たとえその身が蛙になろうとも
「たとえその身が蛞蝓になろうとも」のアレクシス視点での続編です。
単品でも読めるかもしれませんが、前作を読まれてからのほうがよりわかりやすいかと思います。
詳細な蛙描写があります。苦手な方はご注意ください。
馬の嘶きと、叫び声、そして大きく揺れた後に停止した馬車が何が起きたのかを物語っていた。
「様子を見てきます」
同乗していた従者の言葉に、私はただ頷くことしかできなかった。もしも動物かなにかだったら、叫び声は聞こえてこないはずだ。だけど誰かが叫び、ざわめきが起きている。それが意味しているところはひとつしかない。
しばらくして戻ってきた従者は、なんとも言えない顔をしていた。どこか疲れた空気をまとわせながら座席に腰かける。
「……どうだった」
「なんと報告すればいいのか……」
渋るような口振りに眉をひそめると、従者の顔が引きつった。自分の顔が他人に畏怖の念を与えることは知っている。この従者もだいぶ慣れたと思っていたのだが、どうやらまだ駄目だったようだ。
「……轢かれたのは、女性でした。おそらくは十代半ばぐらいの」
「……そうか」
馬に轢かれては無事ではいられないはずだ。しかもそれが年若い者ともなれば、たとえ一命を取り留めたとしても負った傷が将来に関わるだろう。
「生きては、いるのか?」
もしも死んでいるのであれば遺族に、生きているのであれば当人に詫びねばならない。
だというのに、どうにも従者の反応が芳しくない。視線をさまよわせ、口を開いてはなにも言わずに閉じる。それを何度か繰り返して、ようやく話しはじめた。
「……その、それが……」
「どうした」
「無傷でした。しかも、大事にはしないでほしいと、普通に立って、喋って、笑ってました」
「……は?」
「それから飛び出したのはこちらだから、謝らなくていいと、そうおっしゃっておりました」
「どういうことだ? 轢かれてはいなかったのか?」
「……いえ、馬に蹴り上げられたようで、服は汚れていました」
「それで、無傷だと?」
そんな馬鹿な話があるものか。その女性は轢かれた衝撃で混乱しているだけではないのか。
馬車を出て様子を見に行こうとした私を従者が止めた。
「衆目に顔を晒してはいけません。彼女は気にされていないようでしたが、他の者がどう思うかを考えてください」
今日はお忍びでの外出ということもあって、公爵家の馬車を利用していない。だから、公爵筋の者が人を轢いたことを知られるなと、そう言いたいのだろう。
「言いたいことはわかるが、生きているのなら私自ら謝罪すべきだろう」
「本人は気にしていないとおっしゃっています。あなた様が出るまでもありません」
「私に意見するつもりか」
従者の体がぴくりと震えたが、私に向ける真剣な眼差しは変わらなかった。
「……旦那様がお許しにはならないでしょう」
「――ならば、その轢かれた女性がどこの誰なのか調べておけ」
「かしこまりました」
動き出した馬車に溜息を零す。次期公爵だなんだと言われながらも、ままならないことばかりだ。
せめてと思い、従者の制止の声を振り切って扉につけられている小窓から外を眺め――目を奪われた。
土で汚れた服に、腕に抱えた猫。
そして、轢かれたとは思えないほどの笑顔がそこにあった。
通り過ぎていく光景を何度も見直したが、その笑顔が曇ることは一度もなかった。
轢かれた女性の身元はすぐにわかった。彼女と共にいた男性に見覚えがあったからだ。
我が国には”あの“シャルベール家と呼ばれるほど、悪名を轟かせている家がある。
そしてそのシャルベール家の子息であるユリウス卿はある意味有名な人物で、彼が夜会に連れてくる従者もある意味有名だった。だから私はその従者の――彼女のそばに立っていた男性の顔を覚えていた。
普通、貴族の夜会に従者を連れてくる者はいない。
従者の見目が整っていることと、彼ら――正確にはユリウス卿の狙いが夜会に参加している女性の母親だということもあり、女性からも男性からも不満の声が上がらなかった。
そして悪名高いシャルベール家に目をつけられたくない、ということも相まって、ユリウス卿の従者を連れての夜会参加は黙認されていた。
