準備運動
朽ちかけの薄暗いトンネルに、どう考えても似つかわしい明るい声がこだまする。
『ねえ、ミシュはなんで旅をしているんだい』
「君こそ何回、同じ質問をするのかな」耳元でぐるぐる捩れながら過ぎ去る、湿り気を帯びた風のような声が答える。
『そうだな、君の答えに納得ができるまで。っていうのはどうだい?』
「なるほど、それは妥当な意見だ」
『だろ?で、なんでミシュは旅をしているんだい』
30メートルほど進んだところでミシュと呼ばれた青年は口を開いた。
「それに答えるのは、53回目になるだろうけど、答えは変わらず〝旅が一番嫌いだから〟だ」
53回目らしい答えにカラカラと笑う。
『嫌いなことを、わざわざするんだからミシュは、相当変わり者だよね』
「一番嫌いなことをしていたら、他のものはそれなりに好きになれたりするものさ」
『そうかな?』
「少なくとも俺はな」
『ふーん。それじゃあ僕と旅している理由も僕が嫌いだからかい』
「そうだな、喋る帽子なんて気味が悪いし、だいたいお前は喋りすぎだ。あと嫌に明るすぎる」
気味が悪いといわれた帽子は、他人事のようにカラカラと笑う。
『確かにミシュと比べたら〝鶴とすっぽん〟だね』「月とすっぽんじゃないのか」『…ミシュ、いくら喋るとはいえ僕は帽子だよ。帽子界では鶴とすっぽんなのさ』
顔の横に流した前髪を引っ張りながら、ミシュはしばらくの間考え「なるほど」と小さく呟いた。
『ちなみに、いつになったら旅をやめるんだい』
「旅が嫌いじゃなくなったらだ」
『なるほど、で。今のところやめる予定は?』
「ない」
明るい声と、波打たぬ湖面の様な落ち着いた声が響くトンネルに、陽が射して一人の影だけを映し出した。