、一番高い階段から派手に足を踏み外しちゃったの』
『え?大丈夫だったの?』
『それが………、やばい、落ちる!って思って、目をぎゅっと瞑って、痛みに備えてたのに、気が付いたときには、知らない男の人に抱きかかえられてたの』
『は?知らない男って?』
『知らない男の人は、知らない男の人よ。さっきまでわたし一人しかいないと思ってたのに、いつの間にかその人が走ってきてくれたみたい。遠くからたまたま見てて、あの子、危ないところであそんでるな…て思ってたんだって』
『へえ……。でも、その人のおかげで怪我とかはなかったんだ?』
『ううん。その男の人が受け止めてくれる前にどこかに腕を打ちつけてたみたいで、手の指を骨折しちゃったの』
『うわ、痛そう……』
今度は眉をしかめた前崎くん。
本当に痛々しいものを見るような仕草に、わたしはなんだかおかしくなってしまい、フッと笑い息が漏れてしまった。
『ええと、でも、たいしたことはなかったから。むしろそのまま落ちてたら最悪死んでた可能性もあったみたいで、だからその男の人は命の恩人なの。それに、そのあと、びっくりして泣き出しちゃったわたしをずっと慰めてくれて、内緒で学校に入ってたから先生に知られたくないって言ったら、学校の人達にばれないように家まで送ってくれて、親にも事情を説明して病院に行くように言ってくれて……とにかく本当にお世話になったの。それで、落ち着いてから親がお礼を…っていうことになったんだけど、友達の誰に訊いてもその男の人のことは知らないって言うし、わたしは気が動転してて顔もはっきり覚えてないし、親もちょっとしか会ってないからよく見てなかったみたいで、その男の人を探し当てることはできなかったのよ。唯一の手がかりは……』
『手首のほくろだった…と』
『そういうこと』
なるほどなと、合点がいった様子の前崎くんは、ジュッと野菜ジュースを飲み干した。
『それで、同じ場所にほくろがある俺に何かヒントがないか訊いたわけだ』
『そうなんだけど……。でもきっと、ほくろの位置なんてただの偶然でしかないわよね。遺伝とか家系とか関係なさそうだし』
それでなくても、もう十年も昔の出来事だ。
当時あの男の人が学生だったのか社会人だったのかは定かではないけれど、十年経った今も、この街にいるとは限らない。
もしわたしが男の人の人相を覚えていたとしても、十年も過ぎればいくらでも顔つきは変わってしまってるだろうし。
最後の手段として、あのとき勝手に入った小学校で当時働いていた職員に事情を説明して協力をあおぐこともできたものの、幼心にも不法侵入という認識はあったので、それを選ぶことはできなかった。
こうなると、もう、あの命の恩人にお礼を伝えることは絶対不可能に思えた。
そうして、どうにもこうにも事態が動かないまま、十年の月日が流れてしまったわけである。
もちろん、十年という年月の中で、毎日あの男の人のことを思い返していたわけではない。
顔さえハッキリ覚えていない幼少時の記憶なのだから、その鮮度はゼロに等しい。
でも今日、前崎くんの手首にあるほくろを見かけて、急にその存在感が膨らんでしまったのだ。
だからといって、前崎くんが男の人に続く手がかりを持っているはずはないのに。
ちょっと考えたら分かることなのにな……
そんな小さな反省を心にしまい、わたしは、『ごめんね、変なこと訊いて。気にしないで』と笑ってみせた。
ところが前崎くんは、『んー……』と、何かを思案するように腕を組んで目を伏せていたのだ。
そしてそんなに間を置かずに、ぱちと瞼を上げた。
『十年前なら、確か、長堀の家の近くに俺の叔父が住んでたな。と言っても、叔父はしょっちゅう世界中を飛び回ってて俺も実際に会ったことは一度しかないんだけど。でも電話ならできるし、もしかしたら何か心当たりがあるかもしれない。ちなみにこの叔父の手首にはほくろはないけど』
最後に冗談ぽく付け加えた前崎くん。
『前崎くんの叔父さん……?』
『もしよかったら、それとなく訊いてみようか?』
『いいの?』
『だって長堀、今でもその人を探してるんだろ?』
『いや、探してるっていうか……』
探したくても探す手立てがなかったというのが正しいのだけど。
曖昧に濁すわたしに対し、前崎くんは腕組みを解いて机に頬杖をついた。
『でも、何か手がかりがあればいいと思って、同じところにほくろがある俺に話してくれたんだろ?』
『まあ、そうなんだけどね』
『だったら、とりあえず、俺にできることはしてやるよ。十年も前のことだから、あんまり期待はできないだろうけど』
『前崎くん………ありがとう』
『よし、じゃあさっそく、そのときのことを詳しく教えてくれる?夏休みって言ってたけど、正確な日時は?』
『えっと、確か、八月の…………』
そのあと、わたしは前崎くんに覚えてる限りのことを事細かく説明したのだった。
大きな期待はせずとも、ほんの少し手がかりが得られたら………そんな淡い望みに、心をくすぐられながら。
そしてこのことがきっかけで、前崎くんとの距離が一気に縮まったのだった。
わたし達が高校一年生の、夏のはじまりのことである。
誤字報告いただき、ありがとうございました。