表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

佳き日に

作者: 中田あえみ

誰か助けて!

声を上げようにも、ここでは意味をなさない。ここはどこなんだろう、方角も分からない。おまけに……


私はおひとり様旅行中の渡辺文子である。実家住まいの独身アラフォーOLとして、毎年2回は海外旅行に出かける気楽な身だ。友達も少ないし彼氏もいないが、両親は健在だし姉はとっくに結婚をして家を出て、子供二人も生んでくれているので、私に対する結婚のプレッシャーはゼロである。というより、もう自分も親も諦めている。


そんな海外旅行慣れした私が、なぜこうなっているのか?

いや、単なる迷子、なのだが、女性ながら「わたナビ」とあだ名がつくくらい、私は迷子にならない。いや、ならないはずであった……今さっきまでは。


「▽○◇....」

ここはハンガリー、ブダペスト。ハンガリー語?出来る訳がない、考えるだけ無駄である。

「○XX△△....」

聞くだけ無駄である。どうしよう。

元東欧圏だけあって、英語が出来る人も限られている。


嗚呼……生まれて今まで迷子になった記憶などない。嗚呼……何故人生最初の迷子がこんな言葉も通じない外国なのか……どうか神様、助けてください!!


物凄い念を送っていたのか、それとも単に顔が凄い形相になっていたのか、助けて!の声が届いたらしい。なぜなら後ろから声がしたからだ。

「はい!」

日本語?驚いて振り向くと、男の子が立っていた。

「どうしたの?……迷子?」

10歳に満たないようなお子様に「迷子か」と声を掛けられるアラフォー(号泣)。しかし背に腹は代えられない。

「そ、そうなの。いつもは道が分かるのに、今日だけ……いや、今だけ方角を失っちゃって」

「どこに行きたいの?」

私が答えるより先に、男の子の眼がすっと細められ、にこりとした。

「ああ、駅に戻りたいんだね」

「そ、そうです!」

何故に敬語だ自分?何となく男の子が年上っぽく頼りがいのある仕草に見えたからだろう。決してうろたえすぎてパニックになっていた、という訳ではない。絶対に。

「ちょっと僕についてきて」

「はい」

すたすたと歩き始める男の子の背中を追うように、私は小走りになる。男の子の足が速い。歩いているはずなのに、大人の私が小走りにならないと見失ってしまうような速さだ。少し汗ばんでくる。

果たして、15分ほど訳が分からないうちに早歩きで街中を通り、そして駅のロータリーに出た。助かった!ブタペストの駅入口から改札までまだ少しあるが、この分だとウィーン行きの特急に間に合いそうである。有難う!


……表示板を見つめていた間に、男の子の姿は消えていた。

助けてもらったのに、お礼を言う暇がなかった。何という失態。


ウィーンへ移動する列車に乗り込みながら、自分勝手な行為を反省したが、遅かった。


「で、どうよ、ヨーロッパは?イイ男に巡り会った?」

週末をはさんで10日間の休暇から職場に戻った初日は、お土産配り。次に地獄の未読メール開封。そして……同僚の皆との昼食時の報告会になる。

私は時差ボケで食欲もないので社食に行くのもダルかったのだが、何せ皆にお土産話を披露するのは営業部恒例行事。仕方なくコーヒーだけ飲んで一緒に座った。

「ないわー。ウィーンは観光客ばっかりだったし、ハンガリーもチェコもスロバキアも、言葉が通じないからナンパもない。何にもなかったわ」

私がそう答えると、他の同僚たちは口々に言いだした。

「ああ、じゃ、私東欧圏は止めとくわ。やっぱりフランスかなー、それともスカンジナビア?」

「スウェーデンはハンパなしに美形ぞろいよ、おすすめ!」

「私今回ベトナムにしたんだけど、出会いあるかなあ。早まったかしら」

「マレーシアは結構声掛けられるよ?」

とまあひとしきり皆の旅行計画披露が終わると、次はデジカメの写真を見せる。

「これが世界遺産の教会。思ったより小さいんだけど、たくさんの人が訪れていて、入場券買うにも行列が出来ていたわ」

「えーすごい、綺麗なステンドグラス!」

何のかんのと1時間経つのは早い。また自分の机に戻り、未読メール開封作業を始める。それにしても眠い。何度も席を立ち、コーヒーを淹れに行った。


本来なら少し残業したかったが、身体も重いので仕方なく定時で上がることにした。幸い繁忙期ではないので、営業部全体も余裕がある。パラパラと帰宅する社員に自分も混ざった。