次期当主と懇意な従者と共にいるということは、あの女性がシャルベール家に連なる者だということは予想がついた。そしてその線で調べると、彼女がシャルベール伯爵令嬢のミレイユ・シャルベールだということもすぐにわかった。
「お引き取り願おうか」
そして詫びの品を携えながら謝罪に赴いて、門前払いを食らった。
先触れを出してから来たというのに、門で待ち構えていたシャルベール伯は私を邸内に入れようともしない。ご息女を轢いてしまったことや、謝罪したいと思っているということを伝えてあるはずなのに、一体これはどういうことだ。
「私は本日謝罪をしに参りました。シャルベール伯がお怒りになるのも無理もないということはわかってはいますが――」
「金だけならば快く受け取ろう。だが娘と会わせるわけにはいかない」
威風堂々とした佇まいと、威圧感のある態度。私は父上から侯爵位を賜り、将来的には公爵を継ぐ者だというのに、シャルベール伯の前ではどちらの家格が上なのかわからなくなる。
シャルベール伯が一筋縄ではいかない相手だと聞き及んではいたが、まさか私にまでこのような態度を取るとは思ってもいなかった。
父上に仕えている従者はともかくとしても、他家からここまでぞんざいな扱いを受けたことはなかった。
世界とは広く、人生とはままならないものだと改めて思い知らされる。
「しかし――」
「人の娘を轢いておいて私に命令するつもりか」
突き刺すような視線に言葉に詰まる。命令などするつもりはなかったというのに、なにも言えなくなった。
「……顔に似合わずお人好しと聞いてはいたが、まさにその通りだったか。ならばなおのこと娘に会わせるわけにはいかない」
「どうして会わせてはいただけないのでしょうか」
「……娘が社交に出ないのはどうしてだと思う。私は人前に娘を出すつもりはない。どうしても会って謝罪したいと言うのなら、婚約話でも持ってきてからにしろ」
まあ無理だろうがな、と笑う声に私は引き下がることにした。持ってこいというのなら持っていこうと、そう思ったからだ。
奇しくも、王家ではシャルベール家を取りこむ話が出ていて、誰と婚姻を結ばせるかでもめている最中だった。
なにしろ相手は悪名高きシャルベール家だ。社交に出てこない娘もろくでもないと、そう噂されていた。誰も貧乏くじを引きたがらず、押しつけあって――婚約の打診すらしないまま半年が経過していた。
業を煮やした第三王子が名乗りを上げたこともあったが、王家の者に嫁がせる気はないと陛下直々に却下されていた。
宙に浮いたままの取りこみ計画を私が知っていたのは、私に話が回ってきたからだった。当時――とはいってもほんの半月前だが――私はあまり乗り気ではなかった。陛下からの命であれば従うが、いまだ若輩者の身。婚約者を持つには精進が足りていないと思っていたため、保留していた。
だが私は彼女を見て、知った。
馬に轢かれて無事ですむとは思えない華奢な体に、轢かれたばかりだということを忘れているような花開く笑顔。そして、轢いた相手すらも気遣う優しさ。
もしも他の者が彼女を知って、名乗りを上げてしまったら―――そう考えてしまうぐらい、彼女に惹かれていた。
そうして、父上を説得して取りつけた婚約話を持って再度シャルベール伯とまみえたとき、彼はぽかんと呆けた顔をしていた。この顔を見られただけでも直接赴いた甲斐があった。
「……まさか本当に持ってくるとは……。本気、なのか」
「そのつもりです」
「いや、しかし、本当にいいのか? 娘はたぐいまれな常識知らずだ。後悔することになるぞ」
「他の誰かに嫁ぐことになれば、私の日々は後悔で染まることでしょう」
渋るシャルベール伯をあの手この手で説得すること小一時間。
「……そこまで言うのなら止めないが、どうなっても知らんぞ」
ようやく承諾の言葉を引き出した。
そして、実際に彼女と会う日取りを話し合うことになったのだが、なぜかここで難航した。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、数か月が経った頃、ようやく彼女と会う許可が降りた。
