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幸司・一

 僕が差し出した箱を開けて、千夏ちかは顔を輝かせた。


 彼女の反応に僕はホッとした。静かな一軒家フレンチレストラン、個室で食事をした後、デザートのタイミングで渡された小箱である。開ける前から中身は予想がついたかもしれない。

 三回目のデートで渡すなんて、一般的には性急すぎると分かっている。でも僕たちの出会いは婚活サイトなのだ。目的がはっきりしているので遠回りをする必要はなかった。


「きれい……」


 千夏は溜息をつく。黒い布張りの上に鎮座しているのはダイヤモンドの指輪である。石は大きいのだが、立て爪のデザインが古臭く見えるのではと心配していた。

 彼女は指輪の箱を手に持ったまま、僕を正面から見た。嬉しさと戸惑いが入り混じった眼差しは、控え目な性格の彼女らしい。

 僕は咳払いして、居住まいを正した。


「千夏さん、僕と結婚して下さい」


 つとめて冷静に言ったつもりでも、語尾が少し裏返った。四十前にして初めての経験なのだから仕方がない。今にも心臓が胸から飛び出しそうだ。

 千夏は小さな目をしばたたかせて、息を飲む。花柄のワンピースの肩が震えた。


「出会って一ヶ月だし、早いのは分かってるんだ。でも君以外の人は考えられなくて……」


 僕は焦って続けた。


「返事はすぐじゃなくていいよ。ただ僕はそのつもりだと知ってほしかったんだ。前向きに考えてもらえるなら、その指輪を受け取ってほしい」

幸司こうじさん……」


 千夏は頬を染めて何か答えかけ――すぐにしぼんだ。本当にそう見えた。もともと小柄な体がさらに小さくなったのだ。


「嬉しいです、とっても。でも、でも私……」


 蚊の鳴くような声に、僕は口の中が渇くのを感じた。緩い絶望が、じわじわと腹の中に広がっていく。


 サイトに登録して十人以上の女性と会ったが、どの人もピンとこなかった。何というか結婚に対してガツガツしていて、ちょっと引いてしまったのだ。僕が一部上場企業の課長職だと知ると、彼女らはますます前のめりになった。結婚相手に経済的な安定を求めるのは当然だけど、僕が好きなのか僕の年収が好きなのかよく分からなくなってしまう。

 しかし、千夏はまったく違っていた。

 謙虚で穏やかで、服装やメイクも清楚で――いわゆる旧き良き大和撫子タイプ。三十歳という年齢の割には若く見えた。しかし性格が暗いわけではなく、朗らかに笑う女性だった。派遣社員をしているというが、どこの職場でも好かれるんじゃないだろうか。

 君みたいな人がどうして今まで独身だったのか分からない――お世辞でも何でもなく、最初のデートでそう言った僕に、千夏は曖昧に微笑んだ。


 ――私、恋愛するのが怖くなった時期があって。でももう一度だけ、自分を受け入れてくれる人を探したくなったんです。


 千夏は手つかずのカットケーキを前に俯いている。僕は身を屈めて、テーブル越しに彼女の顔を覗き込んだ。


「こんな短期間で信用できないかもしれないが、僕は本当に千夏さんが好きなんだ。君が探してる相手になれたらと思ってる、君は……僕とは合わないと感じた?」

「いえ! そういうことではないんです。私も幸司さんのことは……好きです」


 彼女は僕の語尾に被せるくらいの勢いでそう言って、顔を赤くした。僕も釣られて頬に血が上るのを感じる。まったく、いい年をして格好の悪い……。

 しばらく黙った後、彼女は右手を胸に当てた。跳ねた鼓動を鎮めているような仕草だった。


「この指輪、どなたかの?」


 いきなり見破られてしまって、少々動揺した。黙っているつもりはなかったが、やはり女性には分かってしまうらしい。


「母の指輪なんだ。昔から母が僕の妻になる人に渡したいと願っていてね。あっ、もちろん本物のエンゲージリングは君の気に入るものを選ぶつもりだけど……」

「そうですか……幸司さん、お母様を大切になさってるんですね」


 彼女の口調には皮肉も非難も混じってはいなかった。心から安心している感じだ。

 これまで付き合った女性の中には、僕が母の話をするとあからさまに不機嫌になる人もいたのに。母親と仲の良い男は、世間では好まれないらしい。

 父が早逝してから、女手ひとつで僕を育ててくれた母である。恋人の機嫌を取るために実の母を邪険に扱うなんて、僕にはできなかった。でも、だからといって親離れ子離れができていないわけじゃない。千夏は理解してくれているようで嬉しかった。


 だったらどうして色よい返事をくれないのか――その疑問に対する答えは、すぐに返された。


「実は私の母が……幸司さんとの交際を反対していて」

「それなら今度きちんとご挨拶に伺うよ。会って話せば分かってもらえるはずだ」

「ええ、でも……母はちょっと困った人で……」


 千夏は胸に当てた手をぎゅっと握りしめた。

 コーヒーのカップから上る湯気は、徐々に薄くなっている。僕は緊張して喉が渇いたが、心苦しげな千夏を前にして、それを手に取ることはできなかった。


「幸司さんと同じで、うちも母子家庭なんです。だからなのか、母は昔から心配性で過保護で、未だに私にあれこれ指図をするの。きっと幸司さんびっくりしちゃうと思うから……」


 聞いてもらえますか、と彼女は話し始めた。

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