今日私は小さな嘘をつきます①
今日私は小さな嘘をつきます。
***1
そんなに辛そうなお顔をしないでください。胸がいたみますから。ですが、そのお顔は私を想ってのこと。貴方の優しさなのでしょう。それは貴方から私だけに頂ける唯一なもの。そのお顔はあの可愛らしい方には向けないものですから。だから、胸のいたみとともにこの胸に刻みこみます。そんなお顔をもう貴方にさせませんから。
「私もお話があるのです。先にお話してもよろしいでしょうか?」
穏やかに、穏やかに。貴方の心に負担がかからないように。私は少し笑んで、貴方の辛いお顔を緩ませます。
「あ、ああ。かまわない、話してくれ」
少しホッとしたような、それでいて私の話に警戒するような、微妙な面持ちで私を見る瞳は綺麗な瑠璃色です。王族独特の瑠璃色は、今私に向けられています。貴方の瞳を久方ぶりに見ています。その瞳が私に真っ直ぐに向けられていたのは懐かしいほど昔のようでいて、それほど過去のことではありませんね。
「ローゼ?」
久しぶりに呼ばれた愛称にくすぐったさを感じるのは、まだ私が過去にとらわれているせいでしょうか。話し出さない私を見る瞳は訝しげです。私だって、貴方同様に話しづらいのですよ。わかってほしいとはおくびにも出しませんけれど。
「セシー、急かさないでくださいまし。まずは、喉を潤わせてください」
私も、久しぶりに貴方を愛称で呼びました。それだけで込み上げてくる熱いものは何でしょうか。溢れでないようにそっと顔をふせ、テーブルの上のカップを持ちます。瞳にはった潤いを隠すように目を閉じ香りを楽しみます。カチャリと音がして、対面の貴方もカップを手にしたのがわかりました。ゆっくり一口飲みます。そして……
「セシアン様、実は私……好きな人がいるのです」
ガチャと大きな音をたて、貴方がカップを置きました。私は、貴方を見ることはできません。ただ、言葉にした重みをずしりと感じています。貴方が先ほどまで背負っていた重みを。ですが、貴方と私との違いは苦楽でしょうね。貴方ははいて楽になり、私ははいて苦しくなる。
「ロゼリー、本当か?」
声に怒りがないことに、わかっていても悲しくなります。婚約者である私が告げたことに、怒ってもいいはずですのに。咎めてもいいはずですのに。貴方のお心は今どのような状態でしょうか。
「ええ」
「そ、……そうなのか」
それから、沈黙が支配しました。私は貴方を見ず、ただ庭園を眺めます。この麗しい庭園は、次期王妃たる私のために王様が造らせたもの。いつか生まれるだろう世継ぎのための庭園です。ですが、この庭園を世継ぎの声が響くことはないでしょう。元気な声で駆け巡ることはないでしょう。いいえ、私の生む世継ぎがでございますが。それは、きっとあの可愛らしい方が貴方に贈るものでしょうね。
「ロゼリー、……私も好いておる者がいる」
庭園を見る私の耳にそう届きました。今、貴方はどんなお顔をしているのかしら。そうは思いますが、見る勇気は私にはありませんわ。ですが、わかります。辛そうなお顔でないことは。
「そうですか」
私はそう答えました。それ以外に何と答えればいいのでしょう。貴方が『そうなのか』と言ったように、私も同じに答えることしかありませんもの。『どうして』と涙を流すことなどできないのです。『裏切り者』と罵ることもできないのです。だって、私は好きな人がいるのですから。
また、沈黙が支配します。三日後に執り行われる婚姻式と戴冠式に想いを馳せます。現王様は退位されます。そして、貴方が玉座に着きます。私はその横に座するでしょう。貴方は私を切り捨ててまで、あの可愛らしい方を傍らには座らせたりはしないはずです。貴方はそこまでの我が儘ではありませんし、その力もないでしょうから。傍若無人な子供のような想いだけで突っ走るほど、貴方は清純ではないでしょう。『愛する者を傍らには望んで何がいけないのか!』と声高に宣言するほど、甘やかされて育ってはいませんもの。
