『彼との出会い』
わたし達が出会ったのは、高校生になった春だった。
同じクラスで、たまたま隣の席になったのが、後に夫となる前崎 彬文である。
物静かと言えば聞こえはいいけれど、あまりクラスに馴染もうとしないで、彼は独りでいるのが好きそうに見えた。
だからといって学級内に波風を立てがちなタイプというわけでもなく、ただ寡黙なだけだった。……少なくとも出会った頃のわたしは、彼のことをそう評していた。
けれど、隣の席から観察していくうちに、ちょっとずつ彼の人となりを覗き見できるようになると、決して寡黙とは言い切れないような気になっていった。
きっかけはよくある話で、わたしが落としたシャーペンを拾ってもらったことだ。
授業の終わり、起立した際に机に足をぶつけてしまい、端にあったシャーペンがコロコロと転がり落ちた。
彼…前崎くんはそれをサッと拾うと、礼をしながらわたしに差し出してくれたのである。
『あ、ありがとう……』
その素早くてスマートな所作に、わたしは驚くというよりも、見惚れてしまったのかもしれない。
お礼を述べる唇は、どこかぎこちなかった。
すると、前崎くんはわたしがシャーペンを受け取ったあとも、席につきながらじっとこちらを見てきたのだ。
『……まだ、なにか、あるの?』
隣の席になってからも会話らしい会話をしたことなかった前崎くんに、わたしは戸惑いを隠さずに尋ねた。
前崎くんが何か言いたそうな顔をしていたからだ。
『いや……、それ、もしかして非売品?』
一瞬躊躇を匂わせたものの、やがて前崎くんはわたしに渡したばかりのシャーペンを指差した。
『ああ、これ?そうだよ。春休みに会った知り合いの人からもらったの』
わたしはシャーペンをクルクル指先で弄びながら椅子に腰をおろした。
それは、とある映画配給会社が関係者に配布した非売品だったのだ。
両親の知り合いが広告関係の仕事をしていて、その繋がりで手に入れたものを、たまたま会ったわたしにお土産代わりにくれたのである。
この映画にも限定品にも興味がなかったわたしには、どこにでもある変哲のない文房具のひとつでしかなかったけれど。
でもどうやら、前崎くんにはそうではなかったらしい。
『へえ……いいな』
ぽつりと、うっすらと羨望を滲ませてくる前崎くん。
………前崎くんって、こんなこと言うタイプだっただろうか?
意外な反応に、わたしは思わずじっと見つめ返してしまった。
そしてその眼差しに気付いた前崎くんは、『あ……ごめん』やや恥ずかしげにわたしのシャーペンから目を逸らした。
『好きなの?この映画』
視線を外されたことになぜだかチクリとした痛みを感じ、わたしは慌てて会話をつないだ。
前崎くんは教材を机の中にしまいかけていたその手をピタリと止める。
『もしかして長堀も?』
嬉しさが込み上げたような、顔じゅういっぱいの笑顔で名前を呼ばれて、わたしはドキリとした。
今まで意識したこともないただの隣の席の男の子に、胸が弾んだ最初の瞬間だった。
余談だけど、わたしは、彼のこの『長堀』という呼び方が好きだった。
今はもう呼ばれることもないわたしの旧姓だけど、なんというか、彼の呼び方は他の人のそれよりもやわらかく聞こえて、呼ばれるたびに、わたしは耳から小さな幸せをもらっていた。
『ええと……ごめん、そういうわけじゃないんだけど……』
別に謝ることもないけれど、期待に満ちてわたしの返事を待つ前崎くんには申し訳ない気持ちにもなってくる。
すると前崎くんの方こそ申し訳なさそうに『そっか…。なんか、ごめん』と急激に表情をしぼませた。
『その映画、日本じゃ公開期間が短くてグッズも全然出なかったから、つい……』
『ううん、気にしないで。あ、もしあれなら、このシャーペン、いる?わたしは別にこの映画のファンでもないし。もしよかったら』
わたしの取って付けたような提案にも、前崎くんはまたもや花火が弾けたような明るい声で『いいの?!』と返してきたのだ。
その様子が、それまで前崎くんに感じていた ”寡黙” というイメージとは大きくかけ離れていて、わたしはぽかんとしてしまった。
『……長堀?』
『あ、ごめん。もちろん、どうぞ?』
未練の欠片もないシャーペンを前崎くんに手渡すと、彼は、まるで砂漠の砂の中から見つけた一粒のダイヤを受け取るかのような、貴重な品を拝するような恭しい仕草でそれを握りしめた。