彼女を知ってから、すでに一年が過ぎていた。
「無理無理無理ー!」
彼女が来るのを今か今かと待ちわびていた私の耳に飛び込んできたのは、否定しようのない拒絶の叫びだった。
現れないことを心配して、こちらから出向こうかと動きはじめていた足が止まった。
そうだ、私は彼女の父親や兄とは話したが、彼女とは一度も話したことがない。会ったこともない相手との婚約を彼女が受け入れてくれるかどうかを、私は失念していた。
「黙ってれば大丈夫だって言ってるだろ。ほら、さっさと行くぞ」
「無理、やだ、無理」
取り付く島のない応酬に段々と冷静になっていく。
もしかしたら社交に出ない身でも私の噂ぐらいは聞いているのかもしれない。
ユリウス卿も従者も中性的な顔立ちをしている。そんな男性に囲まれている彼女が、怖いと言われるような私に嫁ぐと聞いて取り乱すのも無理のない話だ。
ユリウス卿の手によって私の前に引っ張り出された彼女は、息を呑み、完全に硬直した。じっと私を凝視して、瞬きすらしない。
先ほどまでの元気さは鳴りを潜め、彫像のように固まった彼女と言葉少なな挨拶を交わした。
待ちわびていたはずの顔合わせを終えたとき、私の胸は後悔でいっぱいになっていた。
陛下がシャルベール家を取り込むことを決めた時点で、彼女の婚約は避けられないものだ。だが、私ではなく、もっと優しい顔立ちの者のほうが彼女に相応しかったのでは――そう思わずにはいられなかった。
それからというもの、彼女からは辛辣な言葉しか向けられてこなかった。
視線を逸らしたかと思えばじっと私を凝視する。まさに怖いもの見たさという言葉が相応しいような振る舞いだった。
そんな日常が一変したのは、婚約してから半年が過ぎようとしていたときだ。
中庭の散策中に突然彼女が倒れ、それからはまるで人が変わったような振る舞いをしはじめた。
名を呼べば口元を綻ばせ、辛辣な言葉の代わりに私の名を呼ぶことが増えた。連れている従者がなにも言わないということは、間違いなく彼女自身なのに、あまりの変貌ぶりに戸惑う毎日を送っていた。
舞踏会で第三王女のメロディ殿下に踊りに誘われたときには、私の服を掴み瞳を不安で揺らしていた。
メロディ殿下直々の誘いだったので一曲付き合った後、彼女を探した。バルコニーで見つけた彼女は奇妙な踊りを楽しそうに踊っていた。零れる笑顔はあの日、馬車の中で見た笑顔を彷彿とさせた。
そして、あろうことか私を慕っていると、この顔が好きなのだと、そうメロディ殿下と話している場面にも遭遇した。
「私ならばたとえアレクシス様が廃人となり虚ろな目でよだれを撒き散らそうと、その身が蛞蝓になろうとも、そのお顔がある限りお慕いし続けます」
その熱烈な告白に感極まった私は思わず口づけてしまったのだが、あれはやりすぎだった。従者曰く初心な彼女は、口づけひとつで顔を真っ赤に染めて、その場に倒れてしまった。
「ミレイユ」
「どうされました?」
そして、呼べば笑顔を向けてくれるようになった。
怖いと言われ続けた顔だったが、ミレイユが好きだと言うのなら、悪くはないと思えるようにもなった。
「……触れてもいいだろうか」
「ええ、どうぞ」
そっと手に触れると、ミレイユはくすぐったそうに笑った。彼女を抱きしめることができればと考えてしまうが、下手なことをすれば倒れてしまうのは実証済みだ。
もしかしたらシャルベール伯はこのことを知っていたのかもしれない。ろくに身を寄せることもできない娘相手では後悔すると、そう言いたかったのかもしれない。
どこまでが大丈夫で、どこからが駄目なのかを探る日々だったが、これまでの、後悔に染まっていた半年に比べれば、こうしてミレイユと一緒にいられるだけで私は幸せだった。
そうして何事もなく穏やかな日々を過ごしていたある日、シャルベール邸の近くを通りかかった私はせっかくだからミレイユに会っていこうと考えた。
だがシャルベール邸に到着すると、なにやら騒々しい。そして私を見つけた使用人が大慌てて走り去っていく。