ですが、私の告白で貴方は悩んでおられるのね。私の幸せを望んでおられるのね。そして、抑えている純粋な愛を隣に置きたいと想像もしているでしょう。この沈黙がその葛藤の証拠です。
「……今さら破棄はできない。私はロゼリーに酷なことを願うしかない。王妃になってほしい。そして、側妻を認めてほしい。ロゼリーの気持ちを犠牲にして、こんな願いを口にする私は情けない男だな」
貴方の答えはわかっておりましたわ。貴女が純粋な愛を貫く欲に溺れなくて良かったと思います。あの可愛らしい方に頭を下げる貴族はいないでしょう。それは貴族の方々の矜持が許さないですから。名ばかりの地方貴族の娘が、伯爵家の養女になったからといっても、頭を下げ忠誠を誓う存在にはなれませんから。
『好きな人がいるのです』
『好いておる者がいる』
私たちは互いに秘密の胸の内を打ち明けたのです。貴方は、私に対する裏切りに胸を辛くさせることはなくなりました。だからといって、互いの気持ちを優先させることは、私たちにはできませんわね。あの可愛らしい方に王妃の座は任せられません。いくら伯爵が後押ししたとしてもです。心のいたみを押し込め、兄弟のような親愛の情しかない幼馴染みの公爵の娘である私と穏やかな夫婦を目指すことが本来の貴方の役目でしょうに、貴方はあの可愛らしい方の手を離せないのでしょう。
裏切りの心は解消できても、私に課す役目に貴方は苦しんでおられるのですね。王妃の座を課すことと側妻の了承、なんと自分本意な次期王様でしょうか。ですが、貴方は心許せる幼馴染みの私には無意識に甘えておられるのでしょうね。いいえ、王様とはそういうお立場なのですから。私が否とするなど、貴方は思っていないでしょう。もちろん、私も否とは言いませんが。
「ふふ、今さらでございましょう。私たちは幼い頃から助け合ってきましたわ。貴方は王家の重責に、私は公爵家の重責に押し潰されそうになりながら膝を崩すことなく頑張ってきました。お互い様です。今さら私を王妃の座から下ろせるなど思わないでくださいまし。貴方の願いなんて……逆に願い下げですわ。私の集大成なのですから、王妃の座は。私たちは無二の存在にございましょ。私は犠牲などになっておりませんし、貴方は情けない男でもありませんわ。私と貴方は次期王と王妃ですのよ」
瑠璃の瞳を真っ直ぐに捉えて言い切りました。貴方の肩の強ばりが緩やかに落ちていきます。私は私の想う私を演じきりました。貴方が受けるはずだった心のいたみを押し込めることは、私が引き受けます。だって、私は王を支える王妃になるのですから。王妃とはそれを矜持とする存在なのです。ですから、私は言いますわ。
「ですが、望むことがただ一つございます。好きな人以外に私の肌をさらすことはできません……心にも身体にも嘘はつけませんの」
貴方の瞳が大きく開きました。世継ぎを生むことを放棄する私が信じられないのですね。王妃の最たる役目ですもの。
「無益な争いが起こらぬために、貴方の愛する者のお子が王位を継げるように、それもまた王妃の役目ではございませんか」
私は笑みます。笑え、笑えと私を鼓舞します。私の笑みが貴方を安心させるでしょう。これが私の思慮する王妃の姿ですの。
「では……お前の、ローゼの心はどうするのだ。好いた者を望むローゼの心はどうなるのだ。私だけが……私だけが心を満たすばかりではないか」
優しい貴方。貴方のその優しさは凶器ですのよ、私にとっては。私の心が満たされることなどないのです。私は、また庭園に視線を移しました。瞳を見て言うことはできません。
「あの方とは、もうお会いすることは叶わぬのです。強く、強く、私がどんなに想っていても、あの方がどんなに私を求めていても、もう触れ合えぬ世界にいるのですわ」
私は空を見上げます。幸せを運ぶ青い鳥はいませんね。私は自嘲します。そんなものを求めて見上げてしまったのかしらと。
「そう、か。もう世界にいぬのか……」
貴方の勘違いを正すことはしませんわ。そう仕向けたのは私ですから。
「ええ。ですが、想い出の中に生きておりますの。私の心の中で、二人だけの世界で満たされているのです。セシーが気にやむことは何一つありませんのよ」