『ありがとう!大事に使うよ』
そう言った前崎くんに、わたしだけでなく、教室にいた他のクラスメイト達も釘づけになっていた。
だって、それまで前崎くんを取り巻いていたのは ”物静か””寡黙””無口” という評判だったのだから。
けれど、これがきっかけとなって、少しずつ会話量を増やしていくと、そんな言葉達はあっという間に消え去っていったのだ。
前崎くんは人見知りな一面があるだけで、決して孤独を好む人ではなかった。
打ち解けた人とならおしゃべりもするし、冗談だって言い合う。大声で笑うことだってある、楽しい人だった。
そして、わたしやクラスメイトが前崎 彬文という人物を知り、親しくなり、昼休みを一緒に過ごすようになった、そんなある日のことだった。
わたしは、ふと、あることに気が付いた。
『あれ……?そんなところにほくろがあるんだ?』
季節が進んで夏服になり、それまでシャツに隠れていた手元が露になったせいで、彼の右手首の内側にあるほくろが自己主張を強めたのだ。
一緒に食べてた友人達は食後のおやつを求めて売店に行っていたので、ここにはわたしと前崎くんしかおらず、わたしの呟きのような疑問の宛先は名を添えずとも一人しかいなかった。
『うん?ああ、これ?あんまり言われたことないけど、そんなに目立つ?』
今まさにパンに噛り付こうとしていた前崎くんが、あんぐりと開いていた口をパンから離して自分の手首を確認するように見た。
『ううん、そういうわけじゃないけど』
特に目立つというわけではない、小さなものだ。
けれど、わたしにとっては、ちょっとした意味のあるものだった。
わたしは、もうずいぶん古くなってしまった記憶を手繰り寄せながら言った。
『……でも、同じところにほくろがある人を知ってるから、ちょっとだけびっくりしたかな』
『へえ……。珍しいな』
『やっぱりその場所って珍しいのかな?』
『さあ?俺は他の人で見たことないけど』
『ふうん……。ねえ、ほくろって、遺伝とか血縁とか関係ないよね?』
『突然どうした?』
『ええと……、実は、ちょっと人を探してて』
『その人の手首にもほくろがあるんだ?』
『そうなの。もう手がかりはそれしかなくて』
『また妙な手がかりだな』
ふうん…と、さほど興味を持ってない感じに反応し、前崎くんは食事を再開した。
彼の今日のメニューはサンドイッチ二つに焼きそばパンとコロッケパンだ。
わたしだったらサンドイッチ二つでお腹が膨れ上がってしまいそうだけど、これだけ食べても放課後には空腹で仕方ないというのだから、高校生男子の食欲が底なしであることは間違いないだろう。
わたしが、その痩身のどこにそれだけの食べ物が入るのだろうかと本気で不思議がっていると、
『……で?』
紙パックの野菜ジュースをズッとストローで吸ってから、前崎くんが問いかけてきた。
『え?』
『だから、人探ししてるんだろ?それで、俺のほくろが何かヒントになるかもって思ったんじゃないの?』
興味なさげにしてた前崎くんに、てっきりその話題はもう終わったとばかり思っていたわたしは、驚いて握っていた箸を落としそうになってしまう。
『あ、っと……』
焦って箸を掴むと、前崎くんの大きな手のひらが助けに入ってくれた。
なんの前触れもなく、心の準備もできないまま、突然触れ合ってしまった手と手の感覚に、その温かさに、わたしの心臓は特大のバネが生えたように跳ね上がってしまった。
『―――っ!』
ビクリ、と手が震えてしまったわたしに反して、彼はいたって普通の温度で。
『長堀って、しっかりしてるのに時々そそっかしいよな』
前崎くんは、ハハッと笑いながらわたしの手を離した。
わたしだけがドギマギしてしまうなんて、なんだか悔しい。
けれどそんな内心を知る由もない前崎くんは、『それで?その人ってどんな人?』と、いつもの調子で話を進めてくる。
わたしは悔しいやらドキドキやら、複雑色になっている感情を短い深呼吸でやり過ごし、前崎くんを正面から見つめ、箸を置いた。
『前崎くん、一緒に探してくれるの?』
『…協力できることがあるなら』
前崎くんの返答は若干控えめのテンションに下がった気もするが、ほくろでつながった縁だと思い、わたしは、今はもうあまり口にする機会も減っていた懐かしい思い出の封を解くことにしたのだった………