『あり得ない告白』
わたし達のもとにやって来てくれた息子に、わたしも彬くんも、父親として、母親として、全身全霊の愛情を注ぐことに時間を惜しまなかった。
その合間に、いくつか候補があった名前についても家族会議を開いて、体力面ではへとへとになりながらも、満たされた幸せな時間を過ごしていた。
そんなある夜のことだった。
二日後に退院を予定していて、わたしは、それから始まる親子三人の暮らしに若干の不安はあったものの、それを上回る希望に胸を躍らせていた。
日曜日でお休みだった彬くんは昨夜から病院に泊まり込んでいて、一緒に赤ちゃんのお世話をしていた。
夕食の時間になり、彬くんが病院の外に食べに出ると、部屋にはわたしと赤ちゃんの二人きりになった。
この病院は日中は母子同室で、夜間のみ新生児室に預けることになっていて、わたしは、看護師さんが赤ちゃんを迎えに来てくれるまでのひとときを、愛しい息子と過ごしていた。
すやすやと機嫌よさそうに眠っている我が子が、たまらなく可愛い。
わたしが指を近付けると、その小っちゃな手できゅっと握ってきて、ああ、この子は何があってもわたしが守るんだと、誰に対するでもない誓いが何度も何度も心の中で繰り返されていた。
これが母性というものなのだろうか。
そう思うと、ふと、母が頭に浮かんだ。
もし母が今も生きていたなら、きっと毎日ここへ通ってきたことだろう。
もちろん、義母も同様だ。
二人して、やれ目がどちらに似てるだの、耳はどっちの家系だのと盛り上がっていたに違いない。
そんな想像をしていると、やっぱり、両親の不在がずしんと気持ちに錘を乗せてくる。
……だめだ。
せっかくの親子の時間なのに。
わたしは過去に向いていた心のハンドルをいっぱいにまわし、未来へ切った。
ちょうどその時、食事に出ていた彬くんが部屋に戻ってきた。
『あ、お帰りなさい。遅かっ……たね』
扉が引かれてすぐに声をかけたけれど、入ってくる彬くんの様子を視界に入れたわたしは、ぎこちなくセリフが泳いでしまった。
彬くんの顔色が、今までに見たことがないほど暗かったからだ。
どん底の顔色…と言ってもいいかもしれない。
義母の死に目に間に合わなかったあの夜よりも、もっとずっと暗く落ちた雰囲気だ。
あの夜よりも落ち込むことなんて、あり得るのだろうか?
嫌な予感以上の不穏な陰が、急に重たく圧し掛かってくるのを感じた。
わたしは無意識のうちに掛布団の端をぎゅっと握りしめていた。
『………どうかしたの?』
扉が閉まっても部屋の隅から動こうとせず、立ち竦んだままの彬くんに話しかけるのは、かなりの勇気が必要だった。
『彬くん……?』
呼びかけるも、立ったまま俯いている彬くんの横顔は少しも変わらない。
『彬くんてば!』
声を張ると、彬くんはハッと我に返ったように、肩を揺らした。
そして焦れるような速度でゆっくりと、躊躇いがちに顔を上げると、ぼんやりとわたしに目を合わせてきた。
『……彬くん?どうしたの?もの凄い顔してるけど、何があったの?』
わたしは赤ちゃんを起こさないように、大きな音はたてないように注意しながらベッドから下りた。
けれど、スリッパに足を通す前に、彬くんに制されてしまった。
『そのままでいいから、………今から、千代に、聞いてほしい話が……あるんだ』
切羽詰まるような口調だった。
『話?やっぱり何かあったのね?』
彬くんの態度が伝染したのか、ついわたしも大きな声になってしまい、すぐさまボリュームを落とした。
『……ねえ、何があったの?話って?』
今度はひそめたトーンで尋ね直す。
すると彬くんはベビーベッドで眠っている我が子のそばに歩み寄っていった。
スッとベビーベッドの傍らに立ち、この上なく愛おしそうに見下ろす彬くんは、素敵な父親そのものだった。
一度、我が子のそのふにふにした頬に触れようと指を近付けるも、すんでのところで止め、気持ちよさそうな眠りを妨げるようなことはしない。
自分の想いを優先させることはしない、そんないつも通りの彬くんだったからこそ、わたしは、これから聞く彬くんの話もきっと大したことはないのだろうと、勝手に解釈してしまった。
だってこんなに幸せそうに微笑んでいるのだもの。
さっきの暗い顔は、きっと入院中のわたしや赤ちゃんの世話で疲れがたまってたせいなんだと、本気でそう思いかけていた。
でもそうじゃなかったことは、すぐに明らかになった。
彬くんが、血色をほとんど宿していない冷え切った顔をわたしに向けてきたのだ。
『俺は、この子を愛してる。愛してるんだ。………だから、この子を、手放そうと思ってる』
あり得ない告白は、わたしを、奈落の底に突き落としたのだった。
誤字報告いただきまして、ありがとうございました。