一体どうしたのかと立ちすくんでいた私の元に、ユリウスがなにかを手に乗せながらやって来た。
「ミレイユが蛙になった」
――人生とは、ままならないことばかりだ。
「ミレイユの婚約者ってことは俺の弟ってことだよな。お兄ちゃんって呼んでもいいぞ」
ミレイユとの婚約が成立し、顔合わせの日取りを相談していたときにユリウス卿と顔を合わせた。夜会や舞踏会で見かけたこともあれば、儀礼的な挨拶を交わしたこともあった。
それなのに、まるで初めて会うかのような印象を受けた。
ユリウス卿は挨拶もそこそこに、気安く話しかけてきた。
「縁戚になるんだから、敬称もいらないよな。俺のことも気安く呼んでくれ」
この気安さはシャルベール家の血筋ゆえなのかもしれない。
驚きこそしたが、不思議と悪い気はしなかった。
そしてそのユリウスが、蛙を手に乗せて真剣な顔をしている。
「蛙に……? それが、ミレイユ、だと?」
「ああ、そうだ」
ぎょろりとした目にぬめりとした表皮、長く伸びた指は前足だけ四本で、曲がった手足と繋がっている。見間違えようもないほどの蛙が「ゲコ」と鳴いた。
「どう見ても蛙にしか見えないが」
「朝呼びに行ったら、ミレイユの代わりにこいつがベッドにいた。だからこいつがミレイユだ」
「それはあまりにも飛躍しすぎでは? 人が蛙になるなど、お伽話の中でしか聞いたことがない」
ゲコゲコと鳴きつづける蛙をちらりと見ると、目の下から薄い膜を出しては引っ込めてを繰り返していた。もしやこれは瞬きをしているのか。
「……ここじゃなんだ。俺の部屋で話そう」
神妙な面もちで言われたので、大人しくユリウスの後をついていった。蛙は大人しく手の平に納まっている。
「好きな場所に座ってくれ」
とは言われても、座れる場所は床かソファぐらいしかない。当然の選択として、ソファに座ることにした。
「ミレイユは……こいつは異能持ちだ」
ユリウスは対面に座って蛙を机の上に置くと、手をハンカチで拭きながらそう切り出した。
「異能……と言うと、触れずに物を動かせるとかいうあれか?」
「ああ、あれだ。ミレイユの場合はまた勝手が違うんだよ。こいつの祈りは天に届く――要は神に愛されてるんだ」
それは、あまりにも荒唐無稽な話だ。
触れることなく物を動かしたり、千里先すらも見通したりといった異能の話を聞いたことはあるし、実在していることも知っている。だが報告されている人数は少なく、その詳細については判明していない。
まさかそれが貴族にいて、しかも私の婚約者だと言われて、はいそうですかと素直に受け入れられるはずがない。
「おかしいと思わなかったのか。馬車に轢かれて無傷でいられるなんて」
「そんな些細なことは彼女の笑顔の前に消え失せた」
「……あいつの趣味は雨乞いなんだが、落ち込むと雨乞いをして雨を降らせるんだ」
ふと思い出したのは、舞踏会で唐突に降りはじめた雨のことだった。メロディ殿下と踊ることになった後、突然降り、突然やんだ。そして降りはじめる直前に見た、ミレイユの奇抜な踊り。
もしもあれが雨乞いだったのだとしたら、不安にさせたことを反省する反面――
「そうか……あのときのミレイユはそれほど落ち込んでいたのか」
「どうしてそこで照れるんだよ」
「思っていた以上に愛されているのだとわかったからな」
「あー……うん、まあ、あんたがそれでいいならいいけど、いや、本当にいいのか?」
「雨が降れば落ち込んでいるということだろう。可愛いではないか」
「人の趣味ってよくわかんねぇな」
ユリウスにだけは言われたくない台詞だった。
彼の熟女、未亡人好きは貴族の間では有名な話だ。
「いや、まあ、話を戻すけど、ミレイユを湖のある避暑地に誘ったんだって?」
「ああ、誘ったが……それがどうかしたのか」
「ミレイユは泳げないんだよ。だから泳げる蛙になりたいと願ったのかもしれない」
「……それで、泳げたのか?」
「いや、沈んだ。人間の泳ぎ方すら知らないのに、蛙の泳ぎ方を知っているはずがないんだって……そんなことにもこいつは気づかなかったんだ」
それはにわかには信じがたい話だった。普通、泳げないからと蛙になることを望む者はいないだろう。