何の変哲もない一日だった。


最寄り駅で降り、実家へ向かう、徒歩7分の距離。近くも遠くもない……が。

あと2ブロックで実家に付くというその場所に、男性が一人立っていた。いや、男性は男性だが、外見からして外国人である。あまり背は高くないがひょろりとした感じで、ただぼんやりと立っていた。


何か不自然だな……。

そもそも実家付近に観光地なんてない。ましてや外国人がたたずんでいるなんて、かなり珍しい。というかあり得ないような風景だ。しかし遠目に見てもその人はしっかりと栗色の髪で体型も日本人ではない。誰かの知人なんだろうか。やっぱり道に迷ったんだろうか。でも話しかけるのは怖いし。


私はなるべく自然にみえるように、でも少し距離を置きつつ追い抜かそうとした。その瞬間に

「あのう……」

声を掛けられて、仕方なく立ち止まる。まあ旅行会話くらいの英語は出来るし、ここで人助けをしてもいいか、と覚悟を決め、にっこりした。

すると、その男性は、

「貴女を待っていたんです、文子さん。こんばんは」

……流ちょうな日本語で話しかけてきた。

「あ、あの……どちら様でしょうか?」

「えっと、そうですね、自己紹介はまだでした。僕はバートリ・フェレンツ。ITエンジニアで、今日東京へ駐在として赴任してきたんだ。来週から仕事になるんだけど、よろしくお願いします」

……よろしくお願いされた……。名前を聞いても全く覚えがないし、IT業界にも知り合いはいない。

「えーっと、フェレンツさん、でいいですか?名前がバートリで、苗字がフェレンツですよね?」

「いいえ、違いまず。僕はハンガリー人なので、苗字が先なんですよ。フェレンツは名前です、でも、文子さんは是非僕を名前で呼んでください。僕も名前を呼んでますし」

イイトコをついているな、美青年!何故初対面で私の名前を呼ぶ……?いや、私の名前を何故知っている?あれ、今彼は『ハンガリー人』だと言っただろうか?ハンガリー?

……ブタペスト?


しかし、私が出会ってまともに会話したのは、あの迷子になった時だけで……。

そもそも街では英語がほとんど通じなかったので、お店でも指さしだったのだ。駅の売店は英語が通じたけど……え、駅?


私はもう一度よく(バートリさん)の顔を見た。駅で出会ったのかは覚えていないが、その栗色の髪は……

「すみません、どこかでお会いしたでしょうか?」

「ええ、先週ブタペストで。旅行に来ていたでしょう?」

「確かに旅行でハンガリーには行きました。でも1日しかいなかったし、その後すぐ移動したんですよ」

「その時僕に会ったじゃないですか。二人で一緒に駅まで行きました」

……。

私は無言になった。確かに、日本語を話す地元の男の子(男性、ではない!)に助けられたが、今目の前の男性(男の子、ではない!)は少なくとも20代、もしかすると30代かも知れない(外国人の歳は分かりにくい)。あの時の男の子は10歳になるかならないか……。


「勘違いだと思います。あの、もしお困りなら私で出来る事ならお助けしますよ。道に迷ってるんですか?何処へ行きたいのでしょうか」

「あの時は名乗らなくてすみません。一人歩きの東洋人は珍しかったし、僕自身も何だかよく分かってなくて……、あ、もしかして文子さんも理解(わか)ってないんですね、やっぱり?」

