思い出のお裾分け
「ねえねえ岸里さん、ちょっとお話しない?」
ある日、日勤だった私は退勤直前に前崎さんにそう誘われた。
今日は朝からよく晴れた天気で、前崎さんは車椅子で院内を散歩していたらしい。
部屋に戻るところに出くわし、上品な笑顔で車椅子から見上げられたのである。
私はこの病院では新米の位置付けなので、勤務時間外のことを勝手に判断もできず、その場では返事を保留にし、引継ぎで顔を合わせた直属の上司にあたる人物に意見を求めた。
すると、
「前崎さんがそう仰るなら、お付き合いして差し上げたらいいのでは?」
上司はにこやかに応じた。
後々聞いたところでは、ご主人と死別されてお子さんもいらっしゃらない前崎さんは身寄りがなく、見舞客もおらず、時々他の入院患者さんと触れ合うことはあっても個室なので基本的にはお一人で過ごす時間が長いことから、スタッフの間ではなるべく声をかけようということになっていたらしい。
もちろん他の患者さんについても、その方がより良い入院生活を送れるように配慮すべきではあるのだが、こと前崎さんに関しては、特別に目をかけられてる印象を覚えた。
そういうわけで、前崎さんのお相手をすることは看護師業務の一部とも見なされるというので、私は周囲の目を気にすることもなく前崎さんとの時間を増やしていったのだった。
そうやって、勤務の合間、もしくは勤務の前後、前崎さんの病室にお邪魔するようになってしばらく経ったとき、私は、前崎さんから再びあの質問を受けたのである。
「ねえ、岸里さんは、自分のことをロマンチックな方だと思ってるのよね?」
日勤が終わった17時過ぎ、仕事帰りに前崎さんの病室に寄って温かいお茶を飲んでいたときだった。お茶といっても、院内の売店で購入したペットボトルのほうじ茶だけど。
「え?ああ、前にもそんなこと仰ってましたね。ええ、そうですよ。リアリストかロマンチストかと訊かれたら、私はロマンチストの分類ですね」
前崎さんは今日も上機嫌で、体調も安定していて、気がかりなことなど何一つない、そんな夕方のことだった。
だから私は普通に答えたのだ。
いや、むしろ今の質問のどこを深読みできたのかすら分からないが、とにかく私は、ただ素直に肯定しただけで。
けれどそれが、前崎さんにとってはある種のリトマス試験紙となったようだった。
「それじゃあ、わたしの話も信じてもらえるのかしら?」
「前崎さんの話って、どんなお話ですか?」
腰かけている簡易椅子の背もたれから体を起こし、私はやや前のめりになって訊き返した。
少しの好奇心を携えて。
「そうねえ、わたしと夫の………のろけ話、かしら」
夫もずいぶんロマンチストだったのよ?
そう言いながら、クスクスと吐息を踊らせる前崎さん。
その様子は、思春期の少女のようで、可愛らしいと思った。
「のろけ話ですか?わあ、ぜひ聞かせてください。前崎さんとご主人の恋のお話、聞きたいです」
私は気持ちも前のめりで頷いた。
恋愛話といえば、まったく知らない人の話でも興味をそそられるものだが、それが自分と関係のある人となれば尚更だ。
今後の接し方のヒントになるものが見つかるかもしれないし、何かの手掛かりになるかもしれない。
嘘偽りなくのろけ話を歓迎する私に、前崎さんも気をよくしたように微笑んだ。
「そう言ってもらえてよかったわ。他人ののろけ話だなんて、眉をしかめる人も多いものね。でも、夫はとてもロマンチストだったの。だから岸里さんにも退屈させることはないと思うのよ?」
「そうなんですか?それは楽しみです」
お世辞でもなく、社交辞令でもない、私の心からの本音。
私は、これからどんな恋愛の物語を聞かせてもらえるのか、ドキドキと逸る想いを宥めるように、ペットボトルを膝の上できゅっと握っていた。
「じゃ、はじめるわよ?」
「はい。お願いします」
「もしかしたらちょっと長くなっちゃうかもしれないけど…」
「大丈夫です」
「途中でつまらなくなったら遠慮せずに言ってね?」
「大丈夫です!」
力を込めて答えると、前崎さんはそれはそれは愉快そうに目を細め、「それじゃ、まず、わたし達の出会いから………」と、大切な思い出のお裾分けをはじめてくれたのだった。