いや、そうでなくても、あそこの湖は遊泳用ではない。泳ぐ必要はどこにもない。
しかし馬鹿な話だと切り捨てることができないほど、ユリウスの様子は真に迫っていた。
「しかし、祈れば形を変えられるというのなら、人間に戻りたいと願わせればいいだけではないのか」
「……ミレイユは自分の異能に気づいていない。なんか無傷で済むし、雨乞いってすごいで片付けてるんだ」
「そんな馬鹿な話があるものか」
「馬鹿な話がありえるぐらいに馬鹿なんだよ、こいつは」
絞り出すような悲痛な叫びに、なにも言えなかった。
もしも本当にこの蛙がミレイユだとして、私は一体どうすればいい。人に戻るのかどうかすらわからない。
「……いや、考えるまでもないな」
ミレイユは私の体が蛞蝓になっても慕うと言ってくれた。ならば私もその思いに応えるべきだ。
「それがミレイユだと言うのなら、私は受け入れよう」
「本当にいいのか? 今ならまだ戻れるぞ。あんたなら蛙にならない令嬢だって見つけられるだろ」
「私はミレイユがいいと思ったからこそ婚約した。それが蛙だろうと人だろうと変わらない」
「それでいいなら俺は嬉しいけど……こんな奴を嫁に貰ってくれるのなんて、あんたぐらいしかいないからな」
その言葉に眉をひそめると、ユリウスは不思議そうに首をかしげた。
ああ、そうか。この家族は俺の顔を怖いとは言わないし、怖がりもしない。だからこそこんなにも心地がよいのか。
「……ミレイユの従者がいるだろう。あれはミレイユを慕っていたように見えたが」
「あー……シリルか。あいつはまた少し違うというか、ペットと飼い主というか……あれはあれで色々複雑なんだよ。……大目に見てもらえると助かる」
「見るつもりがなければとっくに口を出している」
「……あんたって本当に懐が深いな。俺だったらふざけんなって言ってるぞ、今の」
ならば言わなければいいのでは。
そもそも、ミレイユが気を許しているのなら、私から言うことはなにもない。いや、そうでなくてもなにも言わなかったかもしれないが。
「あえてミレイユのそばに置き続けているのだから、それ相応の理由があるのだろう。他家の事情に口を出すつもりはない」
「……そう言ってもらえるなら助かる。ミレイユの世話役はあいつにしか務まらないんだ。……あいつ以外は数か月も経たずに辞めていった」
――常識が破壊されると言ってな。
そう語るユリウスの視線は蛙に注がれていた。その表情は悲しそうにも、楽しそうにも見えた。
どうやら複雑なのは従者だけではないようだ。
そしてなぜか、俺が蛙を預かることになった。懐いているからと言われたが、本当にそうなのだろうか。大人しく手に納まってくれてはいるが、これは懐いているということになるのだろうか。
「私に懐いているのか?」
顔を近づけてそう問いかけると、ゲコと鳴きながら頬にすり寄ってきた。ぬめりとしていた。
しかし困ったことに、私はこれまで蛙を飼ったことがない。蛙が食べるものとして思いつくのは虫だが、この蛙がミレイユなら虫は食べたくないだろう。
それに環境もどう整えればいい。私の部屋には蛙を飼育できるような設備はない。さすがに一緒に寝ることはできない。もしも朝目覚めたときに潰してしまっていたら――考えただけで体が震える。
「蛙の飼育方法を調べてくれ」
「蛙、ですか?」
屋敷に帰り着き、出迎えた従者にそう告げると、返ってきたのは間の抜けた声だった。
「ああ、そうだ。飼育方法を調べ、相応しい環境をすぐに整えろ」
「……かしこまりました」
私の手の中にいる蛙をちらりと見てから、釈然としない顔を浮かべながらも頷いた。
残る問題は食事だ。なにを与えればいい。
寝室の机に蛙を置き、眺める。本当にこれはミレイユなのだろうか。
人が蛙に変わるお伽話はあるが、それが現実に起こるとは――正直思えない。
「ミレイユなのか?」
思わず問いかけてしまったが、返ってきたのは「ゲコ」という蛙らしい鳴き声だけだった。
