割れた瞳
そこからアノマリアは、エントリオがまずは知るべきだという、最低限のことを語ってくれた。
この螺鈿大地には星が降る。その星が大地に落ちると、それは大地に飲み込まれるか、あるいはその場に凄まじい力を宿した道具となって残る。それを星遺物と呼ぶ。
一方、星が偶然〈器の実〉と呼ばれる赤い実に落ちると、その実が育ち、エントリオが生まれる。エントリオとは、正しくは〈星の旅人〉という意味らしい。
つまり彼女の言うところによると、二階堂達は星で、赤い実から生まれたことになる。結局意味は、よく分からなかった。
エントリオは、そのままだと自分が誰かも分からない状態で、まるで幽鬼のように、ぼんやりと辺りを徘徊するだけの存在らしい。アノマリアが持つ吻合環と呼ばれる奇跡の指環をつけて初めて、自分が何者かが定まるのだそうだ。
「吻合環にはママの一部が入っているッス」
アノマリアが誇らしげに言った言葉の意味は分からなかった。彼女の言うことにいちいち質問していると話が進まないので、二階堂は流した。ロンロンにも質問は最小限にするよう言い含めてある。
螺鈿大地には〈茨の大壁〉に囲われた領域がある。その内部が桃源郷と呼ばれ、人間はその壁の内側でしか生きられないらしい。ここがそうだ。今、二階堂達はザナドゥの内側。その端。茨の大壁付近にいる。
ザナドゥの中心には〈螺鈿柱〉とよばれる太くて高い柱があり、その周囲に、もっとも大きな人間の街がある。ここから遠くに見える、あの軌道エレベーターみたいな柱がエヴァイアだそうだ。
一端そこで話が途切れると、次は当然、二階堂達の矢継ぎ早な質問がアノマリアに浴びせ掛けられた。
「――こりゃあ、長い講座になりそうッスね」
そう言ってアノマリアは困った顔になった。
「カオル、アノマリア。食事にしよう。そこでゆっくり話すといい。カオルはいい加減服を替えた方がいい。血まみれだぞ。シャワーはまだ無理だがタオルならば準備できる」
「ああ、分かった」と言って二階堂は欠伸をしながら立ち上がった。
彼が奥の洗面台に向かうと、後ろからひょこひょことアノマリアもついてくる。
「――どうした?」
「このビヨンド号っつー船は……めちゃくちゃおもしれーッス! 全部教えてもらおうと思って」
「教えてやるけど、俺、今から着替えるんだぞ?」
「構わねーッスよ。初心なネンネじゃあるめーし」
二階堂は洗面所に入ると、フレキスケルトンをパチパチと外した。チョーカーを取って、ウェアの上半身も脱ぐ。アノマリアがその度に指を差してこれは何、それは何と聞いてくる。まるで子供だ。
初めは律儀に答えていた二階堂だったが、早く食事にありつきたい彼は、ちょっと鬱陶しくなって、解説をロンロンにバトンタッチした。
鏡に映った自分の身体は、平均的な身体よりは肉付きも良く、アラフォーとはいえまだまだ引き締まっていたが、しかし所詮は衰えの見えた一般人。よくこの程度の肉体で昨日今日の地獄を乗り切れたものだと、自分でも感心し、同時に少し怖くなった。
――やっぱり、死にたくはないな。
強烈な死に晒されたことで、二階堂の生存本能が優勢に立ったのかも知れない。
タオルで血の跡と汚れを拭き取ってみると、肩に受けたはずの傷は見当たらなかった。傷痕ひとつ残っていない。一方で、頬には大きな傷痕が残っていた。昨日ミノタウロスに殴打された時に付いた傷だ。
その傷を手でさすっていると、いつの間にかアノマリアが隣で一緒に鏡を見ていた。手には歯ブラシが握られている――珍しいのかも知れないが、ブラシを指でザラザラするのはちょっとやめて欲しい。
「――頬の傷、どうしたんスか?」
「昨日、ミノタウロスにぶん殴られた傷だ」
「ああ、ミノちゃん……カオルおじさまが斃してくれたんスね? 外の〈防樹〉に斧が刺さってたんで、そうかなって思ってたッス。昨日もすげぇ音が聞こえてきたッスけど、あれッスね? ……さすが、おじさまっ!」
