王宮での生活2
ウォーレンは無言でソフィアの周りをくるりと回った。
「ウォーレン様?」
不安になったソフィアの正面に戻ってきて、ウォーレンは少し笑った。
「似合うな」
「ありがとうございます」
ウォーレンはソファにソフィアを座らせると、隣に座った。ウォーレンの服も正装ではなく、部屋着と思われるゆったりとしたシャツにズボンを履いていた。
テーブルには何冊か本が広げられており、ソフィアが見ていた地理の本も開いてあった。
随分待たせてしまったらしい。化粧を直すのにあんなに時間が掛かると思わなかった。
「あの、お待たせしてしまって申し訳ありません」
「俺が好きで待っていただけだ。構うな」
乱暴な物言いだが、これがウォーレンの優しさなのだと思ったソフィアは礼を言うべきか、もう一度謝るべきか、迷ってしまう。
「シシリィ湖の話をしてくれる約束だったな」
ウォーレンはソフィアの手を取り、指先にキスをした。
手袋を外しているので、直接触れる唇の温度まで分かってしまう。恥ずかしさに頭の中がぐらぐらと揺れる。
「ソフィア」
耳元で囁くように名を呼ばれ、本能的にソフィアは身を引こうとして、派手に肘掛けにぶつかった。うぐ、と変な声まで出てしまい、涙目になる。
「往生際の悪いご令嬢だな」
まるきり悪役の台詞を笑いながら呟いて立ち上がり、ウォーレンは向かいのソファにだらしなく寝そべった。
「子供の頃に行ったと言っていたな。いくつの時だ?」
「8歳です。祖父のノリス男爵とエイベル子爵は、戦で知り合い、釣りの話で仲良くなったそうです。それで、鱒で有名なシシリィ湖に、祖父を招待してくれたそうで、私も祖父に連れて行ってもらいました」
オーネリーの誕生日間近で、ソフィアはその時期はいつも一人ぼっちになってしまう。
元気のないソフィアに同情した当時のお付きであったカレンが、祖父に連絡してくれた。
屋敷から離れられること、大好きな祖父と一緒にいられること。浮かれたソフィアは、祖父の制止も聞かず、釣り船から大きく身を乗り出し、そのまま湖に転落した。
「ソフィアは泳げるのか?」
「子供の頃は川で泳ぎを習いましたが、湖で溺れてからそういったことは一切やらせてもらえなくなりました」
「そうか。まあ、泳ぎは一度身に着けたら忘れないらしいから、その気になれば泳げるかもしれないな」
そうだと良いけれど。
あの頃に始めた乗馬も結局、少ししか習えなかった。
「ミランダの話では、あまり外出もしていなかったようだな」
「はい。外に出るのはお茶会に呼んでいただいた時ぐらいです」
「舞踏会でも見掛けなかったから、令嬢達の間では噂になっていたとか」
「噂でございますか」
「あまりにもどんくさくて踊れないんじゃないか、とな。連中、今夜は度肝を抜かれたろうな」
ウォーレンは快活に笑う。
それにしても不名誉な噂を立てられているものだ。確かに舞踏会はオーネリーと時期を合わせるために参加してこなかったが、お茶会では大きな失敗もなくやってこれていたと思うのに。
「だが、侯爵夫人の態度はいただけないな。よく今まで夫人でいられたものだ。俺ならとっくに離縁しているが」
ウォーレンは行儀悪く、寝転がったまま、テーブルの上の皮の剥かれていない林檎に手を伸ばし、そのまま食べ始める。
「その、プリシア様に悪気はないのです。ただ、ウォーレン様にオーネリーを気に入っていただきたくて」
「ならオーネリーを褒めていればいいだけだろう。何故おまえを貶めるようなことを言う必要がある?」
「それは」
単にプリシアがソフィアを嫌っているだけだが、それを言うべきでないことも、ソフィアには分かっている。
ウォーレンはシャリシャリと音を立てて林檎を食べているが、どことなく機嫌が悪い。
「申し訳ありません。戻ったらプリシア様には伝えておきます」
消えそうになりながら、ソフィアは言った。
「まあ、いい。ソフィアは、普段は何をして過ごしているんだ?」
「お茶会がない日は、本を読んだり、刺繍をしたり、時折、温室で花を見たりしております」
「ああ、ワイズリー侯爵家の温室花は若い女の間で流行っているらしいな」
知らなかった。
お茶会に呼ばれる度に持っていくからだろうか。
温室がある屋敷は貴族の中でも珍しく、花は女性に喜ばれるので選んでいるだけだが、これは持たせてくれる侍従長にも伝えておかなくては、とソフィアは思う。
きっとあの無表情な侍従長も喜ぶに違いない。
「ソフィア」
「はい」
「婚約者はいないという言葉に嘘はないな?」
「はい」
「そうか、それなら問題ない」
ウォーレンは起き上がるとソファに座り直した。
「これからの予定だが」
「はい」
「婚約式は来月中。結婚式は早くて半年、遅くとも来年には出来るようにするつもりだ」
「はあ」