***2
貴方の背を見送ります。
『好きな人がいるのです(セシー貴方よ)』
『好きな人以外に私の肌をさらすことはできません(セシーだけですわ)』
『心にも身体にも嘘はつけませんの(あの可愛らしい方を想うセシーの心と身体で私には触れないでくださいまし。私の心が壊れてしまいますから)』
『もうお会いすることは叶わぬのです。強く、強く、私がどんなに想っていても……(私だけを見ていてくれたセシーはもういませんわ。想い出の中にしかもういないのです)』
『あの方がどんなに私を求めていても、もう触れ合えぬ世界にいるのですわ(想い出の中のセシーは、いつだって私の手を掴んでくれていました。あの温もりが捜す先は、もう私でなくあの可愛らしい方ですもの)』
「……想い出の中に生きておりますの。私の心の中で、二人だけの世界で満たされているのです」
もう一度貴方の背に告げました。私はそうして目を閉じます。心の歪みを弱さを修復するために、私は二人の世界を作るのです……描くのです……
『ローゼ、何をしてるんだ』
『冠を作っているのよ』
『ふーん、なんで』
『セシーが王様になるときの練習のためよ』
『……花冠はちょっと』
幼い私が目を潤ませています。セシーは慌てていますわ。これは私が十才、セシーが十二才のときのこと。
『ローゼが作る花冠ならきっと私にも似合うだろうね』
気遣いをしたセシーの文言に、現金な私はぱぁっと笑顔が弾けました。
『今日の王妃様の授業は戴冠式でしたの。私、口上を全て覚えましたわ。コホン』
出来た花冠をセシーの頭に載せます。少し屈んでくれたセシーは、やっぱり優しいです。
『その身を捧げよ、民のために。
血肉を捧げよ、民を守るために。
真心を捧げよ、民の住む大地のために。
その身心全てをセグナス国のために。
その貴きお前に捧げよう。
セグナスを統べる頂きなる証を』
私の口上にセシーは笑みます。完璧だと頷いてくれました。その私の手をソッと掴み、セシーが片膝を地に着けました。
『我が身心全てをセグナス国に捧げよう。
我が身心の拠り所は王妃に委ねる。
私を包むその手に無二の証を』
花の指環が私の指を飾りました。頬が熱くなります。瑠璃色の瞳が私を見て笑っています。
『花冠は私よりもローゼが似合うよ』
花の指環と花冠。幼い私はくるりと回ってドレスの裾を踊らせています。セシーが手を取り、くるくると回って笑い声が響いています。とても幸せな想い出のとき……
ゆっくりと目を開けました。
「……想い出の中に生きておりますの。私の心の中で、二人だけの世界で満たされているのです」
三度目の声は夕日に染まった庭園に溶けていきましたわ。
***3
あの可愛らしい方の宮から、華やぎが流れてきます。とても賑やかで幸せの華やぎが。貴方とあの可愛らしい方と……生まれたばかりの赤子の声。たくさんの愛がつまった幸せな華やぎは、この王妃の宮には訪れることはないでしょう。
王妃となった日から、すでに二年が過ぎました。できれば、もう少し先の未来であってほしかったけれどと思う私は、その考えが浮かんだこと事態に自分の浅ましさを痛感し思わず自嘲しました。庭園を眺めます。ここに、私に抱かれた子と貴方が寄り添う未来を想像し笑みますが、すぐに靄が覆いつくし消えていってしまうのです。そして、私は心のいたみを抑えます。
「こんないたみを貴方に与えずにすんで良かった……こんないたみを貴方が背負うことはないわ」
背筋を伸ばしなさい、私。私は私を奮い立たせます。胸を押さえた手を離し、何者にも屈しない佇まいで立つのです。貴女は王妃ですよ、ロゼリー。セシアンの身心の拠り所が貴女なのです。決して、心にも身体にもいたみを与えませんわ。私が王妃であるかぎり。
背後の気配が近づいてきました。もう私は毅然と立つ王妃です。綻びは見せません。
「王妃様」
来ましたね。振り向かなくとも、誰であるのかわかります。あの可愛らしい方を養女にした伯爵です。
「ご報告いたします」
私は振り返り伯爵を見据えます。
