初めての舞踏会9
「ソフィア様、お茶をお持ちしました」
クリスが少し離れたところから声を掛けてきた。没頭していたことに気付いて、少し恥ずかしくなる。
「ありがとうございます。でもそろそろ戻らなくてはいけないのでは?」
ここへ来てからもう一時間は経っているのではないだろうか。
「お戻りにならなくても結構です」
クリスは言いながらテーブルにお茶を用意すると、ソフィアのために椅子を引いて待っている。
どういうことか分からないが、クリスの指示に従うのが良さそうだ、とソフィアは大人しく本を抱えて椅子に座った。
「ソフィア様におかれましては、殿下が来られるまで書庫にてお過ごしいただくようにと伺っております」
テーブルには簡単な食事とティーセットが二人分用意されている。
クリスはソフィアの前のカップに温かいお茶を注いだ。
香り高いお茶だ。色は黄色みの強い橙色。何となく、ミランダの髪の色を彷彿とさせる。
「クリスさん、あの、ミランダ様とウォーレン殿下は、ご婚約はまだされておられないんですよね」
「はい。ミランダ様はジョシュア様とご婚約なされます」
「いつ頃ですか?」
「来月の中頃と伺っております」
クリスは紅茶にブランデーを垂らすと、ソフィアの前に置いた。
「ありがとう」
カップで手を温めたい気持ちをぐっと堪えて、紅茶に口を付ける。
「ウォーレン殿下とミランダ様は年令が同じで、ヘイリー公爵夫人は殿下の家庭教師もなさっておられましたので、お二人は兄弟のようにお育ちになられました。初め、ミランダ様は王太子殿下の婚約者候補だったのですが、公爵様のご意向もあり、そのお話は立ち消えたそうです」
クリスは直立不動で淡々と、ソフィアが遠慮して聞けなかったことまで教えてくれた。
王宮の侍従というのは、一流の気遣いか出来るということなのか。
ワイズリー侯爵家の侍従長とは違う方面で、クリスは有能な侍従だった。
「甘い物もご用意いたしましょうか?」
食べ物に手をつけないソフィアを見て、クリスが尋ねてきた。
「ありがとう、でもいりませんわ」
断って、にこりと笑う。
コルセットにぎゅうぎゅうに締め上げられている時に甘い物を食べるとすぐに気持ち悪くなってしまうのだ。
「サンドイッチだけでも食べていただけませんか? 私が殿下に怒られてしまいますので」
不思議な話だ。ソフィアが食事をすることと、ウォーレンの怒りというのが全く結びつかない。
が、有能なクリスが怒られるのは理不尽なので、ソフィアは頑張ってサンドイッチを摘まんだ。
テーブルは窓際に据え付けられていて、窓からは庭園が見える。噴水を中心に左右対称になっている庭は、よく手入れされており、巷では小枝の向きまで同じになるように植えられているとも言われている。
小さなかがり火に浮かび上がった庭は幻想的で夢物語のようだ。
ぼんやり眺めていると、書庫の扉の方で音がしたので、ソフィアは立ち上がった。
ウォーレンが入ってきて、クリスと何か言葉を交わしている。
クリスが一礼して出て行き、ウォーレンがソフィアの側までやって来ると、ソフィアに座るように促した。
「待たせて悪かったな。思ったより時間が掛かってしまった」
「いえ、問題ありません、ウォーレン様」
ウォーレンはソフィアの向かいの椅子には座らず、ソフィアが座っている椅子の肘掛けに浅く腰掛ける。
ソフィアが見上げると、ウォーレンはその額にキスをした。
――ウォーレン様は私を妾にされるおつもりなのかしら。
黙ってキスを受けながら、ソフィア思う。
ソフィアの何が気に入ったのか、ウォーレンは最初からソフィアに好意的だ。こんな風に男性から好意を示されることに慣れていないせいか、ソフィアには、ウォーレンが何を求めてこうしているのか、さっぱり分からない。
ウォーレンが両手でソフィアの頬を挟む。ウォーレンが手袋を外していることに、ソフィアはその時気付いた。
舞踏会は終わってしまったのだ。ミランダにもう少しまともに挨拶すれば良かったと、今更後悔するが、後の祭りだ。
目と目を合わせていたウォーレンの視線が、不意に外れ、ソフィアの唇に注がれた。
ソフィアの体がびくりと震える。身を引こうとして力を入れると、ウォーレンの体がさっとソフィアに被さってきた。
あ、と声に出す間もなく、ウォーレンが唇を合わせてくる。するり、とソフィアの口の中にウォーレンの舌が入ってきて、ソフィアの舌を舐める。
