『優しい顔』
その晩、彬くんは、未明になってからこっそりと帰ってきたようだった。
真夜中、キ――ッという扉の開閉音で目が覚めたわたしは、リビングに向かって廊下をまっすぐに進んでくる気配を追った。
わたしが泊まる際にいつも使わせてもらう和室はリビングと襖一枚しか隔ててない位置なので、彬くんがリビングのソファにどさりと倒れ込む瞬間すらつぶさに感じ取れた。
けれどその後、何かが動く音は一つも聞こえてこず、心配になったわたしはなるべく静かに布団を抜け出て襖を開いてみた。
するとリビングは真っ暗なままで、三人掛けのソファからは彬くんの足が無造作に放り出されていた。
そっと近寄ろうとしたが、それよりも早く、彬くんがのっそりと体を起き上がらせた。
『千代……?ごめん、起こした?』
その声は、とても疲れているように聞こえた。
いや、それよりももっと酷く、疲弊しきっているようにも感じられて、わたしは、彬くんがあの男の人を見つけられなかったこと、見つけるために走り回ってくれたのだろうと理解した。
『おかえりなさい。お疲れさま。わたしのために、ありがとう』
結果を聞くまでもない。わたしはリビングの明かりを点け、労いの言葉だけを伝えながら、ソファの背もたれに置かれた彬くんの手に触れた。
ちょっとだけ骨ばったところのある、わたしの好きな手だ。
だがその手が、ピクリとかすかに振動した。
『………わたしのため?』
『だって、わたしを助けてくれた人に、わたしの代わりにお礼を言うために探してくれたんでしょう?』
『ああ……そういうことか……』
ため息を含んだ呟きを吐き出した彬くんは、本当に疲れているように、項垂れた。
なんだか、全身から生気が吸いとられてしまったような、蒼白い横顔だ。
『……彬くん?』
『うん?』
『ひょっとして何かあったの?こんな時間まで……』
『いや、ちょっと、たまたま叔父に会って……』
『叔父さまって、あの?すごい、偶然だね』
『本当、すごい偶然だよな……』
空気に溶けるかのようなおぼつかない返事に、わたしはつい、訊いてしまう。
『……大丈夫?』
大丈夫?なんて訊かれても、大丈夫。としか答えようがないのに。
ほら、やっぱり彬くんは、顔を持ち上げて。
『……大丈夫。だって俺は、千代のお父さんとお母さんになったんだからな。あと、姉と兄と弟と妹だろ?それから、友達、親友、先輩、後輩、先生、あとは……ペット?』
『ペットって……』
思わず、時刻も忘れて声をあげて笑ってしまう。
『やっと笑った。これで、もし今度また千代がお父さんやお母さんに会いたくなったとしても、俺のことを思い出して笑ってくれるよな?』
そう言って、うっすらと微笑んだ彬くん。
その疲労感たぎる優しい顔は、なぜだかわたしの脳裏に焼き付いて離れなかった。
わたしの恩人について何かわかったことがあるのかとか、偶然出会ったという叔父さんのこととか、訊きたいことは色々あったけれど、そのどれもを口にすることさえ躊躇してしまうような、そんな、蒼白くて、でも優しい顔。
それは、何年経っても、今でも、はっきりと覚えているほどで―――――――
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「”ほくろと黒いパーカ” というだけでは、さすがに探せませんよね……」
私は同意と、一晩中その恩人を探し回っていたという前崎さんのご主人に同情を示した。
すると前崎さんはクスクスと少女のように笑い声を転がせる。
「でもね、実は、夫はその時、わたしの命の恩人を探してたわけじゃなかったのよ」
「え?どういうことですか?」
思いがけない展開に、私は素直に驚きの反応になってしまった。
前崎さんはどこか楽しそうにも見えるので、それが、悪い方向への展開でないことは想像できるけれど……
「それはね……」
口元目元に笑みを預けたまま、説明しようとしてくれた前崎さんだったけれど、ちょうど廊下から夕食の配膳が始まる音が聞こえてきて、話が止まってしまった。
「あら、もうそんな時間?」
扉口を見やり、小首を傾げる前崎さん。
「いけないわね、夫の話となると、すっかり時間を忘れちゃうわ。岸里さん、こんな時間まで付き合わせちゃってごめんなさい」
照れたように、ちょっと肩をすくめて。
そんな仕草が、可愛らしく見えた。
とてもじゃないけど、余命宣告を受けてる入院患者さんには思えないのだ。
けれどれっきとした患者さん、つまりは病人なわけで、食事に関してもしっかりした管理下に置かれるべき人なのである。
私は、前崎さんのご主人の話が気になってしょうがなかったが、今日のところは、ひとまず、ロマンチックなのろけ話は小休止となることに異論はなかった。
「とても楽しかったですよ。続きが早く聞きたいくらいです」
もうすっかり暗くなってしまった窓辺から食事用のテーブルを移動させつつ、私はさりげなくアピールしてみせた。
話の続きを聞かせてほしいと。
前崎さんにもその意図は伝わったみたいだった。
「それじゃ、岸里さんの都合のいい時で構わないから、ここにいらして?」
嬉しそうに、この部屋へのパスポートをくれたのである。
「いいんですか?それなら、早速明日来ちゃいますよ?」
冗談口調に本気を織り込んで告げると、前崎さんからは「喜んでお迎えするわ」と、大らかな了承が返ってきたのだった。
結局、翌日は外での研修会があったので、それが終わってから夜の面会時間に訪問する約束を交わし、私は前崎さんの部屋を退出した。
病院を出る頃には、早く明日の夜にならないかなと願うほどに、私は、前崎さんの思い出話の行方が気になって気になって仕方なかった………




