『プロポーズの日の真実』
『そんなことないのに。そんなことで俺と一緒にいられないなんて、絶対なかった。だって約束しただろ?俺は、千代を一人になんかさせないって』
彬くんの手が、わたしのそれに重ねられる。
触れ合った体温に、この上なくホッとした。
会話はスリリングに、話題は神妙一色になる中でも、肌と肌が接するという単純な行為で、わたしの心は簡単に安らぎを見つけたのだ。
『そうだったね……』
わたしは、安らいだ気持ちを支えに、しっかりと、彬くんの話の続きを待った。
『それで、バイトで貯めた金額が指輪の値段に届いて、すぐに俺は二年前と同じ店で注文した。それからしばらくして出来上がりを受け取りに行ったんだけど、店から出ると、真向いのセレクトショップの店先に、チャコールグレーのハットを見つけたんだ。そのハットは、あのレストランですれ違った男が被っていたものとよく似ていた。ほんの一瞬しか見てなかったけど、なぜだか、俺は、そのハットがシグナルに感じたんだ。迷わずそのハットを買って、そのまま身につけた。それまでの二度の経験で、少しはコツみたいなものを覚えていたから、俺は、試しにそのハットを被ったまま、路地裏に入って人目がないことを確認してから、過去に戻るように強く念じてみた。そうしたら、気付いたときには辺りが暗くなっていた。周囲には見覚えのある店が並んでいて、あのプロポーズした店の近くだった。俺は過去に戻ったと分かって、一番手前にあったカフェに駆け込んだ。そこにあった時計は、俺がプロポーズのために店を予約した時間より少し早かった。ひとまずまだ余裕があると知って、飲み物を注文し、落ち着けた俺は、何をすべきかを慎重に考えた。指輪は持って来てる。ハットもある。だが用意してないものがあった。あのメモだ。”二年後” というメッセージを過去の俺に伝えなくちゃいけない。思い立ったものの、ペンや用紙は持ち合わせてない……。俺は軽く取り乱してしまって、それを見かけた隣のテーブルにいた学生が声をかけてくれたんだ。そこで俺は彼らに紙切れでいいから書くものをもらえないかと頼んでみた。彼らは快く応じてくれて、俺は無事に、あのメモを作ることができたんだ。あまりの焦りように不思議に思われたんだろうな、学生達に理由を訊かれて、”実はこれからプロポーズずるんだ” と答えると、彼らには思いきり応援されたけど……』
カフェのくだりの説明は鮮明で、冷やかしの混ざった応援を口々にする学生達が容易く浮かぶようだった。
自分の行動ひとつが未来の世界を変えてしまうという教えに忠実な彬くんと、何も知らずにプロポーズを控えた他人に高揚する学生達、この二つのコントラストがあまりにもくっきりしていて、彬くんの記憶の中でも深く刻まれていたのだろう。
『だけど……』
学生達とのやり取りを語った口調が、みるみると沈んでいく。
彬くんは一旦言葉を飲み込んで、話しはじめの感情の位置を下に定めたようだった。
『……何事もなく指輪を届けられてホッとした俺は、元の世界に戻って、母さんの死を知ったんだ』
そう告げて、彬くんはわたしの手を離すと、今度は自分の両手を握り合わせ、項垂れた。
―――そうだった。
あの日、義母が運ばれた病院に駆け付けた彬くんの手には、見慣れないチャコールグレーのハットがあったのだ。
今思えば、それは確かにプロポーズの時に現れた見知らぬ男性の被っていたものと同じだが、あの日はそれどころではなかった。
『母さんが死んだと知って、俺のせいで死んだのかもしれないと思った。俺が二年前に戻ってとった行動のどれかが、母さんの死に関係してるんじゃないかと疑ったんだ』
苦しそうな彬くんに、わたしは何も返せなかった。
たった今事情を知ったばかりのわたしが、”そんなことないよ” なんて気軽な慰めを吐けるわけもなかったから。
せめて、わたしの中にも彬くんの苦しみが流れ込んできてほしい……そんな一心で、夫の話を聞いていた。
『俺のせいかもしれない……そんな罪悪感に襲われた俺は、唯一それを相談できるアヤセさんに連絡を取った。でもアヤセさんからの折り返しはなかった。だから、叔父さんは葬儀には呼べなかったんだ』
今になっての種明かしは、切なくて、心臓をぎゅっと摘ままれてしまう。
どうしてこんなにも彬くんにばかり不可思議なことがふりかかってくるのだろう。
わたしはすぐそばにいながら、それを防ぐ傘にすらなれていなかったのだ。
そのことが、無性に、悔しい。
それでも、ふと、気になることがあった。
『でも……彬くんの感情の高ぶりが過去に戻るカギになるなら、お義母さんのことでも過去に戻れるんじゃないの?戻って、早めに病院で検査するように勧めることはできなかったの?』
わたしのこの気付きは、大いに役立つと思えた。
けれど、彬くんはゆっくりと頭を起こしたと思えば、同じような速度で左右に振ったのである。
『何度も試してみたけど、どうしてもダメだった。葬儀が終わってからも、四十九日が過ぎてからも、何度も何度もやってみた。でも、千代のときみたいにはいかなかった。俺にこの力のことを教えてくれたアヤセさんでさえ、まだまだ分からないことばかりだと言ってたから、俺なんかがどうこうできるわけなかったんだ。それに、……もしうまくいって過去に戻れたとして、そこで母さんの死を回避できるように行動を起こしたら、今度は千代の身に何かがあるんじゃないかって、それが不安でたまらなかった。母さんのことも助けたいけど、千代を失うなんて考えられなかった。だけどそもそも、俺が助けるなんて、おこがましい考えだったんだよな』
『そんなことない!だって彬くんはわたしの命を二度も救ってくれたじゃない。お義母さんのことは分からないけど、でもわたしに関しては、あれは嘘偽りなく、彬くんに助けられた命だもの』
まるで脊髄反射のごとく、強く反論していた。
わたしにしてみれば、彬くんがおこがましいだなんてあり得ない話なのだ。
彬くんがいなければ、わたしは下手したら小学校入学前に事故死していた可能性だってあるのだから。
わたしの反論に、彬くんも納得する部分はあったようだった。
『……それができただけでも、よかった。千代がいなかったら、この子とも出会えなかったんだからな』
深く深く、もし心情が湖のようなものだったら、その底をさらに掘った、深部の奥から湧き出てくるセリフに聞こえた。
体をひねり、じっくりと、息子の寝息に耳を傾けるような仕草をする彬くん。
わたしもつられて、ベビーベッドの主に視線を預けた。
『それで、そろそろ、この子の病気について教えてくれる?』
気が付いたときには、彬くんに催促の言葉を放っていたのだった。




