第二章 護国堂 その11
一九三〇年(昭和五年)七月下旬、水戸である事件が起こった。ことの起こりは、鈴木文次郎水戸市長が発起人となった、『山口楼』での納涼ダンスパーティーだった。開催を発表した際の規約に『学生および未成年者は入場を禁ず』の文句があり、これに『一洗会』が食いついたのだ。
政界や財界の浄化を目的とする『一洗会』は、学生や未成年者の入場禁止とは、主催者が風紀紊乱を承知の上で開催することに他ならないと受け取り、公職にある市長が、かかる淫らな会の発起人になるとは、実にけしからんと、市長弾劾運動を起こそうということになった。
早速、護国堂の日召先生のもとに『一洗会』の面々が集まり、市長弾劾と辞職勧告を決議。しかし、運動をどう展開したらよいのか、素人集団ゆえに埒があかない。そこで先生の提案で、『国民党』の鈴木善一氏を招くことになった。
翌日、鈴木氏が東京からやってきた。二十八、九歳の肥満短躯。見た感じは正直そうな人で、ひょうきんなところもあった。この鈴木氏のもとで決議勧告文案が作成され、満場一致で可決採択。市長に面会し、決議文を提出した。
この動きに主催者側は慌てふためいた。これより前、東京の帝国ホテルで、社会の堕落に憤慨した一青年が、ダンスホールに日本刀を持って踊り込み、剣舞をひとさし舞うという事件があったため、主催者側は、あちこちに陳弁せざるをえなくなった。また一方で、『一洗会』の切り崩し工作も始めた。
主催者側だった水浜電車会社の竹内権兵衛社長が、護国堂および記念館の管理人である小幡源之助さんを通じて、日召先生に運動中止を求めてきたのだ。もちろん、先生が取り合うことはなかった。
この事件で、『一洗会』の名は天下に知れ渡ることになった。『一洗会』は鈴木善一氏の協力を大いに感謝し、鈴木氏もまた、水戸に多くの同志を得たことを喜んだ。
鈴木氏は茨城県の出身で、故郷、特に勤皇発祥の地である水戸に『国民党』を結成したいと考えていたようだ。事件のあとも護国堂に残り、人心掌握に躍起となっていた。
しかし、『一洗会』の会員たちは、あまり乗り気ではなかった。『国民党』の運動方針が過激すぎるなどの意見も出たためだ。結局、一人の賛同者も得られず、鈴木氏は東京に去ることとなった。こうして、『国民党』とは別路線を歩むことを明確に打ち出した『一洗会』だったが、ダンスパーティー事件により警察に目をつけられ、その後は弾圧に怯えて有名無実化してしまった。