「女児出産にございます」
伯爵は無表情です。悔しそうな顔を見せないあたりは流石ですね。そうでなければ、セシーを支える忠臣にはなれませんものね。セシーの意を汲み、あの可愛らしい方を養女にした伯爵ですもの。セシーの信頼はかたいですわ。もちろん、私もです。伯爵ような方がセシーを支えていてくれること、頼もしく思いますから。ですが、伯爵はきっと私を嫌っているでしょう。
「大業を成し大義であったとお伝えを」
伯爵の眉がぴくりと動きました。珍しいことです。
「……はい、お伝えします。女児を生む大業を成したこと、王妃様はお喜びであると」
どうやら、私の言葉は変に捉えられてしまったようね。いつもの伯爵ならそんなことを言わないでしょうが、出産に気が高ぶっていたのでしょう。男児でない落胆が伯爵を平静にいられなくさせたのね。……いいえ、私の言葉が至らなかったのでしょう。私もまだまだ未熟ですわ。世継ぎの男児でなく女児を生んだことは、王妃からして大業であり大義であったと、そう思われてしまったのね。世継ぎの出生は王妃たる役目だからと、私が嫌味を言ったように捉えたのでしょう。
「是非、世継ぎの男児は王妃腹で。皆も望んでおりますので。では失礼いたします」
何も言わない私に、伯爵はそう言って下がっていきました。見事な嫌味ですわ。私はふふっと笑ってしまいました。控えの侍女が顔を歪め立っています。セシーが私の宮を訪れないのは……一度も訪れていないのは、王宮の周知の事実ですものね。
「もう、この場所も私の心を休めてはくれないわね」
庭園を眺めます。幸せが移ってきたかのように咲き誇る華々たち。見納めですわ。あの日のように胸のいたみとともにこの胸に刻みこみます。そして、私は庭園を後にしました。
明暗、喜怒、哀楽、……物事には相反することがあるように、セグナスにもそれがやってきました。王の子の誕生という幸せは訪れた脅威によって色褪せます。
「王妃様、帝国からの使者が王間にてお待ちです」
セグナスより遠く遠く離れた帝国が、大陸統一をめざし進軍を開始したのは、あの可愛らしい方のお子が生まれた日と同じようです。まさか、大陸の端のセグナスまでその脅威が訪れようとは、誰も予想しなかったことでしょう。大小様々な国を屈伏させ、従わせてセグナスの国境に現れたのは、進軍開始からたった四ヶ月のことです。
王間の入口に到着すると、セシーが毅然と立っていました。どんな状況でも王が動揺を示すことなどあってはなりませんものね。周りの臣下の幾人かは蒼白い顔をしております。
「王様、お待たせして申し訳ありません」
「構わんよ。この状況で慌て勇んでしまえば、それだけでセグナスの弱さを晒すことになる。帝国の使者と言えど、待たせて然るべきだと思わんか。それぐらいの気概は持っていようではないか」
蒼白い顔の者を一人一人見ながら、貴方は発しました。そして、最後に私を見ます。互いに微笑みあいます。
「身心全てをセグナスに」
「身心全てをセグナスに」
寸分違わず発した私たちの声に、少し離れた伯爵が驚いた顔になりました。くすりと笑みがもれます。さあ、行かなければ。セシーと頷きあい王間へと足を踏み入れました。
***4
「……では、無血でセグナス継続を望むなら、人質を出せと言うのだな」
「この状況で貴国が剣を手にするほど愚かではないと、我が主は申しております。無条件降伏ではなく、一つの条件付きセグナス継続の提案にございます」
「条件、それが人質であると?」
「はい。両国に無益な血が流れぬための提案にございます。セグナスがこれを受け入れた後、我が主は大陸の各国にセグナスと同じ人質の条件を伝えます。……無益な血を流す選択をした後も同じではございますが」
使者はぞくりとするような冷たい瞳を貴方に向けました。どう転ぼうが、セグナスが人質を出すことになる。血を流すか流さぬかは其方で決めろと脅しているようなもの。
「血を流す選択をする愚王などいようか。帝国の提案を受け入れる」
