『虚虚実実(きょきょじつじつ)』
大学を卒業したあとは、わたしは希望していた翻訳の仕事に、彬くんは大学院を経て民間の研究所に勤めていた。
彬くんが学生の間は、それぞれの実家を互いに通い合って、ほぼ別邸を持ったような感じだった。
彬くんのお母さまは、自分のことは気にせず、もう二人で暮らしなさいよと言ってくださったけれど、やはり彬くんのお母さまを一人きりにするのは気が引けて、ややわたしの実家に重きを置きつつも、彬くんの実家に泊まる機会を意識的に作っていたのだ。
だが働きだしてからは、彬くんのお母さまの鶴の一声で、彬くんの住民票はわたしの実家の住所に移されたのである。
そしてお母さまは、単身者用の部屋もある都心のマンションに引っ越された。
当時まだ現役で働いてらしたお母さまには、その方が通勤にも便利らしく、そこまで言われてしまえば彬くんもわたしも折れるしかなかったのだ。
かくして、両親の思い出が色濃く残る実家での、わたしと彬くんの同棲生活がはじまったわけだが、それはとにかく楽しくて、一緒に暮らすことで見つかる新しい発見の連続は、住み慣れてるはずの我が家にいながらも新鮮だった。
毎日が、きらめいていた。
きらめいていた―――なんて、彬くんのロマンチストな面がわたしに伝染してきたのかもしれないけれど。
当の彬くんは相変わらずロマンチストで、当然、ロマンチックな言葉達も、同棲生活を織り成す重要な一部になっていた。
やがて時が過ぎ、いくつもの季節を迎え、互いに成長してくると、それとなく、新しい関係への転換を意識することも多くなっていった。
結婚。
もうわたしも彬くんも、彬くんのお母さまも、わたしの同僚や友人達も、みんながその未来を疑ってはいなかっただろう。
一緒に住んでいることから、結婚へのハードルは低いものかと思われたものの、彬くんからは、そのタイミングを掴みかねてる様相があった。
いわゆる、プロポーズについてだ。
ロマンチストな彬くんのことだから、どんな素敵な演出になるのだろうかと期待する気持ち半分、そんなに凝らなくてもいいのに……と心配になる思い半分で焦れ焦れする中、わたしは27歳になろうとしていた。
そんなある日のことだった。
『今年の誕生日は、外で食事でもする?』
彬くんが何気なく提案してきた。
いや、何気ない風を装って、と言った方が正しいだろうか。
わたしはピンとくるものがあったけれど、もちろん、そんなことは口走らない。
『わたしはお祝いしてもらう立場だから、彬くんに任せるよ』
何も気付いてない素振りで、そう返事した。
が、おそらくきっと、間違いなく、わたしが何かを察知したことを、彬くんも察知していたことだろう。
虚々実々のプロポーズ戦が封切られた瞬間だったのである。
けれど、その試合結果は、思いもよらぬ人物の途中参戦によって、勝敗がつくことはなかったのだ。
手首にほくろのある男が、またもや、わたしの前に現れたのである。




