風と共に、2
「スカーレット、これからは具体的にどこに行くつもりなの?」
「とりあえずは帝都に行ってみるつもりじゃ」
「帝都?」
「ミシェルの師が帝都で店を構えておるのだ」
初耳だ。だが、それならまだ誰もいないところに行くよりはずっと安心できる。
「そう」
「それについて、姉上のお力を貸してはくれぬか?」
「どういうこと?」
「王国を出る時はミシェルの手形で出られたが、ここから先、帝都に行くまでの検問は分からぬ。ミシェルの手形でも行けるかもしれぬが、姉上の印璽で、身分を保証して貰いたいのだ」
確かにソフィアは印璽を持っている。持ち出してきた。ソフィアのために作られたもので、他人が使うものではないからだ。例えソフィアが王家から排斥されたとしても、この印璽は消されるだけで、誰か別の人の手に渡ることはない。
「分かったわ。ミシェルとその弟子が世界で服飾の修行をすることを認める文書を作りましょう」
扉から顔を出して、使用人から紙とインクとペンを貰った。
書面の内容を考えて、丁寧に紙に記す。
少しでも大切な人の助けになるために。
「こんな感じでいいかしら?」
スカーレットに見せると、笑顔で頷いた。
首から下げていた印璽にインクを付け、文書の最後に押しつける。
インクが乾くのを待つ。
スカーレットが口を開いた。
「姉上も、王国に戻れば我のことは忘れると思う」
「そんな」
「それで良いのだ。忘れてくれれば、我はそれで幸せなのだ。もう小さく哀れな蛇姫はおらぬし、王家の誰かが罪を犯すこともない。温室で暮らしていた時、我はとても不安であった。今はとても心が穏やかなのだ」
スカーレットの言葉に嘘はない。それが伝わる表情と声。王妃陛下譲りだ。
「スカーレット、私が出来ることはある?」
「姉上、ウォーレン兄上と仲良くして、出来れば子供も産んでほしい。それでもし娘が生まれたら、スカーレットの名前を付けてほしい。我の分まで可愛がってほしい」
スカーレットの細い体を抱き締める。
「姉上、ここに来る途中で姉上の母君に会うた。なかなか肝の座った方であるな」
「そうですね。男爵位といっても貴族です。その生活を全て棄てて嫁ぐことなど母以外に聞いたことはありませんから」
苦笑いをする。祖父も長く添い遂げられるとは思っていなかったようだ。だが、ローズはやってしまった。
「姉上は、母君に、ローズ殿によく似ておられる。きっとこれから先、何があっても胆力で乗り越えていけると思う。だから、我も安心して兄上や王国を任せて行けるのだ」
スカーレットが書類を丁寧に畳むと、外套の内側に忍ばせる。
「もう、行くの?」
「ああ。ウォーレン兄上がすぐに来るであろうからな。兄上はせっかちだし、辺境伯は美丈夫と王国でも噂だ。嫉妬心の塊のウォーレン兄上に堪えることなど出来ぬ」
ミシェルも立ち上がった。
「ミシェル! 寂しくなるわ」
「ソフィア様、くれぐれも胸元の大きく開いたドレスはお召しになりませぬよう」
「本当に、そればっかりなんだから!」
涙を指で払って怒った口調を作った。
二人は修行の旅に出るのだ。今生の別れのような涙は不吉過ぎる。
「見送るわ」
「うむ。だが、あまり大仰にすると伯も不審に思う。それは避けたい」
「そうね」
扉がノックされた。
「ソフィア姫、お菓子をお持ちしました」
リサだ。お茶もお菓子も最初にいただいたが、と不思議に思って扉を開ける。
リサが焼き菓子の入った籠を持っている。皿の中身は焦げたりいびつだったりで、あまり人に出す物ではないように思う。何というか、蛇が釘を飲み込んだような形だ。
リサの後ろから、あの怖い使用人が心配そうにこちらを見ている。
「私が焼いたのです。よろしければ妹姫様に」
リサの心遣いか。彼女の生国では、主人自らが手料理をふるまうことが、最大級の歓迎なのかもしれない。
「ありがとう。ただ、彼女達はもう出発しなくてはいけなくて」
「では、このままお持ちください。籠は返すをしなくて構いませんから」
リサは気取らない笑顔で言った。籠の上に埃避けの布をかける。拙い言葉遣いでも、リサはとても魅力的だ。心根の美しさが滲み出る。
「お見送り、私もご一緒させてください」
「ええ。用意は出来た?」
「ああ。問題ない」
部屋からスカーレットとミシェルが出てきた。スカーレットはベールを被っている。
リサを先頭にして屋敷の中を進み、正面玄関に停めた馬車が目につく。
王家の馬車ではない。ミシェルの物であろう、商人が使う馬車だ。
城から出るのも命懸けであったに違いない。スカーレットを思うと、涙が溢れそうになる。
「では、姉上。先に王都で姉上を出迎える準備をいたしますので」
「ええ。陛下と殿下によろしく」
馬車に乗り込むスカーレットの手を強く握る。
「ミシェル、スカーレットをよろしく」
御者席におさまったミシェルに言うと、ミシェルはニヤリと笑った。
「はい。お任せください」
力強い。きっと大丈夫だ。スカーレットもミシェルも、きっといつか、王国に戻って来る。
リサが何か言って焼き菓子の籠をスカーレットへ手渡した。
スカーレットは頷いて受け取っている。リサの言葉は聞き取れなかったが、スカーレットには伝わっているらしい。リサの生国の言葉だろうか。
馬車が動き出した。門を越えて、森の方へ向かって行く。そこから大回りして帝都を目指すのだろうか。
「ソフィア様、妹姫様は長く患っていらっしゃったのですか?」
リサに突然話し掛けられて、驚いた。
「え?」
「ソフィア様よりもずっと白い手をされていました」
患って、といえば、確かにそうかもしれない。呪いも病のようなものだ。
「ええ。生まれてからずっと。でも、きっともう、大丈夫ですわ」
答えた時、強い向かい風が門から吹き込んできた。思わずソフィアは目を閉じる。
風が止んで、そろり、と目を開けた。森の緑が濃い。森の深い緑の向こう側をじっと見る。
何かを見ていた。
「ソフィア様、スカーレット様の馬車、見えなくなりましたし、お部屋に戻りませんか?」
そうだ、スカーレットを見送っていたのだ。
ゾッとした。
一瞬で、自分が何をしていたかを忘れるなんて。スカーレットの名前も存在も忘れるなんて。
忘れることなどないと思ったのに。
これがきっと、呪いというものなのだ。人の意志も思いも何もかもを越えてしまう、恐ろしいものだ。
覚えている間に、書かなくては。スカーレットのことを。何かに書き留めて、覚えておかなくては。
「リサ様、一緒に来てください。私、スカーレットのことを手紙に書きます。それをリサ様に託します。私が忘れてしまう前に」
リサの手を引いて、来た道を戻る。屋敷の中の、先程までスカーレットとミシェルがいた部屋で、紙とペンを手に取る。
スカーレットは義理の妹で、ウォーレンの妹で、王家の秘匿の姫であり、蛇姫であり、王家の呪いを受けて生まれた姫である。その呪いが解けたために、皆から忘れられていく姫である。
風が吹くと消えてしまう陽炎のような記憶を必死に繋ぎ止めながら、ソフィアはペンを走らせた。