第六章 決行 その6
フェルトの草履を履き、家を飛び出した。星一つない空が広がっている。円タクの警笛が近くで、また遠くで響き、頬を切るような冷たい風が吹いていた。中折れ帽子のひさしに手をやって被り直し、私は一歩一歩、噛みしめるように駒本小学校へと向かった。流れる自動車の群れも気にならない。無心のまま、ただひたすら前へ前へと突き進んでいった。途中で古内に会ったような気もするが、それすら、ぼんやりとした夢のような感覚だった。古内も、もう遠い過去の人だった。
やがて私は、小学校に辿り着いた。何やら騒がしい。
「井上閣下は、まだお見えになりません。」
「もう間もなく来るでしょう。」
関係者の声だった。それを聞いて、遅れないでよかったと安堵した。ここで私は、帰りを狙うべきか、行きを狙うべきか思案した。以前調査したときのように、帰りは大勢の人によって騒ぎとなるかもしれない。そうなれば、近付くのも容易なこととなり、必ず、しとめることができるだろう。うまくいけば、誰がやったか分からずに済むかもしれない。
だが、その状況だと、もまれた拍子で弾が外れ、部外者に当たらないとも限らない。そんなことになったなら、我々の日頃の精神に反することになる。やはり安全な行きを狙うことにした。
腹は決まった。私は自動車が止まると思われる通用門に回った。うまい具合に、ちょっとした窪みがある。街路樹が街灯を遮り、ほの暗い陰を作っている。
あくまで商人に見せかけるため、隣の文房具店で懐紙を購入し、懐を膨らませると、暗がりの塀に寄りかかり、街路樹の葉陰に体を隠した。眼をつぶり、静かに下っ腹に力を入れ、心を落ち着かせながら、そのときを待った。
突然、藤井さんの顔が浮かんできた。
「藤井さんっ。」
叫んだつもりだったが、声にはならなかった。藤井さんが、にこっと笑って、すっと消えた。そのとたん、眼前が眩いほど明るくなった。車のライトだった。
一九三二年(昭和七年)二月九日午後七時半過ぎ、肌寒い曇天の夜。一台の黒塗り高級車が、エンジン音も軽やかに入ってきて、静かに止まった。ルームランプが三人の人影を浮き上がらせる。車の後部ドアが開かれると、井上準之助を中に挟んで、三人が降りてきた。
念のため、忍ばせていた紙片のナンバーと自動車のナンバーを見比べた。ぴったり符合する。
三人は、そのまま横に並び、通用門に向かっていく。四、五人の供と思われる人々が先を歩いているが、後ろは、がら空きだ。
私は懐に右手を入れ、ピストルの安全錠を外した。三人の背後に迫る。というよりも、吸いつけられたといった方が正しいかもしれない。
井上準之助が通用門に差しかかった。私は井上の背後に身を擦り付けるようにして近寄り、懐から、拳銃を握った右手を出した。右腰に押し当て、「南無妙法蓮華経」と心で唱えながら、引き金に指をかける。ぐっと引き締めた瞬間、銃口から、辺りを照らすほどの鮮烈な火が噴きあがった。三発つづけざまに放つ。井上が斜めに傾いていく。成功を確信した瞬間、私の頭に重い衝撃が走った。
気が付けば、私は四つん這いにさせられ、群衆から殴られ、蹴り飛ばされていた。目の前にピストルが転がっていた。必死になって取ろうとするが、手が届かない。焦れば焦るほど、届かなかった。そのうち、誰かの非情な手が伸びて、ピストルは私の視界から消えた。それと同時に、ちらほらと舞う白いものが目に飛び込んできた。雪だった。
見上げれば、円タクのライトに照らされ、一つ一つが輝いている。幻想でも見ているような気分に陥ったとき、喧騒の中に静寂が訪れ、私の意識は遠のいていった。