吻合環
『やったな、カオル』
「ああ、やったな……正直、ダメかと思った……」
二階堂はそう言って、自分の左肩を改めて見た。ジャケットとアンダーウェアが破けていたが、そこの奥にあるはずの傷は塞がっていた。しかし二階堂の左手は肩から流れ出た血で染まっていて、あの深い傷が幻でないことを物語っている。
アノマリアが、そんな二階堂の血に染まった左手を取った。
彼女はいつの間にか指環をひとつ、人差し指と親指でつまんでおり、それをおもむろに二階堂の左手薬指にスッ……と差し込んだ。
その指環がしっかりと指の付け根に収まった瞬間、ドクンと心臓が大きく打った。天地がひっくり返るような眩暈があった。
「うっ――」
「――どうッスか? 自分の声が聞こえるッスか?」
二階堂は目を丸くして息を飲んだ。指環をはめられた行為も、急にアノマリアの言葉が分かるようになったのも、まったく脳が追いつかなかった。
「いやぁー、はは。忘れてたッスよ。おたく、〈エントリオ〉っすね? 最近エントリオなんて見ねーから……。あっはっは、わりーわりーッス」
はにかんで、ばつが悪そうに頭を掻いたアノマリア。
――なにこれ?
「――あ……あぁ、いや……声は、分かるようになった」
「お! 自分もニカイドウの声が分かるッスよ。よしよし」
アノマリアは立ち上がってパンパンと服の裾を払った。彼女はふぅとひと息つくと「いやいや」と続ける。
「しっかし。あの〈イグズド〉を仕留めちまうとは、おたく凄まじい〈マスタリー〉持ちッスねぇ。その棒みたいのも、〈オーパーツ〉っすか?」
「……?」
アノマリアの言葉の大半が分からず、再びぽかんと言葉を失った二階堂。
「んー? ニカイドウはどこから、こんな端っこの〈ストロングホールド〉までわざわざ来たッスか? そもそも、〈吻合環〉まで無くしちまってるなんて、何があったッスか?」
「いや……すまん。アノマリア、君の言ってることが、これぽっちも分からん」
「はーん?」
片眉をつり上げ、怪訝な顔つきになったアノマリア。二人の会話が途切れたところで、ロンロンの声が届く。
『カオル、先ほどからどうした。まるでアノマリアと会話ができているようだが』
「……んああ? いや、まるでも何も、会話してるけど? ロンロンまで変なこと言い出すなよ、もう頭がこんがらがりそうだ」
「ニカイドウはさっきから誰と会話をしているんスか? 登ってきた時からあっちを見てロンロン。こっちを見てロンロン。しょっちゅうロンロン、ロンロン。何かの呪いッスかねぇ?」
「いや、そうじゃなくて……ちょ、ちょっとまて。ちょっとまって二人とも。俺の脳じゃ処理し切れん!」
『私にはアノマリアの声が依然として翻訳不能だぞ、カオル』
「二人って、もう一人はどこにいるッスかねー?」
「しゃああああああっと、ああああああああっぷ‼」
二階堂の絶叫が蟻塚城の空に響き渡った。
シンッとその場の空気が緊張した。
クーッ。
その空気を破ったのは、またしても二階堂の腹の音だった。
二階堂ががっくりと項垂れ、アノマリアは失笑した。
「――腹、減ってるッスね? 上にアンバーと水があるッス。悪いんスけど取ってきてもらえねーッスか? 自分、このとおり貧弱なもんで」
「上って、君が入ってた檻か?」
「そッス」
「あそこは君の、なんなんだ? あそこで何をしてた?」
「あそこは牢屋ッスね」
「なんで牢屋に?」
「ああ、いやいや。ぶち込まれてたわけじゃないんスよ? 自分で入ってたッス」
ひらひらと両手を振ったアノマリア。
「自分で……そりゃまた、どうして?」
「いろいろと安全なんスよ。ここは危ないところッスからね。強靱な〈アブザード〉がウロウロしてるッス。さらに大壁にも近いもんだから、〈イグズド〉も出るわけで。自分、ちょー強いニカイドウに守って欲しいッスよ」
「あそこが安全なのか……?」
牢を見上げた二階堂。
「そそ。でもまぁ、誰かさんが格子をぶった切っちまったから、もうあんまりッスけどね。自分、身体が細いんで、格子を切らなくても出入りできたんスよ」
「うー、それは……」
アノマリアの話に、二階堂が居たたまれない気持ちになる。
――ロンロンめ、なにが囚われの姫だ!