ウォーレンがソフィアを見る。
「なんだ?」
「いえ、何でもありません」
ウォーレンはしばらくソフィアを見ていたが、ふぅ、と大きなため息をついて、立ち上がる。
「はっきり言わないと分かってもらえないというのは本当らしいな」
ウォーレンは不貞腐れたような顔で、ソファに座っているソフィアの前に片膝をつく。おもむろにソフィアの手を取った。手の甲にキスをする。
「結婚してくれ、ソフィア。必ず幸せにする」
呆気に取られたソフィアは、ぽかんとウォーレンを見返した。
ウォーレンが吹き出した。
「何という顔をするんだ」
「だって」
「俺はきちんと言ったぞ。側に居てくれとも、キスをくれとも。おまえは誰に言われても頷いてキスをするのか?」
そういう意味だとは考えていなかったのだ。
ソフィアの身の振りはソフィアに決定権がない。希望を述べることは出来ても、侯爵の一存で全て決まってしまう。
頷いて良いものかどうかが分からない。
侯爵は知っているのだろうか。どう考えているのだろうか。
もしもソフィアの出した答えと侯爵の出す結論が違ったら、どうなるのだろう。ウォーレンに嘘をついてしまうことになるのではないだろうか。
色々考えていたらまた泣きそうになってきた。
「ソフィア、俺のことが嫌いか?」
ウォーレンがこちらを伺うように見上げる。
ソフィアは首を横に振る。
「好きな男がいるのか?」
「ウォーレン様」
「なんだ?」
「いえ、あの、」
好きな男と言われて、思わずウォーレンの名前を出してしまう。
言ってから、自分がウォーレンのことをどう思っているのか、分かった。
初めて家族以外で好きになった人。
ウォーレンはじっとソフィアを見ていたが、はっとした顔になり、ソフィアを見る。
顔が赤くなるのが、自分で分かる。それをウォーレンがじっと見ているのが分かる。
ソフィアはウォーレンの手を振り払うと自分の顔を覆った。
ウォーレンがソフィアの手を顔から引き剥がそうとするが、頭を振って拒否した。
恥ずかしさのあまり死んでしまいそうだ。
「ソフィア」
ソフィアはイヤイヤ、と頭を振る。
ウォーレンが「ああ、もう、分かったから」と言って、顔を覆っている手ごと、ソフィアの頭を抱き締めた。
「分かったから。あまり可愛いことをするな」
ソフィアの頭にキスをして、ウォーレンは大きく息を吐き出すと、くつくつと喉の奥を鳴らすように笑い出す。
「良かった」
どういう意味だろう、とソフィアの手が顔から離れる。ソフィアの頭は完全にウォーレンの腕の中に収まっているので、手を離してもウォーレンの顔は見えない。
ウォーレンはソフィアの髪を撫でながら、耳元に囁いた。
「俺だって好きな女に結婚を申し込むのは緊張する。ソフィアが俺のことをどう思っているのかも分からなかったしな」
ウォーレンの申込みなら大抵の女性が受け入れると思うが、それでも緊張するのなら、ソフィアなど申し込むことを考えただけで死んでしまうに違いない。
「侯爵やオーネリーのことは俺に任せてくれ。おまえはただ、俺の側で笑っていろ」
邪魔にならないところで大人しくしていろ、ということだろう。
ソフィアは素直に頷いた。
「いい子だ、ソフィア」
甘く囁きながら、ウォーレンの手はソフィアの背中を撫で下ろす。
ソフィアが、いつのまにか一つのソファに身を寄せ合って座っているウォーレンの顔を見上げようとすると、ウォーレンの手がソフィアの後頭部をがっしりと掴んで、それを阻んだ。
「あの、ウォーレン様?」
「駄目だ。今は、見ないでくれ」
どういうことか、とソフィアはウォーレンのシャツの端を摘まんで引っ張る。
気付いたウォーレンがまた笑う。
「本当に可愛いな、ソフィア」
参った、と呟いてウォーレンはソフィアの体を離し、瞳を覗き込むようにして視線を合わせる。
唇と唇を合わせるだけのキスをして、ウォーレンは困ったような顔をした。
「ソフィア、俺はおまえを誰よりも大切にすると誓う。傷付けたくはないし、幸せにしたいとも思っている。だが、俺の欲を、おまえは嫌がるのだろうな」
話の終着点が見えず、ソフィアは首を傾げる。
ウォーレンはソフィアに泣くなと言っていたが、今はウォーレンのほうが泣きそうな顔をしている、とソフィアは思った。
どうすれば笑ってくれるだろうか。
ウォーレンが笑うと、ソフィアは嬉しい。心の中がふわふわとして、ソフィアも笑顔でいられる。
「俺は、」
ウォーレンは一瞬、ひどく辛そうな顔をした。
「もっと早く出逢いたかった」
言っても仕方ないことだと、ウォーレンも分かっている。だからこそ、こんなに辛そうな顔になるのだろう。
「もっと早く、おまえが、男を知る前に、」
苦しい言葉に、ソフィアも辛くなってきた。
もっとも、彼女には『男を知る』という言葉の意味は分からなかったのだが。