「逃げに逃げて、偶然斧が木に引っかかって、最後はたまたま死なない程度に殴られて……我ながらよく生きてたと思うような戦いっぷりだったよな? ロンロン」
ロンロンは答えなかったが、アノマリアはクスクスと笑っていた。
「――今日も、逃げに逃げまくってたッスよね? 上から見ていたッスよ。橋渡ってくるところも。トロちゃん相手にしている時も。すげー危なっかしい身のこなしだったッス。見てるこっちがハラハラしたッスよ」
そう言ってアノマリアは二階堂の頬にそっと手を置いた。彼女の身長は二階堂よりも低い。自然と身体は密着し、彼女が下から見上げる形となった。
「てっきりその傷。渋いオジサマ然として、かっこつけてるのかと思ってたッス」
「そんな、中二病的な……」
「多分、その殴られた時の傷、防樹の樹液かヴェッセル・フルーツの果汁で治ったッスね。防樹の樹液も、ヴェッセル・フルーツも、傷を癒す力があるッス。でも、治っても傷痕が残っちまうんスよ」
そう言ってアノマリアは二階堂の頬の傷をのぞき込み、指で撫でた。
「ワイルドなのも嫌いじゃないけど――」
アノマリアがそう言って目つきを鋭くすると、足元から七色の粒子が立ち上り、またあの時と同じくして、二階堂の身体にまとわり付いていく。
近くで見るアノマリアの顔。彼女の瞳はふたつに割れている。
重瞳。一見して不気味な瞳。しかしこの七色の光を映している時の彼女の瞳は、目が離せないほど神秘的だ。
「――おわり。綺麗に治すなら、やっぱこっちッス」
「これは?」
二階堂がアノマリアの目を見つめたまま聞いた。
「〈螺鈿術〉――〈ネイカー〉ッス。螺鈿大地の人間が唯一扱える魔法、魔術、そういった奇跡の類い。……あ、エントリオは別ッスよ。あいつらはそれぞれ独特な規格外の力を持っているッス。けど、一代限りなんスよね、あれ」
「そういえば、お礼を言ってなかった。あの時は傷を治してくれてありがとう。本当に助かった。後でロンロンに聞いたら、動脈が切れていて、かなり深刻な状態だったみたいだ。あのままだとビヨンド号に帰る前に失血死していた」
「いいってことッス。あのイグズドを仕留めてもらって、むしろ大もうけッスよ」
そう言ってアノマリアは身体を離した。空気がひんやり二階堂の腹を撫でた。
アノマリアが挑発的に表情を崩し、自分の目を指差してみせる。
「――それにしても、さっきからジロジロ見て。自分の目になんか付いているッスか?」
「ああ、いや――」
「ふふふ……分かってるッスよ。目が割れてるからッスね? これはね、〈虚骸〉――〈コーマ〉っていうッス。まぁ、一種の病気ッスね」
アノマリアは人差し指と親指で瞼を上下に開いて見せた。
「生まれつきなのか?」
「いんや。これは螺鈿大地の、生きとし生けるもの全てが患う可能性がある悪病ッスよ。あ、感染はしないんでご安心を。……自分の目は、本当は割れてないし、色も、もっと綺麗に透き通った碧だったんスよ?」
ふっと笑って視線を逸らしたアノマリア。
その横顔を見た二階堂は、この女の本当の瞳を見てみたいなと思った。
彼女は両手を頭の後ろに回して、つまらなそうに口を開く。
「あーあ。こんな目じゃなきゃ、おじさまをメロメロにできたんスけどね」
「いや、君は綺麗だよ」
二階堂は、言ってから総毛立つ思いに襲われた。
アノマリアはといえば、きょとんとして二階堂を見返していた。
「ふーん……カオルおじさまも、よく見ればなかなか男前じゃないッスか。……さっ、自分もディナーの前に身体くらいは拭くッスかね。ロンロン、自分にも拭くものもらえないッスか?」
「それでは先ほどの部屋に来てくれ、アノマリア。君の部屋を紹介しよう」
アノマリアはロンロンに誘われて洗面所から出て行った。
二階堂は鏡を見て、綺麗になった自分の頬を居心地悪そうにさすった。