ビヨンド号に戻れば溶接機器がある。ある程度修復は可能だが、そんな事している時間もない。
「――そういえば、アンバーって言ったのか? アンバーって、あの琥珀か? 宝石の?」
「そッス」
「なんで琥珀を?」
「食べるッスよ」
「ええ……食うの?」
『琥珀は樹脂の化石だ。食べられないぞ、カオル』
ロンロンの声が聞こえた。
――ですよね。
「ニカイドウは琥珀も知らないッスか? どういうことッスかね?」
首をひねったアノマリアが、あっと声を漏らした。
「まさか、ニカイドウは処女エントリオだったッスか? だから吻合環を持ってなかったんスね……いや、でもそれなら、どうして自分の名前を言えたのか……?」
「しょ……俺は男だ。見りゃ分かるだろ」
「……へ、へ、へ。恥ずかしがることはないッスよ〜。ニカイドウの処女、自分がいただいちまったッスねぇ」
アノマリアは真面目な顔から急転、ゲヘヘとでも笑い出しそうな色を顔に浮かべて二階堂を覗き込んだ。どっと疲れが出てきた二階堂。
「言ってることが分からねぇ……」
二階堂はたっぷり息を吸ってから、太い息をゆっくり吐いた。
「――とにかく、ここは危険だ。アノマリア、他に必要な物はあるか? それと食料を持って俺の拠点に移動しよう」
「! お、お持ち帰りッスか⁉ ちょっと自分、年甲斐もなくドキドキしてしまうッスよ……こんな年増でも可愛がってくれるッスかね……?」
「年増って、お前まだ二十歳前後だろ? 今凄く混乱中だからさ、あんまり俺を揶揄わないでくれよ」
二階堂の目にはそう見えていた。
「ニカイドウはお世辞上手ッスね。やっぱり口説いてるッスか? 自分こう見えて千歳は超えているんスよ? あ、詳しい年齢は乙女の秘密ッス。そういうニカイドウはいくつなんすか。結構歳いってそうッスけどねぇ……二千くらいッスか?」
「千……なにを、馬鹿な」
二階堂は頭を振って続ける。
「俺は三十八歳だ。多分だが、君より年上だよ」
「……ニカイドウはエントリオだから、違うんだ」
アノマリアが二階堂の顔を眺めながら、ふーんと、しみじみ続ける。
「見た目はおじさんっぽいのに、年齢は若いんスね……じゃ、ま……おじさまって呼ぶッスよ」
「おじ、さま……」
喘ぐ二階堂に、アノマリアが一歩踏み出して下から彼の顔を覗き込む。
「よろしく、おじさまっ!」
ぱぁっと笑ったアノマリア。「おお……」と呻くしかない二階堂。
『カオル、横からすまない。あまりそこでじっとしていない方が良い。まだ距離があるが、別の異形の接近を確認した』
「そうだな……一度、船に戻るか。肉はどうする?」
『先ほどのウニの掃射に巻き込まれた別の異形の死体が、橋の袂に落ちているのがドローンから見えている。それを拾ってきてくれ。上からフックショットで橋まで一気に降りられるはずだ。今なら橋の正面は空いている』
「了解」
「んー……ニカイドウおじさまは、やっぱり誰かと会話してるッスよね? 聞くなと言われても、さすがにそれは、すっげー気になるッス。吻合環をつけていなかった弊害っすかねぇ? 頭大丈夫ッスか?」
不安げな色を浮かべたアノマリアが、自分の頭を指でトントンと突いて見せた。
「……ロンロン、スピーカーで喋ってくれ。このままだと俺が気狂いだと思われる――はい、ご挨拶」
パンッと手を叩いた二階堂。
「はじめまして、アノマリア。私がカオルの会話相手のロンロンだ」
声は二階堂の首から出た。眉間のしわを深めるアノマリア。
「……腹話術?」
「ち、違う」
二階堂は喉に巻かれたチョーカーを指で叩いて見せた。
「ロンロンは遠くの拠点にいて、これを通じて話をしてるんだ」
「ほー。でも、何言ってるのか分かんねぇッス」
「……なんで? ロンロンは?」
「カオル、先ほども言ったが、私にはアノマリアの言語が翻訳できない。当初から状況は変わっていない」
「たぶん――ッスけどね」
アノマリアが遠慮がちに小さく手を上げた。
「そのロンロンっていう人も、処女エントリオっすね。吻合環をつけてないんで、自分ら人間と会話ができねーッスよ。今から自分はそのロンロンが待つ場所に連れ込まれるわけッスよね? そしたら、そのロンロンにもひとつ吻合環を分けてあげるッス。そしたら会話できると思うッスから」
「さっきから、その処女エントリオってなんなんだ?」
二階堂の問いに、アノマリアは背筋を伸ばして偉そうに指を一本ぴんと立てて見せた。
「〈器の実〉――〈ヴェッセル・フルーツ〉に星が宿り、生まれてきた存在を〈旅人〉――〈エントリオ〉って呼ぶッス。特に生まれたては処女エントリオって言って、吻合環っていうこの指環をつけないと、自分の名前を思い出せないくらい曖昧な存在のまま、なんスよ」
アノマリアが次に手を開いて見せる。ごちゃぁ……と大量の指環が見えた。デザインはどれも異なるが、しかし全て碧く透き通った輝ける指環だった。
「……意味、分かんねぇ……」
「カオル。とにかく、今は彼女を連れて移動するんだ。続きはビヨンド号で調査しよう。ついに第一現地人発見だ。楽しみだな。未知の言語の翻訳というのは人工知能の華だ」
「いやいや。こんなところで二人も新しいエントリオに会えるなんて、楽しみッスねぇ。どんなオーパーツを持っていることやら」
――なんか同種の面倒臭いのが増えたかも……。
二階堂は小さく嘆息し、アノマリアから必要な物品を聞き出すと、もう一度塔を登り始めた。フックショットのロープが残っていたので、今度は簡単だった。
そして彼が塔の中程まで上った時、
「……あっ、これってパパ活成功ってやつッスかね? ……えへへっ」
というアノマリアの声が聞こえた。二階堂はなんだか強い脱力感に襲われ、手を滑らせかけた。




