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『ロマンチストの種』





その夜は、大きくて丸い月が浮かんでいた。

けれどその輪郭はぼやけていて、なんだか不吉めいた空だった。


アヤセさんとの約束は、深夜0時らしい。

なぜそんな時刻なのかというと、アヤセさんの仕事のため…時空を行き来するためには、昼間よりも深夜の方が何かと好都合らしい。

だがそれだけではなく、生まれて間もない赤ん坊を病院から連れ出すにも、そちらの方が好条件なのだろう。

もちろん入院病棟なので24時間灯りが消えることもなく、警備が手薄になるわけではない。

それでも、”人の目” という最も厄介な警備は段違いに減るのだから、アヤセさんの指定時間は正しい選択に思えた。


だがそのおかげで、わたしと彬くんと赤ちゃん、三人の家族時間を持つことができたのだ。


ありったけの愛情で、彼を抱きしめ、髪にキスして、彼の健康と幸せを心の底の底から願う。

この子の病気が無事に治るのか、どんな男の子に成長していくのか、それを見守っていけないことに絶望せずにはいられないけれど、そんなことよりも、この子の命の方が大事なのだ。

そう言い聞かせて、涙を堪えて、それでもやっぱり、泣けてきて。



『大人になったこの子がロマンチストになるのかどうかは、わたし達は知ることができないのね……』


涙声を隠し切れずに呟くと、彬くんがわたしと赤ちゃんを一緒に抱きしめてくれた。


『大丈夫。今こうして、ロマンチストの種を仕込んでおいたから、きっと間違いなく、この子はロマンチストになるはずだ』


冗談とも真剣とも聞き分けられなかったのは、彬くんの声も、掠れていたからだ。

けれどそんなことを言うわたしの夫は、やっぱり超がつくほどのロマンチストなのだと思った。





やがて消灯時刻になり、看護師が赤ちゃんを迎えに来てくれた。

いよいよ最後の別れである。

だが息子との別れに伴い、悲しみや寂しさだけではない複雑な気持ちも覚えてしまうのだった。


『それでは責任持ってお預かりしますね。お母さんもお父さんもゆっくり体を休めてください』


労いを込めてそう言ってくれた看護師に、申し訳ないという感情がいっぱいになったからだ。

なぜなら、今夜、この病院から、新生児が一名、連れ去られるのだから。



アヤセさんの説明では、病院内、外回りの防犯カメラはすでに確認済みで、新生児室以外のそれに映り込むことはないそうだ。

新生児室から息子を連れ出したアヤセさんは、すぐに未来へ戻るのだという。

ということは、何者かが新生児室に侵入し新生児を連れて出る…という場面は録画されるものの、それ以降の動向はいっさい発見されないということで。

事実、わたし達の息子はいなくなってしまうのだから、おそらく刑事事件に発展し、わたし達が真相を明らかにしない以上、未解決事件となってしまうのは想定できる。


親切にしてくれたこの看護師にも、お世話になった病院にも、結果的には多大な迷惑を与えてしまうのだ。

だが、いくら心苦しさを感じても謝罪するわけにはいかない。

わたし達夫婦は今後、何千、いや何万回…それ以上にも、心の中で彼らに詫び続ける必要があるのだ。



『……すみません。この子のこと、よろしくお願いします』


まず一度目の ”すみません” を直接伝えたとき、眠ってる息子が、ニコッと唇を動かした。


『あら、赤ちゃん、笑ってますね。いい夢を見てるのかもしれませんね』


看護師の言葉に、わたしも彬くんも、声が詰まってしまう。


どうか、どうか……この子の微笑みが、ずっと途切れることはありませんように。

祈りをこめて、その額に最後のキスを落とした。

そして彬くんはそのちっちゃな小指を柔らかく握り、自分の唇に優しく当てると『愛してるよ』と告げた。


するとその姿を見た看護師が、


『まあ、外国の映画に出てくるご夫婦みたいですね。ロマンチックで素敵です』


と嘆息したのだ。

わたし達は顔を見合し、互いに張り詰めていたものを解くように、目を細めた。


『じゃあ、この子もロマンチストになりますかね』


嬉しそうに彬くんが問う。

看護師は満面に笑って答えた。


『きっとそうですよ。この赤ちゃんは、ロマンチスト確定です!』



看護師にしてみれば、特段意識もしてないだろう、何てことはない普通の世間話。

けれどわたし達にとっては、もう見ることのない未来を、ほんのわずかな一瞬だけ垣間見せてもらえたような時間だった。



こうして、わたしと彬くんは、大事な大事な自分達の命よりも大切な一人息子と、最後の別れを迎えたのだった。









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