「見知らぬ外国人に知人と間違えられて話しかけられている、という現況は理解してますよ」

「違います!あ、あの……今、文子さんは僕のどんな姿を見てますか?外見の事です。ちゃんと32歳に見えます?」

32歳?私より一回り(12歳)下なのだが、そこは言うまい。

「ええ、見えます。ですから勘違いでは?私を助けてくれた男の子は10歳くらいで……もしかしてご兄弟?」

私が尋ねると、彼はああやはり、という顔をした。

「どうも混乱させてすみませんでした。何故だか分かりませんが、僕の姿が子供に見える人がいるようなんです。実は僕も、ほんの時たまですが、他の人が子供だったり老人だったりに見える時もあるんです。これは家族の遺伝らしくって、僕の祖母も同じだったようです。驚かせてすみません、文子さんには、僕の子供の姿があの時見えてたんですね」

これは何?新手のナントラ詐欺?それともここでビックリのカメラが出てくる?私はただ混乱して二の句が継げなかった。するとバートリさんは綺羅綺羅しく微笑んだ。俗に言う、天使の微笑みである。もうそろそろ真っ暗になろうかという夜なのに、金や銀の雲がバックに出てきそうだ。

「はあ」

やっとの事でこの二文字を絞り出すと、バートリさんは胸に手を当ててお辞儀した。

「言葉が足らず失礼しました。実は僕もあの時、貴女が15歳くらいの少女に見えたんです。でも駅に着いたとき突然貴女の姿が今の大人に見えて、驚いてしまって……。何も言えなかったら、貴女はさっさとホームに行ってしまって……」

はあ?

一所懸命に記憶をたどってみる。あの、表示板で列車を確認していた時、確かに背後に背の高い男性が何か驚いた顔で口を開けてぽかんと私を見ていたような……。


しかし、あいまいすぎる記憶だ。あの時私は急いでいたし……。


「すみません、覚えてません。でもあの時助けていただいたのなら、本当にありがとうございました。お礼も言わないでって、ずっと思っていたんです」

彼の話を信じる信じないはともかく、お礼は言うべきだと思ったので、私は会釈を交えて礼を述べた。するとバートリさんは嬉しそうに、

「いいえ、大したことではないです。僕こそ急に話しかけてすみません。このままお宅までお送りしますよ」

「いえいえ結構です。すぐそこですし」

貴方、怪しい人ですし、と心の中で付け加えたのは秘密である。

と、瞳がすっと細められて、バートリさんは苦笑した。

「分かってますよ、でも多分大丈夫です。むしろ歓迎されると思います」

は?何と?

さあ、と私の手を恭しく取り、エスコートするかのように私の実家の方へと歩き始めた。まるでこの道をよく知っているかのように……。何故?


理由はすぐわかった。

バートリさんは……

「急にすみません、渡辺部長。どうしてもあのプロジェクトの責任者にお会いしたくて、ご自宅までおしかけてきてしまいました」

「ああいいんだよ、今日は偶々有休消化で会社に出なかったからね、フェレンツ」

お、おとーさま、彼を呼び捨てだよ!

「文子、フェレンツは父さんが海外からわざわざ呼んできたエンジニアで、今度システム開発のために協力してもらうんだ。失礼などしなかったろうな?」

「は、はい」

はいいいい?

「文子さんは初対面の私が迷子だと思って助けようとしてくれたんです。失礼なんてとんでもありません。心優しい女性だと思います」

日本語を話していても、歯の浮くようなセリフをスラスラと言えるのはやっぱり外国人なんだなあ、と思ったが、この点は突っ込まないでおこう。しかも初対面じゃない(らしい)し。


ちなみに父は某メガバンクの本社でマーケティング部にいたが、只今出向で系列会社のシステム開発会社にいる。父の仕事の事はあまりよくわからないが、とにかく面識があるらしい。世間とは狭いものである。そしてこの二人、仕事中毒同士で気が合うらしく、これから仕事の話をするから、と言って、とっとと外食に行ってしまった。


私と母を置いて。母はもう食事の支度を終えていたのに。父が休日だからと、母が張り切って料理したのは娘の私にはよくわかる。


母は、いつもの事よね、と仕事中毒の父を笑って許しているが、私はお陰様で結婚願望ゼロで育った。

そしてバートリ……今夜の諸悪の根源は奴である。許すまじ!


