『静かな別れ』
二年後――――それが何を示していたのかは分からずじまいだったが、二年後、わたし達には、大きな出来事が起こってしまった。
彬くんのお母さまが、亡くなったのだ。
急逝だった。
持病もなく健康そのものだったお母様が出先で倒れたと連絡が届いたとき、彬くんは不在だった。
仕事が休みの日で、朝食の後、『ちょっと出てくる』と言い残して出かけていたのだ。
わたしはあまりの突然の知らせに、自分の両親が事故に巻き込まれた時のことを思い出し、狼狽えた。いい大人なのにぽろぽろ大粒の涙を落としながら、お母さまが運ばれた病院に駆け付けたのである。
彬くんには、すぐ病院に来るようにとメッセージを残しておいたが、ちゃんと伝わったかどうかは分からない。
でもそんなことより、義母の無事を一秒でも早く確認したかった。
看護師の案内で病室に向かうと、そこには、慌ただしいなんて表現では間に合わないほどの光景が待っていたのだ。
医師と看護師が落ち着きなく動き回っていて、大声の指示が飛び交う、映画で見かける戦場シーンのようだった。
その隅で、わたしはスタッフに義母の確認を求められ、詳細を問われた。
けれど義母の容態にしか気持ちが向いていかないわたしは、きちんと受け答えをした自信はなかった。
わたしの両親のときは、もうすでに手遅れだったが、義母は違うのだと、かすかな希望にすがる思いで祈り続けた。
けれど、医師の焦ったような動きが鎮まっていき、わたしは、楽観的な想像よりも、よもやの事態が頭を掠めた。
そして、
『前崎さん…で、よろしかったですか?』
今さっきまで響き渡っていた大声とはかけ離れた静謐な医師の声が、はじめてわたしに向けられたのだった。
その後告げられた義母の死は、あまりにも突然だった。
ほんの短い間でも医師や看護師が全力で義母を救おうとしてくれたのはじゅうぶん納得している。
だが、それでも、こんな唐突の最期を受け入れられるわけもない。
わたしは、無礼にも医師に食ってかかった。
あともう少し、もう少し治療を続けてくれたら、もしかした義母は回復するかもしれないと。
自分が無茶を言ってることは、思考の遠いところでは理解していた。
でもこのまますんなりと、はい分かりました、なんて了承できないのだ。
だって、つい数時間前、義母と電話で話したのに。
彬くんが朝からどこかに行ってしまったと、帰ったらお義母さんに連絡しますねと、普通に話して普通に約束して。
なのにその義母が、死んだなんて、考えられない。あり得ない。信じられない!
医師の両腕に縋りつくように掴みかかるも、その医師からは、謝罪の言葉が返ってくるばかり。
それは真摯な、心の底からの同情を込めて。
わたしはしばらく足掻いて、でももうそれ以上訴えることもできなくて、今度は、ベッドに横たわる義母の体に抱きついた。
『お義母さんお義母さん!お義母さん……』
その頬は温かく、まるで白雪姫のように、何かの拍子に息を吹き返しそうなのに。
けれどわたしは王子様ではない。なりたくてもなれない。
どうして!どうして………!
わたしは、目を閉じたまま身動きを止めてしまった義母に、どうしようもない感情をぶつけることしかできなかった。
それから一時間ほど経って、ようやく彬くんが姿を見せた。
息も絶え絶えになって、懸命に急いだのは見て取れた。
だが、遅すぎた。
彬くんは、わたしの顔と周囲の雰囲気から最悪の結果を察したのだろう、『そんな、まさか……』と、よたよたと不安定な足取りで、義母のもとに歩み寄っていった。
『母さん………っ』
体じゅうの感情を絞りだすような囁きに、わたしは、今までどこに行ってたのかと詰め寄ることはできなかった。
その姿が、あまりにも痛くて。
『母さん………』
親子の別れは、切ないほどに、静かだった。
静かすぎて、わたしも、何も言葉を発することができなかった。
だから、このとき彬くんが右手に持っていたチャコールグレーの見慣れないハットのことすら、問いかけることもしなかったのだ。
その後、通夜や葬儀はわたしと彬くんの二人だけで執り行った。
彬くんの叔父さまには連絡がとれなかったらしい。
ほとんど唯一の親戚なのに、きちんとお伝えしなくて大丈夫なのかと尋ねても、彬くんは『気にしなくていい』の一点張りだった。
このときも、違和感がなかったはずないのに、それでもわたしは、義母を失った空虚に囚われるばかりで、いちいち心を動かすこともできなかったのだ。
あとから思い返せば、いくらでも疑問が浮かんでくるのに……
このときのわたしには、彬くんがぽつりぽつりとこぼした言葉が、すべてだったのだ。
『二人ぼっちになったんだな………』
『もう、誰にもいなくなってほしくないよな………』
『俺達の悲しみの先には、何が待ってるんだろうな……』
『千代は、ひとりぼっちにしたりしないからな……』
こうして、結婚二年目、わたし達の家族は、二人きりになってしまったのだった。