使者の目が開きました。まさか、即決されるとは思っていなかったのでしょうね。帝国のいうセグナス継続は、このままのセグナス国としてではないことは明らかでしょうから。よくて属国、悪ければ帝国領になりましょう。使者は、臣下と協議をするという体裁もとらずの即決に驚いているのです。私はソッと貴方の手の甲に手を添えました。私も同じですと伝えるために。
「……では、人質について申し上げます。『最も愛する妃を差し出せ』我が主の言葉でございます」
貴方の手がぴくりと動きました。最も愛する妃、貴方の頭に浮かんだのはあの可愛らしい方でございましょう。私は触れ合った手をソッと引きました。
「では、すぐに準備いたします」
私はそう発しました。後宮のことは王妃たる私の役目ですから。貴方は引いた私の手をグッと掴みます。待て、止めろと伝えるように。私は貴方を見られません。見てしまえば、この決断が揺れてしまいますから。ごめんなさい、セシー。そう心で告げます。一層強くなった握られた手に、貴方のあの可愛らしい方への愛の強さが伝わってきます。ですが、私の選択は一つです。身心全てをセグナスのために。私は揺るぎませんの。
「王の最も愛する妃は、王妃たる私以外におりませんわ」
貴方の手の力がフッと抜けました。サッと手を引きます。私は立ち上がり、貴方の前へと歩みます。深く膝を折り頭を下げます。
「身心全てをセグナスのために」
ゆっくり視線を上げました。貴方は、困惑と動揺のお顔をされています。良かった……崩れぬ王の顔が、ここまで崩れたならば使者も信用するでしょう。私も胸をはれますわ。『最も愛する妃』になれたのですもの。私は揺れる瑠璃の瞳も胸に刻みます。たくさんの刻んだものとともに帝国へと下りましょう。
「すぐに準備いたします。出立は何時がよろしいのでしょう?」
使者の前へと進みその頭に王妃たる声を落とします。
「……その御身一つで主に遣えていただきます。セグナスの一切のものは持参の必要はありません。出立は明朝に」
ざわりと空気が動きました。身一つでいい妃という人質の意味するは、使者の言う通り帝国の主に遣えることでしょうね。妃という役割と同じことを言うのでしょう。そう、これが屈伏なのね。準備させることもなく、拐うが如くということね。
「待たれよ」
貴方の重い声に心が震えます。怒りを抑えた声に、私のために声を上げた貴方に、心が震えるのです。ですが、私も退きませんわ。いいえ、この場が王妃たる私の集大成ね。
「セグナスの王妃たる証のこの指環だけは必要でしょう。身一つに指環ですわ。ご指示通り指環が隠す肌以外は全てさらし帝国に参りましょう。帝国の人質とはそのような扱いを受けると各国に示しながらでございますね。流石、大陸を統一される帝国ですわね。帝国以外の者は肌をさらし身一つで過ごせ。命が助かっただけましであろうと!」
シーンと静まった王間に、私は足音を響かせます。
「お、お待ちください! 先ほどの失礼平にお詫びいたします。どうぞ、セグナスの王妃たる衣裳で、王妃たる証(指環)を着けて、帝国にお招きいたします!」
私は歩を止めて玉座の貴方を見ます。くすりと笑い、舌をちろりと出しました。平伏す使者のみは見れなかったでしょう。王間に並ぶ臣下たちに一礼します。
『どうか、セシーを支えてください。セグナスを守ってください』
そう心で告げましたの。貴方と臣下たちの開いた口の顔を思い浮かべながら、ふふっと笑って王妃の宮に下りました。
***5
それから何度も貴方の訪問がありましたが全て拒みました。そして、夜が訪れました。
「王妃様、準備ができました」
侍女の知らせに私は腰を上げました。軽くマントを羽織り部屋の外に出ます。騎士が一名待っておりました。
「お願いしますね」
騎士の後ろに着きます。暗い廊下を歩みます。やがて外通路に出ました。見上げると、月明かりを受けてほのかに照らされた王宮に目を奪われます。王妃の宮から王宮殿へ。私ははじめて貴方の寝所の向かいます。ただの一人ともすれ違うことなく、その扉の前に着きました。騎士は黙礼し、扉から少し離れた場所に移動しました。