もしも、万が一これがミレイユだとして、どうすれば彼女は人に戻る。お伽話の中では壁に叩きつけるか口づけするかで戻っていたが、壁に叩きつけても戻らず、無残な姿を晒すことになったら目も当てられない。
かといって口づけで戻ったとしても、ミレイユのことだ。その場で気を失うだろう。
気を失った彼女をどうすればいい。ミレイユの寝姿を見ながら一晩過ごすとして、理性を保てるだろうか。
いや、無理だ。寝ている彼女の髪を梳き、頬をつつき、それどころか抱きしめながら寝てしまうかもしれない。他の誰でもない自分のことだからこそ、よくわかる。
彼女を今ここで戻すわけにはいかない。
蛙を眺めながら悶々としていたら、従者が水槽を持って部屋に来た。どうやら飼育する準備が整ったようだ。
「環境は整えましたが、餌は夜のため採取できず……申し訳ございません。調べてみたところ、そのぐらいの大きさの蛙でしたら二、三日は餌がなくても大丈夫みたいですので、明日採取いたします」
「わかった。明日はまたシャルベール家に行くことになるから、餌については帰ってきてからまた決めることにしよう」
ミレイユに虫を食べさせるわけにもいかないので、明日には戻っていてほしいものだ。
従者を下がらせ、蛙を水槽に入れてから手を洗った。蛙には毒のある個体もいるから、触った後はしっかりと手を洗うようにと言われたからだ。
ミレイユに毒があるとは思えないが、ミレイユではなかった場合を考えると洗っておいて損はないだろう。
蛙はゲコゲコとご機嫌に鳴きながら水槽の中で動き回っている。陸と水辺が用意されているが、水辺にはたまに足をつける程度で入ろうとはしなかった。
たまにこちらを見ては鳴く。そのたびに話しかけてはいるのだが、どうにも反応が芳しくない。本当にこれは懐いているのだろうか。
「……ミレイユ」
ゲコ、と蛙の鳴き声が返ってくる。
蛙になっても変わらないと思っていたのに、寂しさが募る。私の彼女に対する愛は、蛙になった程度で揺らぐものだったのか。彼女は蛞蝓になっても慕うと言ってくれたというのに、なんと不甲斐ないことだ。
触れることも話すこともままならない。
早く戻ってほしいと、そう考えてしまう。
次の日、私は朝食をすませてすぐ、シャルベール家に訪れた。
「ずいぶんと早いな」
「戻す方法が見つかっていないかと思ってな」
小さな水槽をユリウスの前に差し出すと、彼はその中にいる蛙を見て眉を下げた。
「申し訳ないが、まだ見つかってないんだ。人が別の動物に変わった事例がないからな」
「……そうか」
「まあ、せっかく来たんだ。ゆっくりしていけよ。こいつが人になりたいと思うようなことをしてやれば、勝手に戻るかもしれないしな」
蛙が人になりたいと思うようなこと――そんなものがあるのだろうか。
しかたないので庭を歩くことにした。春も終わりが近く、夏が迫っている。暑くなったら一緒にどうかと避暑地に誘ったわけだが、まさかこんな騒動を生み出すとは思いもしていなかった。
「泳がないし、水辺がいやなら近づかなくていい」
そもそも遊泳を目的とした湖ではない。小舟に乗ることはできるが、ミレイユがいやなら邸で過ごすだけでも構わない。
水槽の中の蛙に語りかけると、ゲコと鳴いた後、跳ねた。蛙の跳躍力はあっという間に水槽の淵を飛び越え、地面にその身を落とした。
「ミレイユ!」
怪我をしていないかと手を伸ばしたが、蛙はするりとその手をすり抜けた。そしてゲコゲコ鳴きながら地面を跳ね飛び、草むらの中に飛び込んだ。こうも簡単に逃げられて――どこが懐かれていると言うのか。
慌てて草むらの中を視線で探るが、蛙の姿はどこにも見えない。
ミレイユ、と何度名前を呼んでも鳴き声すら聞こえなかった。
「どうした?」
血相を変えて蛙を探す私の背に声がかかる。
「逃げた」
端的に伝えた言葉に、ユリウスの顔から血の気が失われた。
「嘘だろ。なんで逃げ出したり――ああ、くそ、なんでもいいから探すぞ」
そうやって探すこと数十分。いつの間にかシャルベール家の使用人まで捜索に加わっていた。こっちにはいない、という絶望的な声ばかりが飛び交っている。
「騒々しいわね」
その中で、一人だけ気の抜けた声を出す者がいた。
