思い出話、再開
「おや、岸里さん?そんなに急いでどこへ?」
研修会が予定より遅くなってしまい、今にも駆け出しそうになっていたところへ、直属の上司に呼び止められてしまった。
「あの、病院へ……」
「病院?」
不思議そうな反応も無理はない。
今日はこの研修会会場から直帰になっているはずだったから。
私は短い逡巡ののち、包み隠さず報告することにしたのだった。
「実は、前崎さんのお部屋に伺う約束をしていまして……」
「ああ、そうだったんですか。それはお仕事熱心ですね」
「いえ、仕事というわけではないんですが……」
「そうなのですか?それでも、前崎さんは特殊な患者さんですから、信頼関係構築のためにもたくさんお話するのは良い事ですね」
手放しで褒めてくれる上司に少々くすぐったいものを感じた私は、「あの、それでは、先を急ぎますので、これで……」と会話を打ち切ろうとした。
上司も「引き止めて申し訳ありませんでした」と柔和に応じてくれて、私は素早い会釈をし、その場から急ぎ足で離れたのだった。
……まさか、あそこで上司に声をかけられるとは思わなかった。
前崎さんと親しくしてること、知られない方が良かっただろうか。
いくら前崎さんが独り身で特殊な患者さんだといえ、休日にまでわざわざ部屋を訪れるというのは、やり過ぎに見えるかもしれない。
私達の業界では、あくまでも仕事は仕事、必要以上に担当患者に肩入れするのは良くない…そんな風潮があったから。
もちろん前崎さんにはスタッフが特に目をかけるだけの理由があるわけだし、今回の私の場合は、こちらから望んでそうなってるわけでもないのだから、正々堂々としていればいい、……はずだ。
なのに上司に問われて、妙に動揺してしまった。
……もしかしたら私は、前崎さんと親しくなることに、どこか後ろめたさみたいなものを感じているのだろうか?
だって前崎さんは、あとしばらくすると…………
―――止めよう。
こんな余計なことを考えるのは、止めよう。
私はただ、前崎さんと病院で知り合って、お相手をしてるときに、前崎さんと亡きご主人のロマンチックな思い出話を聞かせてもらって、今日は、その続きを聞きにお邪魔するだけなのだ。
そう思い直し、…いや、思い込み、私は前崎さんの部屋へ急ぐ速度を増していったのだった。
※※※※※
「こんばんは。いらっしゃい、岸里さん」
前崎 千代さんは、今日も穏やかなホットミルクのような笑顔で、私を出迎えてくれた。
「こんばんは。お待たせしてしまいましたか?」
「全然よ。それに、どうせわたしはいつも消灯時間まで退屈で仕方なかったんだから、岸里さんとの約束があるだけでも、わくわくして待てちゃうのよ。だから、ありがとう」
思いやりのこもった返事に、私の方こそささやかな感動を覚えてしまう。
まだ短い時間の知り合いでしかないけれど、この前崎 千代という女性は、実に柔らかな心の持ち主だということが分かる。
それは、もともとの気質なのかもしれないし、余命という残酷な遠因が導いた結果なのかもしれない。
もし後者だったとしたら、それは、切ないな………
そんなことを思いながら、私は壁際にあった簡易椅子を前崎さんの元に引き寄せた。
「横にならなくて大丈夫ですか?」
一応、看護師らしい声かけも忘れずに。
けれど前崎さんは「平気平気!」と両手に拳をつくってポーズをとってみせたのだ。
……本当に、余命宣告を受けてる患者さんなのだろうか。
今までに何度も浮かんでいる疑惑に、私は内心で苦笑するしかなかった。
「昨日は長い時間お話させてしまって、疲れが出てないか気になってたんです」
「あら、わたしから聞いて欲しいって言って話していたのだから、疲れなんか出るはずないわ。今日も早く岸里さんに夫の話を聞いてもらいたくて、うずうずしちゃってるんだから」
ふふふっと可愛らしい笑い息を転がせる前崎さんに、私はホッとする。
「それじゃ、今日も聞かせてもらえるんですね。私も、早く先が知りたくて、うずうずしてたんですよ」
上司との会話を打ち切らせるほどに、続きが気になっていたのだから。
「あら、そんなに?どこまで話してたのかしら」
意外そうに訊いてくる前崎さんに、私はすぐさま答える。
「前崎さんのご主人が一晩中前崎さんの命の恩人を探してた…というところでした。でも、前崎さんが仰るには、実はその晩、ご主人は前崎さんの恩人を探していたわけではない、と……」
「ああ、そうそう、そうだったわね」
前崎さんは小刻みに頷いたものの、
「でもそれは後でおいおい話すとして、とりあえず、わたしと夫のことをもう少し聞いてもらえるかしら?」
あくまで品よく丁寧に、それでも主導権を握ったまま、今宵も思い出話の扉を開いたのだった………




