ロマンチストであること
彼は最後に言った。
『ありがとう』と。
そしてわたしが彼のその姿を見たのは、その夜が最後だった―――――
※※※※※
私が彼女にはじめて会ったとき、彼女はもう、余命宣告を受けていた。
「わたし、あと一年もてばラッキーなんですって」
ふふっと笑う彼女は、この病院で私が最初に担当した患者さんだった。
お名前は、前崎 千代さん。
入院中の患者さんとは思えないほど朗らかで、物腰のやわらかな、上品な女の人だ。
穏やかな優しい笑顔がトレードマークのようで、それは、夜眠る前の安息のホットミルクのようだと、私は第一印象でそう感じた。
数年前にご主人に先立たれ、お子さんもなく、お一人で暮らされていたらしい。
そのせいかどうか定かではないが、病気の発見が遅れ、診断がついたときにはもうどうしようもなかったそうだ。
私が担当についたご挨拶をさせていただいたとき、もう余命宣告からは半年ほどが経過していた。
それを思い出した前崎さんは、
「あらやだ、余命一年と言われてからもう半年経ってるのだから、今の時点では余命半年よね。わたしったら、ボケちゃってるわね」
クスクス笑う前崎さんに、私はどんな表情で返したらいいのかが分からなかった。
看護師の資格を取得してからずっとクリニック勤務だったので、命に関わる患者さんを受け持ったことがなかったからだ。
こうするべき、ああするべき…そんなマニュアルごとは学んでいたが、いざ面と向かっての会話となると、人の生き死に関する会話の正解なんて存在しないのだと肌で感じていた。
特にこの前崎さんという女性は、自分の死期が迫っているというのに、とても明るい振る舞いをして、毎日楽しげで、気構えていたこちらが拍子抜けしてしまうような人だったので、余計にどう接したら良いのかが掴めなかったのである。
私は「いえ、そんなことは……」と曖昧に返事しながら、輸液ポンプの流量を確認した。
すると、唐突に前崎さんが尋ねてきたのだ。
「ところで岸里さん、あなたは自分をロマンチストだと思う?それとも、現実主義な方かしら?」
「え……?」
「だから、岸里さんはロマンチックな話を信じられるタイプ?」
私が前崎さんへの接し方に戸惑ってしまったので、おそらく気を遣って話題を変えてくれたのだろうが、その話題もまた、掴みどころのないものだった。
「ええと………たぶん、ロマンチックな方、だとは思いますけど……」
前崎さんの求める回答がどちらなのか想像もつかず、私はただ正直に述べるしかなかった。
けれどどうやらそれが正解だったようで、前崎さんはパッと、満開の笑顔を、真っ白な清潔が過ぎるベッドの上で咲かせたのだった。
「そうなの?それはよかったわ!」
私はその質問の意図はまったくもって分からなかったが、前崎さんの機嫌を損ねることにはならなかったようなので、ひとまずホッとした。
重い病気を抱える患者さんの場合、ちょっとした機嫌の変化でも容態が左右されてしまうからだ。
「新しい担当さんがロマンチストでよかった」
嬉しそうに言う前崎さんに、私は「前任の方は違ったんですか?」と訊いた。
「そうなのよ。前の看護師さんも、前の前の看護師さんも現実主義の人だったの。わたしの好きな映画や小説の話をしても、『そんなの所詮は物語の中だけのことですよ』なんて言うものだから、全然おしゃべりが楽しくなかったのよ?」
唇を尖らせる前崎さん。
でもそのすぐあとに、「いけない。ここだけの話にしておいてね?」と肩をすくめた。
私は前崎さんの前担当看護師を思い浮かべてみた。……確かに、二人とも、感受性が豊かなタイプではなさそうな印象だ。もちろんそれが悪いわけではないけれど。
私はこの病院に最近来たばかりで全職員を把握してるわけではないが、全体的な雰囲気として、ここの職員はどちらかというときっちりした人が多い感じがした。まあ、言い方をほんの少し変えれば、きつい性格とも言えるのは否定しない。
当然、ここに来たばかりの私がそんなことを口にできるわけもなく、私は「そうなんですか?」なんて、当たり障りのない相槌を選んだ。
けれど前崎さんは私の無主張な相槌を華麗に見送り、「これから毎日楽しくなるわねえ」と、まるで遠足のお知らせプリントを配られた小学生のようなワクワク顔で、「よろしくね、岸里さん」と言ったのだった。
そしてそれが何のことを指していたのかは、すぐに明らかになるのだった。




