キノコの巣
その後、何度か頭にキノコを生やした冬虫夏草アリに遭遇したものの、一度も襲われることはなかった。
二階堂は胃の入り口にキリキリした痛みを覚えつつも、森を歩いた。
「あれか……もはやキノコの巣だな」
二階堂が見上げる先、霧の奥深くから、ようやく目的地が姿を現した。
ぎゅうぎゅうに詰まったキノコが、まるで砦のように鎮座している。多種多様なキノコが雑多に集まって作り出すその姿は、ある種の風格を伴った造形美を放っていた。
――というか、ちょっと美味しそう。ナメコ味噌汁食べたいな……。
そして、そのキノコの巣の周囲に徘徊するのは、多くの冬虫夏草アリ。
「これは……近づけないぞ」
『ドローンの飛行音で誘ってみよう。カオルは少し下がっていてくれ』
ロンロンが言い終わるやいなや、上空からドローンが降下してくる。するとそのホバリング音が一帯に大きく響いたが、アリたちはドローンに反応する素振りを見せなかった。
ドローンはしばらくその高度で右へ左へと平行移動を繰り返したが、それでもアリは見向きもしなかった。
『だめッスねぇ』
『逆に言えば、カオルがあの中を歩いて行っても平気なのではないか』
『たぶん、大丈夫ッスね』
「たぶんって……おいおい……あの中に突っ込めってか?」
二階堂の視線の先には十匹以上の巨大アリがウロウロ。対抗手段も無く進むには、些か酷な光景だった。
『大丈夫ッス。元々巨いなる一族は人間に敵対的じゃねーッスよ。おじさまは特に、吻合環を持っているッスから、それを見せれば一発ッス』
「指環は宇宙服の下で見えないし、あいつらの気が狂れてないっていう証拠は?」
『うーん……まぁ何とかなるっしょ。ははっ』
『カオル、これまでのアリとの遭遇から考えても、無闇に手を出さなければ平気だ。ただし明らかにアリの密度が変わったことから、あのキノコの巣を守っている可能性もある。君の判断に任せる。今日のところは様子見として、後日やり直しでもいいだろう』
「また、今日の行程を繰り返せと」
エレベータからここまで四時間ほどかかった。往復だと八時間かかる予定だ。
次回は道のりが分かっているから楽になるのか? いいや、それはない。ワンミスで死ぬという緊張が緩むわけがないし、仮に慣れて気が楽になったならば、それは過信によるものだから、もっと危険だと言える。
この死のトレッキングを二度、三度と繰り返すのは、ちょっとアラフォーの精神では耐えられそうにない。
「――いくか」
二階堂はゴクリと喉を鳴らして歩み出した。
ガサリ。ガサリ。
二階堂の足音と、アリの足音だけが森に響いた。
アリどもの足の隙間を縫って歩く。
二階堂が襲われる気配は無い。
途中、アリの触角でヘルメットを撫でられるという事件があったものの、しかし、それだけだった。
二階堂は冷や汗で背中をびっしょりにしつつも、キノコの巣に辿り着いた。『ひえぇ……』という、アノマリアのかすれた悲鳴がマイク越しに聞こえてくる。
「――ここから、どうする?」
『黒水晶があるとすれば、そのキノコ群の内部だろう。そこから右に90度回り込んだところにカオルが入り込めそうな隙間があるから、確認してみてくれ。ああ、あとキノコには気をつけてくれ。油断するなよ』
「ああ。このキノコは見るからに怪しいからな」
二階堂は目の前のキノコの壁を見上げながら言った。
『エリンギっぽいキノコには特に注意だ。唐突に歩き出したりするぞ』
「嘘だろ……まぁでも、キノコなら、たいして強くはなさそうだけどな」
『いや、エリンギだと思って甘く見ていると、スローなモーションから繰り出される鉄拳で五、六メートルは吹っ飛ばされる。カオルの脆弱な肉体だと即死するぞ』
「……」
どうせゲームの話だろ、と一笑に付すところだが、そんないつものロンロンの世迷い言を笑い飛ばせないほどに、ここは得体の知れない雰囲気が醸された空間でもあった。
二階堂は右へ進んだ。キノコは弾力性があり、エリンギを指で押しているような感覚に近かった。
ロンロンの言うとおり、そこには二階堂が入り込めそうな狭い隙間があった。奥は暗かったが、ナイトヴィジョンが彼の視界を補助してくれた。二階堂は崖の隙間に身体を滑り込ませるように、横向きになってキノコの巣に侵入した。
エノキダケのような細いキノコの簾をくぐり、ブナシメジの藪を掻き分けて奥へ、奥へ。フクロタケのような丸キノコを踏むと胞子が煙となって視界を奪った。
途中ソニックセイバーソーを使ってキノコを切断して強引に道を作る。キノコの断面からすごい勢いで水が飛び散ってびっくりしていると、ロンロンの「キノコは質量の八割がた水分だ」というありがたい蘊蓄が聞こえてきた。
