森へ
未だ蛍石の光が残る地上。
上空の闇黒に黄色が染み込み始め、木々の輪郭がうっすらと見えていた。そんな早朝。
薄暗い森を、軽装なアノマリアと、宇宙服に身を包んだ二階堂が歩く。
彼らの歩みに合わせて、ザザザザ……と何かが左右の闇の澱に逃げ込んでいった。姿ははっきり見えなかったが、二階堂はなんとなくフナムシを連想した。
『こいつらは、しょぼいイグズドっす。ここが大壁に近いせいで、夜にちょっと染み出してきているッスね』
「アノマリア、イグズドって、つまり何なんだ?」
宇宙服を着ている二階堂には、アノマリアの声は直接聞こえない。お互い、首に付けたチョーカー経由で会話している。
宇宙服の下、二階堂の首にはびっくりするほど鮮やかな紫色の石をあしらったネックレスが掛かっていた。皇紫玉のネックレスだ。
アノマリアが言うには、森に漂う毒ガスを無効化できるほどの解毒力を持つ橄欖石という宝石もあるそうなのだが、恐ろしく希少でまず見つからないということだ。そこでアノマリアは首に付けていた皇紫玉のネックレスを、気休めだがと言って貸してくれた。皇紫玉には病気を祓う力があるそうだ。
『イグズドは〈染み出す者ども〉という意味ッス。自分もその場面は見たことないんスけどね、大壁の外で闇黒から染み出してくるらしいッスよ。この辺りも、近いんで影響があるみたいッス』
「もうひとつ、種類あったよな。なんだっけ」
『アブザードっすね。〈泡と化した者ども〉という意味ッス。イグズドとアブザードを合わせて〈虚空の住民ども〉――〈ヴォイデンス〉って呼んでいるッスよ。どっちも生きとし生けるものの敵ッス。前にも言ったッスけど、イグズドには触らないようにするんス――よっ!』
そう言ってアノマリアは足元の何かを蹴った。何を蹴ったのか分からなかったが、多分イグズドとかいう怪物だろう。
『――にしても、このジーンズってズボン。穴が開いてるのは、おじさまの物持ちが良いからだと思ったんスけど、初めからこういうものだっていうのは、たまげたッスよ』
「田舎のおばあちゃんみたいなことを……ダメージ加工っていうファッションだ」
『へんなの、ッス』
そう言って太もも辺りのほつれ穴を指でぐいぐいしたアノマリア――穴が無駄に広がるからやめて欲しいのだが。
「……それなりにビンテージだぞ。文句あるなら返せ」
そう。それなりにいいやつなのだ。あんまり雑にしないで欲しい。
『嫌。無理に脱がせたら犯罪者マーク付けるッスよ』
――なんなんだ犯罪者マークって。
ブルリ。アラフォーは社会的に殺されそうな響きに弱い。
二人が立ち止まった場所は崖を下りるエレベータの前だ。空全体が黄色く色づき始めているが、朝陽は見えない。代わりに遠くの螺鈿柱が、薄闇の中でカラフルなイルミネーションをまき散らしていた。
『それじゃ、もうひとつお守りをあげるッス』
そう言ってアノマリアが二階堂の胸に手を当てると、地面から七色の粒子が彼の身体に纏わり付いていった。
「……螺鈿術ってやつか」
『そそ。運動不足のおじさまのために〈レイディアント・ヴィガー〉をかけてあげたッス。スタミナが上がるッスよ。筋力が上がったりはしないんスけど、走っても疲れにくくなるッス。半日くらいは効果あるはずッスからね』
「ああ、そりゃいいや。丸一日トレッキングはこの歳にはこたえる。ありがとう」
二階堂が笑って見せると、アノマリアも、にこーっとした。
『心配しなくても大丈夫ッスよ。ちゃんとベッドの上でも使ってあげるッスからね。へへへ……』
「そこは心配していない。じゃ、行ってくる。ロンロン、後は頼むぞ」
『ラジャー』
遅れてポイーンという音が聞こえてきた。ロンロンは、一丁前に雰囲気に遠慮できるらしかった。
二階堂はひらひら手を振るアノマリアに見送られ、エレベータで崖を下りた。相変わらず不安定なエレベータだったが、今日は風がなく、揺れが少なかった。
風だけではない。全てが寝静まっているよう。
嵐の前の静けさともいうべき沈静。
二階堂は蟻塚城へ続く橋の袂に降り立つと、そのまま隣に設置された別のエレベータに乗った。
昨日の内に、森に下りるための第二のエレベータを、この場所に設置していたのだ。ワイヤーという資材は貴重なものなので、ひとつ目のエレベータを無駄にしないこの位置を選んだ。
二機目のエレベータで森に下りていく。
服装は宇宙服。全身にフィットするタイプのもので、頭部だけ金魚鉢のタイプだ。
ロンロンが何故か潜水服タイプのゴツい頭部を推してきたのだが、あれはデブリの多い宇宙空間用だ。重力下では重くてしょうがない。二階堂がそう言って一蹴すると、ロンロンは「ビッグダディ……」とよく分からないことを言っていた。
そんな事を思い出していると、話題のロンロンの声が聞こえてきた。
『この感じ。これぞ死にゲーっぽいな、カオル』
「そうなんだ」
『新しいエリアに行けるようになると、大体こんな昇降機が使えるようになる』
「そうなんだ」
『降りる途中の壁に横穴があったりするから目を凝らしておくんだぞ、カオル。あと、降りたエレベータの下に隠し部屋があるのもベタだから、留意しておけ』
「そうなんだ」
