王宮での生活9
ジーナは一度、茶器を下げるために部屋を出た。
ソフィアはぐったりとソファに背を預ける。
クリスが廊下で倒れているのを見て、ウォーレンの怖い顔を見て、ジーナの強張った顔を見て。
一度にたくさん疲れてしまった。
カレンが淹れてくれた爽やかな香りのするお茶を口に含み、ゆっくりと飲み込む。
すっかり冷めてしまった。
ソフィア自身は悲しいかな、蔑まれたり、悪意を向けられたりすることが多い。その度に、気付かない振りをしたり、その場を逃げ出したり、上手くはないが対処出来るようになっていた。
人に向けられる憎しみの感情に触れることが、これほどまでに辛いものだと思わなかった。
舞踏会でのミランダが顔を歪めていたのは、堪えかねてのこと。
祖父が止めてくれなかったら、皆が不快になっていただろう。
後で祖父にも礼の手紙を書いておこう、とソフィアは思い、テーブルに残されたお菓子を摘まむ。
硬く焼いた小さな白い菓子は、口に入れると、すっと消えてしまい、後に甘い味と香りが残る。初めて食べる菓子だ。名前も分からない。もう一つ、口に入れた。口の中で幻のように消える甘い菓子に、ソフィアは知らず笑みを浮かべる。ウォーレンも食べたら美味しくて笑顔になってくれるのではなかろうか。
ノックがあり、ソフィアが「どうぞ」と答えると、ジーナが一輪の花を持って入って来た。
「ウォーレン様からソフィア様にとお預かりしてきました」
「ありがとう」
ソフィアは花を受け取る。
花の茎にはカードが結び付けられている。
“ソフィアへ
怖がらせてすまない
ウォーレン”
走り書きのカードを花に結び付けているのは、先程までウォーレンがしていた細いタイだ。
ウォーレンの、体は大きいのに繊細な気遣いに、ソフィアの体は小さく震える。
嬉しくて身震いすることもあるのだと、ソフィアは知る。
「何かお返しをしたいのだけれど」
「お返しを?」
言ってみたが、考えてみれば、ここへは身一つで泊まっているのだ。返せるようなものは何も持っていない。
「いえ、何でもないの。気にしないで」
ジーナに言って、ソフィアは花を見ながらため息をつく。
ウォーレンは、欲しいものはないか、望みは何か、と訊いてくれるが、ソフィアは答えられずにいる。
モリーはよく、男なんて女がかわいくおねだりすれば簡単に言うことを聞くものです、と言っているが、具体的にどうするのがかわいくて、何をねだるのが良いかまでは教えてくれなかった。
ウォーレンもソフィアから何かをねだられたいのだろうか。
けれどウォーレンはソフィアが望むよりも多く、ソフィアが願うよりも早く、色々な物を与えてくれる。
感謝が追い付かなくなるほどの早さと量で、ソフィアは戸惑うばかりだ。
優しい声で名前を呼んでくれたり、舞踏会ではダンスに誘ってくれた。寒いからと肩掛けを貸してくれて、お茶を一緒に飲んでくれた。これ以上、何を望めと言うのだろう。
「ソフィア様」
ジーナから声を掛けてくるのは珍しい。
「はい」
「刺繍などはいかがですか?」
「刺繍?」
「はい。ハンカチの隅に何か刺繍して、それを贈れば良いのではないでしょうか」
お返しをしたい、というソフィアの言葉に対する助言だと気付いて、ソフィアは喜んで頷いた。
「では、道具をお持ちいたします」
ジーナが部屋を出た隙に、ソフィアは花からタイを外し、机の上に便箋を敷いた。花を置き、上からまた便箋を被せ、部屋にある一番重い本を載せた。押し花にすれば、日が経っても花を楽しめる。
午後の間、ソフィアはずっと刺繍をして過ごした。
晩はジーナとカレンに見守られながら食事を摂り、湯を使い、寝間着を着てからもひたすら刺繍をして過ごした。
ジーナが寝るようにと、明かりを強制撤去して、やっと今日中に仕上げることを諦めて、ぐっすり眠った。