「ねえシリル。今日って行事でもあったかしら」
「俺は知りませんよ。そもそも草をかき分ける行事なんて聞いたことがありません」
「草むしりとか」
「ユリウス様を駆り出してまでやるものではないでしょう。それに……アレクシス様もいらっしゃいますし」
「アレクシス様!?」
渇望していた声に、地面に落としていた視線を上げる。
仏頂面の従者の横に、彼女がいた。
「ミレイユ」
「はい、ミレイユです。アレクシス様は本日はどうしてこちらに? なにか用事でもありましたか?」
ふらふらと駆け寄ると、ミレイユは少し呆けて、すぐにゆるゆると頬を綻ばせた。手に触れるとくすぐったそうに笑うところも、緊張感のない声も、間違いなくミレイユだった。
「……蛙が」
「蛙?」
「ああ、蛙が逃げたんだ」
「まあ、それは一大事じゃありませんか。アレクシス様の蛙ですの? 色は? 大きさは? お名前は? 私も探します」
「いや、もういいんだ。いたから」
ミレイユが首をかしげ、どういうことかと問うように、周囲に集まってきた人々に視線を投げかけた。その中で状況を説明する気概があったのは、彼女の兄のユリウスだけだった。
「私が蛙に? そんな馬鹿な話があるわけないじゃない。アレクシス様まで巻き込んで……そういう話は寝物語の中だけにしてちょうだい」
「さすがにやった後で人が蛙になる話は、情緒に欠けるだろ」
「そういう意味じゃないわよ!」
「お嬢様、今回はユリウス様の言い分が正しいですよ。寝物語は親が子どもの寝る間際に話す物語ではありません」
ああ、たしかに馬鹿な話だった。人が蛙に変わるなどという荒唐無稽な話をどうして信じてしまったのか。
よくよく考えてみれば、ミレイユが蛙になって真っ先に騒ぎそうな従者の姿がどこにもなかった。
「いや、そもそもお前がどこにもいないのか悪い。様子を見にいって蛙しかいなかったら勘違いぐらいするだろ」
「しないわよ。常識的に考えてよ。それに私は溺れてもいいように練習しに行っていただけよ」
「水の上を歩くなどと馬鹿なこと――いえ、人知を超えたことを練習しようとしたので連れて帰ってきました」
書置きをしたはず、というミレイユの言葉に使用人が部屋を探しに行った。そして数分後、寝台の裏に落ちていた書置きが発見された。
気の抜けた体をそのままミレイユに預けると、面白いぐらいにぴくりと跳ねた。でも蛙のような跳躍力は持ち合わせていないのか、飛び跳ねたりはしなかった。
「……蛙と一晩過ごしてわかったが、やはり人型が一番いい」
「蛙と? 一晩?」
「ああ、私が預かることになったからな」
「……蛙になりたい」
ぴしりと空気が凍りつき、視線が集中するのを肌で感じた。
「いや、それだけはやめてくれ。私はそのままのミレイユがいい」
たとえ蛙になろうと愛すると誓いはしたが、人のままであるに越したことはない。
それから、ミレイユとその従者は荷物を置きに部屋に向かった。
まったく人騒がせなと口々にぼやきながら使用人も下がり、私とユリウスだけが残された。
「やはり蛙になるなどという荒唐無稽な話はなかったな」
「いや、どうだろうな」
煮え切らない返答にユリウスを見ると、彼は真剣な表情で草むらを見つめていた。
「シリルがいたかどうか、俺は覚えていない。辻褄が合うように天が調整したって可能性もあると思わないか? ……それに、蛙はどこに消えた」
逃げたはずの蛙は、姿形どころか、声すらも聞こえてこない。
おまけ
その1
「旦那様。謝罪だけなら会わせてもよろしかったのでは?」
「彼はミレイユ好みの顔をしている。もしもミレイユが惚れて、振られてみろ――この国が雨に沈むぞ」
その2
「ユリウス様。さすがにあの態度は不遜すぎるのでは」
「これに腹を立てるような奴とミレイユを結婚させるわけにはいかないだろ。離縁で済めばいいが……最悪倒れるか胃に穴が開くぞ」
その2
「お嬢様、どうして水に足をつけようとしているんですか」
「どうしてって、達人は水の上を歩けると聞いたからよ。私も同じことができるようになれば沈まないわ」
「人は水の上を歩けるようにはできていません。常識で考えてください」