ペラペラと饒舌なロンロンに、興味なさそうな二階堂。
今日の二階堂は、ガウスライフルの代わりに空気ボンベを背負っている。ライフルは置いてきた。どうせ使えないからだ。なにせ外はVXガス。攻撃が掠った瞬間に死ぬ。
とはいえ丸腰というわけにもいかず、ソニックセイバーソーと、あとは一応ネイルガンを腰に差している。ネイルガンは本来釘を打つ工具なのだが、射出圧が凄いので、空気に向かって打てば普通に釘を撃ち出せるのだ。
だが所詮は工具。ミノタウロスとかトロールが出てきたら気休めにもならない。
ところが敵の遭遇はないと、アノマリアは言い切った。もしこのガスの中で活動できる敵がいたら、人類は滅ぶとまで言った。それほどまでに、この毒ガスは人類にとって重要な防衛戦なのだという。
『カオル、実は内心、黒水晶を取ってきて欲しくて黙っていたのだが』
「どうした?」
エレベーターは森のすぐ上に差し掛かっていた。この高度まで降りると、森の深さが如実に感じられる。手付かずの森が発する、静かな敵意というものが、宇宙服越しにひしひしと伝わってきた。
『この森はカオルが考えている以上に難易度が高い。まず、転んだら終わりだ。宇宙服はさほど強い作りではない。鋭い枝を踏んでもダメだ。特に靴よりもズボンの裾に注意しろ。転びかけて、うっかり木の幹を掴んでも危ない。手に棘が刺さってもガスの侵入経路になり得る。とにかく、何も触るな。どこにも引っかけるな』
二階堂はエレベーターの籠が森に飲み込まれたのと同時に肩に重みを感じた。さぁっと脳から血が引いていく冷たい錯覚に襲われる。
『万が一にも敵と出会ったならば、カオルはそんな環境を全力で走って逃げなければならない。戦うことは考えるなよ。何をどう足掻いても戦えば死ぬ。往復を考えると、空気ボンベ残量にもあまり余裕はないから、時間をかけすぎないように。やはり、言葉にしてみると、初見クリアは厳しい難易度だ。ほとんど無理ゲーと言っていい。消極的だったにせよ、君を死地に送り込んだ私を許してくれ』
「お前、俺を殺したいのか、生かしたいのか、どっちなんだよ……」
『どうした、カオル。死にたがっていただろう? ここなら失敗すれば間違いなく綺麗に死ねるぞ。いや、少し時間をかけて苦しむし、吐瀉物にまみれるなど、いろいろな穴から、いろいろなものが出るかも知れないから、綺麗ではなかったな』
「俺は安楽死を望んでいたんだよ、痛いのも苦しいのも怖いのも嫌なんだって!」
小さな頭痛を感じるのは急激な高度変化によるものか、はたまた。
ゴトンと、エレベーターが地上に着いた。
『私はカオルと一緒に活動できる時間が延びることを切望しているが、それでも多少の無理をする程度にとどめておけ。これ以上は危険だと思ったら、逃げる前に、もうちょっとだけ進めないか考えてみてくれても大丈夫だ。サポートする』
「期待が滲み出てる忠告をありがとう……」
『やっほー。カオルおじさま、聞こえてるー?』
「おうよ……」
アノマリアはビヨンド号で待機だ。そこからロンロンと一緒に指示を出す手筈になっている。
『おおお……これはすげーッス! ビヨンド号にいながら、離れた場所にいるおじさまと同じものが見られるんッスね? しかも上からも、おじさまが見えてるじゃないッスか。自分はこうして快適にビヨンド号でお茶を飲みながら、危険な森を征くおじさまをサポートできる……なんか……なんか、めっちゃテンション上がるッス‼ なんなんスかね、この高揚感はっ⁉』
『それが支配者の見る光景だ、アノマリア』
ドローンが直掩機として二階堂の頭上についていた。そこからの映像を含めて、ビヨンド号から観察しているのだろう。
二階堂の目の前には鬱々とした原生林が広がっている。下草は少ないが、ガスが濃い。視界は十メートルもない。木の根がゴツゴツと地面から頭を出しているのが印象的だった。これは相当慎重に行かなくては危ない。
『カオル、ドローンによるレーダー探査はアクティブだ。ソナーもパッシブで稼働している。警戒は私に任せて、カオルはとにかく安全に進むことを考えるんだ。マップに地形を表示した。いつでもいいぞ』
二階堂の視界に色つきでワイヤーフレームの地形が重なった。これならば深い霧の中でも地面の凹凸や倒木は丸見えだ。視界の端には動体センサーの表示もある。
上空のドローンで地形と動くものをマップし、二階堂の持つソナーをパッシブ状態にして周囲の音源を探るという二重の早期警戒モードで進む計画だ。
――しかし、たとえロンロンがしっかり見てくれているとはいえ、だ。
静謐な森に漂う、ひりつく緊張感が二階堂の一歩をためらわせた。未知の怪物が跋扈する未開の地で、武器と視界を奪われた上でワンミスで死ぬという、死にゲーという名のリアルを、二階堂は味わっていた。
『これが地形なんスね、ロンちゃん? おじさま、そしたらそこからまっすぐ行くッスよ。しばらく行くと大きな窪地があるから、それを迂回して進むッス』
アノマリアの底抜けに明るい声が、思いのほか耳に心地よかった。
「――それじゃ、二人ともよろしく頼む」
二階堂は二人の声に背中を押され、エレベータから外に出た。