父はバートリさんに送られて上機嫌で帰ってくると、私を呼んだ。ちなみに夜中の12時近くである。私明日も会社あるんですけど。

「なあに、お父さん?」

「これを渡しておこう、俺が祖母から渡された手紙だ」

ところどころ茶色に変色した1通の封筒。見ただけで年代物と分かる。開けて見ると、英語だった。

「誰が書いたの、これ?」

「まあ読んでみろ」

この時ほど海外旅行が趣味でよかったなと思った事はない。手書きだし古い手紙なのでところどころ読みにくいところはあったが、ラブレターなのは理解した。

「あんまりはっきり書いてないけど、遠距離恋愛の手紙?ひいおばあちゃんもやるわねー、外国人と遠距離なんて」

「いや、祖母はもう結婚していた。これは祖母が着物を仕立てた際、外国のお客様から頂いたお礼の手紙だ」

「あ、読み……間違えたかな。だってここにeternityとか、missing deadlyとかあるから、永遠の愛や想いを告げてるのかと思っちゃった。それにしても、凄いねえひいおばあちゃん。海外のファンがいたなんて、今が今なら売れっ子デザイナー!」

珍しく父は無言でそっとかぶりを振り、その手紙を手元に置いておけ、と私に言うと、じゃあ寝る、と母の待つ寝室へ去って行った。


次の日、仕事を終えて会社の外を出ると、昨日の諸悪の根源に呼び止められた。

「ふみこさん!」

「ああ、バートリさん、どうかしたんでしょうか?」

「フェレンツと呼んでください、ふみこさん」

……それだけの用件で、私の会社に待ち伏せかい?

「はい……フェレンツさん」

そう言うと、彼はにっこりと天使の笑顔で、

「一緒に食事に行きましょう!今夜は何か他に用事がありますか?」

綺羅綺羅年下男性君、独女に平日夜の予定を尋ねるとはいい度胸だ。

「ありません。でもこのまま家に帰ります、母も待ってますし」

「部長から許可貰ってます。お母さんはふみこさんが外食するのをご存知です」

仕事早っ!

「は……はあ。分かりました。じゃあ何を食べましょうか?」

「ええっと、僕はすき焼きを食べたくて……浅草の有名店に予約入れてるんです」

「構いませんよ、ここからそう遠くもないですよね。地下鉄に乗りましょうか」

「分かりました、昨日電子カードを買ったし、使ってみたいです」

「ブタペストの地下鉄も素晴らしいですが、東京のもちょっとしたものですよ」


そう、ブタペストの地下鉄一号線は世界遺産で、ロンドン、イスタンブールに次いで世界で3番目に古く、電気式の地下鉄としては世界初のものなのだ。先日旅行した目的の一つは、その地下鉄に乗る事だった。ブタペストは歴史を感じる美しい街だったなあと旅行のあれこれを思い出しているうちに、フェレンツさんにエスコートと称されて私の腕はしっかりと彼の腕に組まれた。会社の目の前なのに、こ、これは……。誤解というか興味深々の同僚や見知った社員たちがぞろぞろと脇を通って行く。ひどい……。


「フェレンツさん、あのう、腕を組んで歩くのは、日本では恋人たちやカップルと相場が決まってまして」

止めろという意味である、がフェレンツさんはうなづいて、

「ええ、ハンガリーでもそうですよ」

ちがーう!離れろ、と言っているのに、通じてない?

駅に向かって歩き出しながら、私が何気に腕を外そうとすると、フェレンツさんは逆にしっかりと脇を締め、身体を密着させてしまった。

この間にも何人かの社員が脇をすり抜けて行った。ひどい……。私が青ざめていると、フェレンツさんはくすくす笑って、

「大丈夫ですよ、僕、当分東京にいます。渡辺部長とも上手く渡り合っていくつもりですし。だからお付き合いしてください。ふみこさんの恋人になりたいんです」

年下男性が、40代女性にお付き合いの申込?意味わかってやってるのか?これは何の罰ゲームかドッキリだか。

「お断りします」

きっぱり即答する。当たり前だ、ハンガリー語も知らないし、国際結婚だって昨今増加したとはいえ約4%ほどしかない日本。そう、40代にとって「お付き合い=結婚」となるのをご理解いただきたい。

かなりきつい口調で言ったのを、彼はどうとったのか、少し意外そうに、

「ふみこさんは結婚願望がないんですか?」

「(あなたとの結婚願望は特に)ないですね」

「じゃあ結婚抜きで僕と付き合ってもらえませんか」

「無理ですね……大体あんまり外国人に興味がないので……ごめんなさい」

これこそきっぱり断った(はずな)のに、フェレンツさんはにっこりと天使の笑顔を見せた。

「でも僕、ふみこさんの婚約者なんです。付き合ってもらえなくても、結婚はしてもらうんですけど」

はああああああい?!