驚いて手を伸ばす。指先に触れたものを掴んだ。ウォーレンの肩についていた勲章だ。また慌てて手を離すと、唇を合わせたまま、ウォーレンが笑ったのが分かった。
ソフィアの口の中を舌でまさぐりながら、ウォーレンは器用にソフィアの手を掴んだ。手を強く握られて、舌が更にソフィアの口の中深くに潜ろうとする。
苦しさに反対の手でウォーレンの胸を叩くが、ウォーレンはソフィアの手を握っていた手を離して、ソフィアの腰を抱き寄せた。頬に添えていた方の手は、ソフィアの後頭部を支え、唇が離れようとするのを押さえつけている。
ん、と甘い声がウォーレンの鼻を抜ける。その声は、直接触れている口の中を通じて、ソフィアの体を芯から揺さぶった。
知らない感覚に怖くなって、ソフィアは思い切り、ウォーレンの胸を叩いた。唇が離れる。ソフィアは肩で息をしながら、ウォーレンを睨み付けた。
「ソフィア」
ウォーレンが戸惑った声でソフィアの名前を呼び、次いで「すまない」と小さな声で呟いた。
ソフィアの両目から大粒の涙が溢れる。ウォーレンが息を飲み、ソフィアから離れた。
涙は後から後から溢れてきて、ソフィアの頬を濡らし、ドレスを汚していく。
「ソフィア、すまない。悲しませるつもりはなかった」
ウォーレンは言って、ソフィアの椅子の前に膝をつき、ソフィアの顔を見上げる。膝の上できつく握ったソフィアの小さな拳を、両手で包み込んだ。
「泣きやんでくれ、ソフィア。おまえに泣かれたら、俺はどうしていいか分からない」
ソフィアは唇を噛んで必死に泣き止もうとする。それを更なる号泣の前兆と取ったのか、ウォーレンが手を伸ばしてソフィアの頬に触れた。
「何でもする。欲しいものがあるなら買ってやる。だから泣きやんでくれ。俺を叩いてもいいから」
身を乗り出して懇願するウォーレンは、一国の王子とは思えないほど憐れで滑稽だ。そんなことをさせているソフィアは極悪人だろう。
ソフィアはウォーレンの手の中から自分の右手を抜くと、ウォーレンの頬を力なく叩いた。微かな音すらしない平手打ちは、虫が止まったほどの傷みもないはずだが、ウォーレンの顔が辛そうに歪んだ。
「すまなかった。傷付けるつもりはなかった。信じてくれ」
ソフィアは頷いた。涙が乾かないうちは、まともな言葉など出てこない。
「ソフィア」
ウォーレンが片手を伸ばして、ソフィアの濡れた頬を触る。
「ソフィア」
ウォーレンの掠れた声が、ソフィアの中心に波を起こす。波紋は身体中に広がり、ソフィアの体を震わせた。
「ここに、俺の側にいてくれ、ソフィア」
ウォーレンの言葉に、ソフィアは頷く。ウォーレンの顔に安堵が広がり、だが、どことなく苦しそうな笑みが浮かんだ。
「もしも、俺を許してくれるなら、口付けをくれ、ソフィア」
囁くような小声で、ウォーレンがソフィアを見上げてくる。
ソフィアは少し身を屈めて、ウォーレンの頬に手を添える。ゆっくりと顔を近付けて、唇の上に、軽く触れるキスをした。
目を閉じてキスを受けたウォーレンは、ソフィアが唇を離すと、目を開け、まっすぐにソフィアを見上げた。
「しばらく、王宮に泊まれ」
「王宮に、ですか?」
「おまえ達親子の話は聞いている。あの様子ではどんな嫌がらせをされるか分からない。そんな場所におまえを帰らせるわけにはいかない」
そう言われても、とソフィアは困惑する。どう考えても侯爵が許しそうにない。
「侯爵には伝えておく。第二王子でも一応は王族だ。多少の無理は通してみせる」
それではウォーレンの立場が悪くなってしまうのでは、とソフィアが口を開こうとすると、ウォーレンの指がソフィアの唇を押さえ、その動きを止めた。
「頼む、ソフィア」
そう言われると、ソフィアも言葉が出ない。見上げてくるウォーレンは妙に切な気で、ソフィアから思考力と言葉を奪う。
「ウォーレン様のお望みのままに」
答えると、ウォーレンが満足そうに笑みを浮かべた。
「失礼いたします、殿下。お部屋の仕度が整いました」
こちらの様子を伺っていたようなタイミングに、ソフィアは居心地が悪くなる。恥ずかしいのは何故だろう。
「部屋まで送る」
ウォーレンは立ち上がると、ソフィアに手を差しのべる。その手を取って立ち上がりながら、一体いつから、ソフィアが王宮に泊まるという話になっていたのか、クリスに聞いてみたい気がした。