そして、二階堂が力を込めてエリンギの隙間を押し広げた時、唐突に目の前にぽっかりと広めの空洞が現れた。
その中心に、それはあった。
大きさは一升瓶ほど。黒い、綺麗な柱状結晶が地面から顔を出して立っており、小さな稲妻をパリパリと地面に零していた。この空間は、そんな結晶が散らす火花で青白く明滅していた。
『あった! それは間違いなく黒水晶ッスよ。しかもでけぇ‼』
アノマリアの少し昂ぶった声が耳に飛び込んできた。二階堂は耳の痛みに顔を引きつらせながら、黒水晶に近づいていく。
「これか……」
『カオル、先にテスタを当ててみてくれ。いきなり手で持つと危ない』
二階堂は腰からテスタのプローブを伸ばし、適当に黒水晶にかざしてみる。
『電圧も電流も先日の電気石の倍以上だ。わざわざ割らなくても、その状態で置いておけばビヨンド号を充電できるぞ』
「おお……じゃあ早速いただくとするか」
そう言って二階堂は腰にぶら下がったマジックハンドを手に持った。彼が意思を込めると、それはカシャカシャと音を立てて、モップくらいの長さに伸びた。
そっと、その先を黒水晶に近づけていく。絶縁体でできたマジックハンドだ。まず大丈夫なはずだが、それでも緊張する。
カチャリとマジックハンドが黒水晶を掴んだ。二階堂が力を込めると、それは地面から抜けた。火花が収まり、空洞が一瞬だけ闇黒に飲まれる。しかしその直後に地面の蛍石が光り始めた。
『む。まて、カオル』
「どうした?」
二階堂が黒水晶を持ち上げた姿勢で止まった。
『外のアリたちが騒がしくなり始めた』
「え?」
『あ、あー……やべーッス。アリがわさわさとキノコの巣に取り付き始めたッス』
アノマリアの声が終わるやいなや、周囲のキノコがズシリと揺れ始めた。
「ちょ、まじか⁉」
『カオル、一度その宝石を元の位置に戻してみてくれないか』
二階堂が素直に従って黒水晶を元の位置に置いた。周囲のキノコの振動も、同時に収まった。再び空洞内部が火花の光で照らされる。
『お、アリが散っていくッス』
『やはりな。お宝を取ると急に敵対的になるパターンだ。古典的なレトロゲームのトラップだが、見事にやられたな』
「勘弁してくれ……」
二階堂は深く溜息をついた。
『あのアリの頭に生えた冬虫夏草は、このキノコ群の一部の可能性がある。まさかとは思うが、このキノコの巣の核となっている黒水晶を、寄生したアリたちに守らせているのかも知れないな』
『ロンちゃん、どうやって黒水晶の有無を関知しているかが、きっとポイントっすよ』
『ふむ。確かに不思議ではあるな』
「ドローンで先に回収しちまうか?」
『それだとカオルが帰ってこられない可能性がある。アノマリアと相談するから、カオルは少し休憩だ。幸い、その空洞内部の空気は清浄だ。ヘルメットを取っても平気だから琥珀を食べて体力の回復に努めてくれ』
プツッ――。
二階堂に届く会話は途絶えた。
突如として訪れた耳を圧する静寂。
「キノコの胞子が凄く嫌なんだけど……」
二階堂はそう独りごちて、ヘルメットを取った。
空洞の空気は不思議と清浄な匂いがした。すぐに二階堂は、それが薄い塩素臭であることに気が付いた。
「本当に息しても大丈夫なんだろうな……?」
身体はあまり疲れていなかった。アノマリアがかけてくれた、なんとかという術のおかげだろう。
二階堂は服の中から琥珀色の欠片を取り出し、口に放り込んだ。
琥珀だ。噛み砕くとすぐに芳醇なメープルシロップのような香りと、心地よい甘みが脳に染み込んできた。アノマリア曰く、琥珀は完全栄養食らしい。これだけ食べていれば生きていられるのだとか。
二階堂は、ちょうど椅子のような形になっていたマイタケに腰をかけて、空洞の中央で稲妻を零し続ける宝石を見た。
ダーク・クリスタルのお手本といった形。その側面から地面にパチパチと伸びる青白い線の数々。表面でプロミネンスのようにループする電流。そんなアート作品として完成された演出を見せる黒水晶。
二階堂はなにげなく、首元からネックレスを取り出して見た。皇紫玉。
それを眺めながら、二階堂はつくづく不思議だと思った。
――彼女の使う術は何だ。宇宙広しといえど、傷を治せる超能力なんてない。
――琥珀は食べられない。
――水晶は電気を発生させない。宝石は割っても何も起きない。
――病気を祓うパワーストーンなんて、迷信だ。
――外骨格生物には大きさの上限がある。あんな大きなアリは存在し得ない。
――キノコ大きすぎ。
そんな二階堂の常識を悉くひっくり返してくる、この未知なる大地。
「どこか遠くの彼方へ、か……。だからって言ったって、どえらい遠いところまで来たもんだ……」
二階堂はそんな呟きを残して深呼吸すると、黒水晶の光を眺めながら水を飲んで、小さく笑った。