思わず全身で彼から離れようともがくと、かれはひょい、と組んでる腕をそのまま下へ下ろして私の腰に手をまわし、がっちりホールドしてきた。そ、そんな馬鹿な。個室を取ったので、そこでゆっくり話しましょう、とすき焼き屋さんに着くまで世間話でお茶を濁されてしまった。


具体的な話になったのは、言った通り、個室に通され、注文を終えて二人でお茶を飲み始めてからだ。


「どこから話したらいいのか……。元々僕の曽祖父は第二次大戦前に東京に赴任してきたことがあって、帰国前にお土産がてら着物をあつらえたらしいんです。ご近所で面識のある呉服屋さんに頼んだのですが、店主の奥様は和裁が得意だとかで、曽祖父の為ならとその着物を縫ったんだそうです」

「和服なんて着る外国人がいるんですか」

「そうですね、まあ普段着というか、家の中で軽く羽織るには重宝したようです。実は僕も着物を持ってます、ブタペストで作ったんですが、ごろごろする時に着てるんですよ」

「そうなんですか……。私は着たことがないですね、持ってもないし」

「今はそうみたいですねえ。で、呉服屋の奥様方の姪御さんが、その後ヨーロッパへ旅行に来ていて、曽祖父の娘、つまり私の祖母に会っているんです。女の子同士話がはずんだようで、今度は祖母が日本へ遊びに行く約束をしたのですが、戦争が始まってしまい、両家は音信不通になりました」

あ!昨晩渡されたファンレターはもしかして、フェレンツさんのひいおじいさんから?!

「手紙見ました、1通だけですけど。文通してたんですね、海外のお客さんと」

「お客さん?」

一瞬怪訝な顔でフェレンツさんは私に視線を合わせて、ふっと軽く笑った。私はそのまま、お礼を述べた。

「昨晩父に渡されたんですよ、1通の英語の手紙。熱烈なファンレターに見えました、ご贔屓にありがとうございます!」

呉服屋は戦後の混乱期にとっくに閉めてしまい、父は経済専攻でメガバンクに、私はデザインを勉強したとはいえ結局商社の営業部と、我が家は和服と縁遠い所にいるが、それはそれである。

フェレンツさんは耐えきれずくくく、と笑った。

「ファンね……、ええそうかもしれません。本心からの会話も出来ず、触れることも出来ず、一緒に歩くことさえできなかった時代ですからね、今の僕としては気が遠くなりそうな話ですよ。しかも戦争があった」

「ええ。戦時中(あの頃)は何もかもが狂ってましたし、海外と文通なんて出来なかったでしょう」

「そうですね、痛ましい歴史ですし、戦争は繰り返してはならないと思います」

「その通りです」

全くその通りなので、私はフェレンツさんに同意した。はっきりと、目を見て。すると、フェレンツさんの眼が光った……多分涙ぐんだのかも知れない。

「ようやく戦争が終わった頃には、ハンガリーは共産圏になっていましたし、日本は連合国軍の占領下におかれていたのはご存知でしょう。祖母は最後まで日本の友達を案じていました……そこで、結婚です」

「ああっと……はあ?」

「呉服屋さんの姪御さんも結婚して子供を産み、その子供が今やメガバンク系列会社の部長になってまして……」

「父の事でしょうか」

「そうですね」

「それと婚約云々は違うと思うんですが」

「いえ、姪御さんつまりふみこさんのおばあさまは、ウチの祖母と、お互いの子供を結婚させようと約束してまして、それは両家にて認められていたんです」

「じゃあ、父が結婚すればよかったのでは?!」

これだけ聞くと親不孝の言い草に聞こえるだろうが、私だって必死である。なんでそんな大昔の理由で、目の前のよく知らない男性とケ、ケ、結婚せねばならないのだろうか。断じて否である。

「そうですね」

こ、肯定したな!