私は扉を開きます。貴方は項垂れておりました。
「帰ってくれ。今日は一人にしてほしい」
あの可愛らしい方と思ってらっしゃるのね。
「セシー」
私しか呼べない愛称。貴方はばっと顔を上げました。
「ローゼ」
「ふふっ、私は二人がいいのだけれど帰りましょうか?」
立ち上がった貴方は素早く私の手を取りました。そんなお顔をしないでください。そんな辛いお顔をさせないと私は頑張っているのですから。
「どうしてだ? どうして、帝国に下るのだ。どうしてこうなってしまった……」
「セシー、そんな答えがわかりきったことは言わないでくださいまし」
貴方の瑠璃が揺れています。私は貴方の頬にソッと手を伸ばしました。
「一生に一度のお願いに参りましたの」
頬の温もりを離し、貴方の首に両腕を回します。私のぎこちない抱きつきに、貴方はぴくんと体を震わせましたが、優しく私の背に両腕が回りました。はじめての抱き合いに全身が震えます。嬉しいと心が満たされていきます。ただ嬉しいではないのです。この抱き合いが一度だけであるとわかるから、一度しかないという哀しみの上にあるものだからこそ、張り裂けそうに嬉しいのです。
「……純潔を奪ってくださいまし。帝国で露見されれば、『最も愛する妃』でないと判明してしまいますから」
「……ローゼ、ローゼ、ローゼすまない。すまない」
「セシー、もう何も言わないで。ううん、私の名前だけ口になさって。セグナス一の優しさを私に与えてくださいませ」
「ローゼ……」
「セシー……」
はじめて触れる唇と、それからは……
***6
貴方の寝所を後にして、明ける白さが迫る空を見ながら歩みます。騎士はわかっているのか、ゆっくり歩いてくれています。外通路に出ました。足が止まります。一生に一度の一時の終わりです。振り返ってしまってはいけないのに、心がそれを許しません。
行きには目を奪われた王宮が、ぼやけています。
「王妃様」
差し出された騎士からのハンカチを目にあてがいました。私は思うのです。私は泣いていないと思うのです。ただ涙を流しているだけです。声を出し涙を流すことが泣くことだと思うから。私は決して泣いてなどいないのです。今、声を出してしまっては、私は私の心の内を声とともに露見してしまうでしょう。だから、私は泣きませんの。泣きませんのよ。
踵を返します。王妃の宮に……
「おかえりなさいませ、王妃様」
侍女が待っていてくれました。瑠璃色のドレスを用意して。人質だとしても帝国の後宮に上がるのならば、純白を用意すべきでしょうに。私は侍女に微笑みました。
「セグナスの王妃たる衣裳でございます」
侍女は揺れる声で発します。私は『ええ、そうね』と答え、ドレスに腕を通しましたわ。
そうして、一生に一度の夜は明けた空とともに終わりを告げました。私は瑠璃色のドレスで帝国へと向かうのです。
王宮の門の外に出たのは何時ぶりでしょう。広がる城下町が穏やかであることに安堵の息をもらしました。帝国は紳士的にセグナスに接してくれているのです。私は、使者に目礼しました。
「では、出発にございます。どうぞ、皆様にご挨拶を」
門に並ぶ臣下たち。中央に貴方がいます。また、そんな辛いお顔をして……私の努力が水の泡ではないですか。ですから、私は言わねばなりませんの。別れの言葉を。別つ言葉を。
「私は嘘をつきますわ。セシー、幼き頃より大好きで大好きで、そして、心から愛しておりま……した。嘘ですからね。ふふっ、では」
瑠璃のドレスを翻しました。振り返りはしませんわ。昨日のような失敗はしませんの。胸をはるのです。背筋を伸ばすのです。揺るがず歩むのです。
「どうぞ、こちらへ」
使者が馬車の扉を開けました。入るのです、右足を上げて。さあ、左足もよ。最後まで毅然とするのです、ローゼ。貴方はセグナスの王妃なのですから。
「セグナスの王妃様。私は使者としていくつかの国で同じようにこの場面を見てきました。ですが、あのような素敵な別れの挨拶ははじめてです」
パタンと扉が閉まりました。
二部にて完結。
明日次話更新完結となります。