しかしフェレンツさんはよどみなく続けた。

「渡辺部長、実はハンガリーに来てるんですよ、若い時。僕の父に会ってまして……。ものすごい偶然で笑っちゃうんですが、大学時代にフィールドワークの一環としてゼミの皆でエトヴェシュ・ロラーンド大学を訪れた際、日本学専攻の講師で僕の父がいて……。日本学科の学生とと日本の学生を交流させたい、と僕の父が日本大使館を訪れたところ、パスポートを失くした友人に付き添って渡辺部長がその場にいたそうなんです」

「……男同士だから結婚できなかった、と言いたいわけ?」

「まあそうですね、僕の父は3人兄弟ですが男ばかり。渡辺部長もお兄さんがいるんですよね、だからまあ年齢的には合うんですが、結婚にはキツイかな、と」

鍋が運ばれてきたので、話が中断した。


その間に頭の中で話を整理する。とんでもない事だが、私のあずかり知らぬところで姉か妹の私かをこっちの坊やと結婚させる話が出来上がっていたらしい。姉は私より3つ上なので、一回り以上年下になるのは辛かろう。いや、一回りでももう流石にキツイ。


鍋と肉、そして野菜などが並べられた。仲居さんが最初お手本を見せてくれる。肉を入れて、割り下を注ぐ。関西とは違い、関東は砂糖などを加えない。割り下と玉子の味で、お肉を食べるのだ。


仲居さんが去った後、話を戻す。

「話は分かりました、でも今更ですよ、大正時代の話でしょう?おまけに、私とフェレンツさんは12歳離れていて、やっぱり次世代を待った方がいいんじゃないかと思います」

私が一気に言うと、ふうっというため息が聞こえた。

「その件、僕も改めて今日渡辺部長に確認しました。曰く、部長もそう思ってたらしくって、だからふみこさんたちに何も話してなかったそうです。僕の両親は結婚後ずっと子供が出来なくて、もうすっかり諦めた時に僕が生まれたそうで、だから世代が少しずれてしまったというか……でも、そんなの関係ないですよ、今時年齢差なんて誰も気にしません」

「そうだったんですか」


他に何も言いようがなかった。これが自分が20代の頃なら、どんなに嬉しいだろう。世代を越え、戦禍を越え、国境を越えた結婚の約束……。まるっきり童話の中でのお話の様だ。そして『二人はいつまでも幸せに暮らしました』となるのだ。そして何気なく囁かれる一言。


「結婚しましょうよ」


言いながら紳士らしく焼いたお肉を寄越してくれる。この点はポイント高いけどね、でも、

「無理でしょう。他に当たってください。今時両家の約束なんて古臭い」


はあ、と今度のため息は大きい。一瞬フェレンツさんの眼が泳いだが、意を決したように口を開いた。

「お願いします、誰にも言わないでほしいんですが……」

いきなり何この重い展開。しかも秘密だと?

「は、はい。ご確約できませんが、努力はしますよ」

「先日遺伝の話をしましたが、僕の家族が他人を見ると、たまに若く見えたり老人に見えたりするんですよね。厳密には曽祖父、祖母、父と僕の妹が出来るようです」

「はい」

「渡辺部長も見えるそうです」

なんと!

「で、『他人』を見ると、と言いましたが、本当は『自分に関わりが出来る予定の』他人を見ると、なんです。曽祖父が呉服屋さんの奥様を見た時、一瞬ご老人に見えたそうです。ただ奥様の姪御さんを見た時は、曽祖父は何も見えなかったようですが、僕の祖母は彼女が子供に見えたんですって」

「なるほど」

「僕の父と部長も、お互いが壮年期に見えたそうです。しかし、どれも結ばれなかった。ある時は既婚、ある時は同性で。僕の父が母と結婚したのも、たまに母が少女に見えたり、老人に見えたからだそうです」

「え……じゃあウチの父も、母の違う姿が見えたって事ですか」

「そのはずですよ。だから僕も驚いたんです、ふみこさんが少女から突然大人に変わった時。父が日本学専攻なので、日本は身近でしたし、日本語も勉強しました。しかし自分がまさか日本人と縁があるなんて知らなかったです。僕、ふみこさんと別れた後、家で両親と話し合ってようやくこの背景を知ったんです」


お肉は柔らかく、割り下はうっとりするほど美味しかった。このままご飯、いやうどんだろう、それに玉子を掛ければ完璧だ……脳内でうっとりとごちそうをならべてみる。いや、いきなり一回り年下の外国人にプロポーズされれば、誰だってこうなると思う。

「ふみこさん?」

流石に意識を飛ばしているのが分かったのが、フェレンツさんは私を呼んだ。

「はい」

「ご理解いただけましたか?」

「……理解は……したと思いますが……つまり、実際の外見と違う姿を見れたら、結ばれる候補になるわけですね」

「そうです。だから、ブダペストの駅でふみこさんの姿が少女ではなくて大人なんだってわかった時、衝撃だったんです。運命の人が日本人(旅行者)で、まさか母国(ハンガリー)で出会うなんて、ロマンチックでしょう」

それは厨二病とも言うが、ややこしくなりそうなので黙った。

「ふみこさん?いや、ふみこ」

ドキン、とした。え?名前を直に呼ばれただけなのに、心臓が跳ね上がった。しかもフェレンツさんは柔らかに私の手を握っている。ど、どうして?

「何ですか、フェレンツさん」

「さんは止めて、ふみこ。遠回りせざるを得なかった僕の曽祖父と君の曾祖母の想いの証、それが僕たちだ。フェレンツと呼んで」

「ふぇ……フェレンツ……」

何気に恥ずかしい……。呼び終えると自分の顔が火照っているのが分かる。なんて初心だ自分。フェレンツはそっと指先で私の頬をなでた。

「ようやく出会えたんだ……ふみこ。僕を信じてついてきてくれ、一緒に人生を歩もう」

心の底からの声に聞こえた。魂が震えるとはこういう事だろう。お互いの魂が共鳴するのが分かる。いや、もう何もかもわからない。だから……

「……はい、フェレンツ」


何でこの口がこう答えてしまったかはわからないが、兎に角私はうんと言ってしまった。実際フェレンツは父の片腕として有能で、この後5年ほど東京にいた。私も籍を入れたものの、フェレンツがハンガリーに戻るまで、OL稼業を続けた。そして……


18歳の長女が顔を赤らめて報告する。

「ねえ、ママ。私、可愛い男の子を見たの……でもその後すぐ、彼は同級生の姿になっちゃって……。これは運命の人って事?」

パパとママの馴れ初めによれば、私、彼と結婚するの?

フェレンツは肩をすくめ、

「駄目だ駄目だ、そんなの。パパとママは、お互いが実際と違って見えたんだから、君の場合は片想いだね。もっと視野を広げて他の男性を探すといい」

あんまり冷たく聞こえるので、長女は口をとがらす。

「そんな!パパってどんな男の子も駄目なんだもん。いい加減目を覚ましてよ。私十人並みの容姿だし、童話の王子様なんていらない。普通の男の子で充分幸せになれるの!」

「何てこと言うんだ、君は美人で性格も頭もいい、パパ自慢の娘だよ。童話の王子だって勿体ないのに、普通の男なんか尚更許せない」

このまま言い合いが始まりそうなので、私が割って入る。

「はいはい二人ともそこまで。ママは18歳の頃は恋愛なんか興味なかったけどちゃんとパパと出会ったし、パパはママが断ってもプロポーズし続けて結局結ばれたんだから、これが運命って意味よ、分かった?」

長女はうっとりと私たちを見つめ、フェレンツはあの頃を思い出したのか目が輝いている。私から見れば、彼らの方が余程童話だ。

「ママー!」

12歳の長男が、9歳の次女と一緒に散歩から帰って来た。何て家庭的な風景。でもこれが幸せ。アラフォーで人生の冬を過ごしてた私に、運命という神様が背の高い栗色の髪の王子様に命じて暖かな童話をくれたって。


そう、そして二人は……

いつまでも幸せに暮らしました

とさ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