きっとこれからもあの人は走り続ける。そして俺は・・・
この物語はフィクションであり、登場する人物名、団体名等は
全て創作上のものです。
(いつもは殆どすべて創作しますが、
地名等を今回に限り実際の名称をいくつか使わせていただきます。)
また作者は陸上未経験かつ消防関係者でもないため、
その辺りに関して一部不自然な描写があるかもしれませんが、
お許しください。
「4番目に鶴見中継所に登場したのは
何と昨年19位と大ブレーキだった本山学院永井健介!
今年は主将としての意地で3強に45秒差と食らいつきました!!
彼について本山学院高校時代からの後輩たちはこう話します。
『永井さんはどんな苦難の中でも、
決して挫けることなくいつも走り続けていた。
あの東日本大震災で寮の麓の町が津波に飲み込まれ、
みんなの心が折れてしまったいた時も、
瓦礫の中たった一人走り続けていた。
自分たちはその後ろについていくことで
何とかもう一度走り続けることが出来た
あの人が大学が始まる5月始めまで
ずっと今まで通り走り続けて
自分たちを背中で引っ張ってくれていなかったら、
その年の都大路も、
次の年の全国制覇も絶対に不可能だった。
昨年はああいう結果になったが、
今年こそ主将はやってくれます。
本山学院悲願の初優勝は
あの人から始まるんだと
メンバー全員、確信している!』
力強く言い切ってくれました!!
その予想通り、1区永井、
堂々4位で襷渡しを終えそうです!!!」
「あ、思い出した!
『被災地を駆ける希望』って
神戸新聞の連載に
この主将さんの話が乗ってたんやったわ!!
切り抜き、もって来るからちょっと待っとき。」
いよいよ主将が襷渡しをするという場面なのに
そんな風にごそごそしだす、
マイペースなお袋。
・・・さっきまで健介さんのこと、
完全に忘れてたんちゃうかったんか?
そろそろ教頭になるらしいけど、
本当に大丈夫かこの人?
母親の思考回路に若干呆れながらも、
さてさっきのコメントを言ったのは、
明日6区にエントリーされている広瀬か、
それとも9区復路エースの小野か、
はたまた補欠の春山か、
と本山学院大学に進学した、
懐かしい同級生・後輩達の顔を思い出していた。
みんな、あの日の健介さんの走りを見て、
次の日から一緒にその後ろについていったメンツである。
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東日本大震災の翌日も、
結局駅伝部員は前日同様、
避難所運営作業に忙殺されたため、
まともに健介さんに話を聞くことも出来なかった。
ただ辻監督に頼み込んで、
健介さんと一緒にならということで、
ロードワークの許可をもらったのだった。
そして次の日、健介さんがいつもロードワークに行く
時間に玄関で待っていると、
良く一緒に走っていた春山たち補欠組に加えて、
何と小野や広瀬、そして留学生のカリキを含めたレギュラー組まで
総集合していたのだった。
誰もが不安で、でも動きたくて仕方がなくて、
同時に何も言葉が出ないというある種異様な雰囲気だったのだが、
その様子を見た健介さんは
「道がひび割れたりしているから、気を付けろよ。」
というだけで、
本当に『いつも通り』走り始めたのだった。
その日走った道中のことは、
色々ありすぎて覚えていない。
壊れ、流された多くのモノ、
怒り悲しみ涙するヒトたち、
そしてそれでも昇る朝焼け。
みんなそれぞれ、
遠く離れた両親が恋しい奴、
地元で家族が無事かも分からない奴、
事情はまるで別々で、
途中でむせるような声も集団の中から
聞こえてきたけど、
それでも俺たちはひとつになって、
ただただ走り続けた。
走り終わって、
集団の輪が解けて、
誰かの嗚咽が漏れだした時、
他の連中の涙腺も止まらなくなった。
とにかく泣きたくて、叫びたくて仕方がなくて、
でも一人じゃなくて嬉しくて、
本当に何が何だか分からないけど、
でもとにかく俺たちは『走る』しかないんだと、
そう思うことが出来た。
その次の日からも集団でのロードワークは続いていった。
決して全員が参加できた訳じゃなくて、
そもそも親が迎えに来て一時的に避難する奴もいれば、
実家に帰ってそのままそっちの高校に転校することになった奴、
・・・詳しい事情は聴けなかったが恐らく家族が津波で流され、
親戚の家に引き取られた奴もいて、
少しずつ集団は小さくなっていった。
でも抜けた奴、
恐らくこれから本当に大変な奴でらさえも、
「俺、向こうでも走るよ。」
そう言い切っていた。
だからこそ俺たちは未だ捜索活動、
瓦礫撤去がなかなか進まないあの場所を、
健介さんの後ろを、
必死に走り続けたのだった。
健介さんは本山学院大学への内部進学が決まっていて、
3月中にそっちの寮に入寮して構わなかったのに、
大学の講義開始が5月の連休明けになるというのを名目に、
ずっと俺たちと一緒に走ってくれた。
最後その日新幹線で東京に行くという日も
ロードワークをこなし、
「これからも大変だろうが、
都大路諦めるなよ。
俺も箱根目指して頑張るから。」
そう俺たちに伝えて旅立っていった。
健介さんの言葉を胸に、
その後も俺たちは走り続けた。
勿論健介さんのように全員が毎日という訳には
いかなかったけど、
俺たち補欠組と後にスーパーエースとなるカリキを中心に
誰かが必ず瓦礫の中、
それが片付いていく中、
底上げ工事が始まる中、
復興に向けて本当に少しずつ進んでいく町の中を、
日々共に走り抜けた。
それはその年の都大路入賞、
次の年の全国制覇、
そして俺たちが卒業した今でも
後輩たちによって続けられているらしい。
あの人の走った『日常』は
今も多くの人間の日々を支え、
そして受け継がれているんだ。
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「
永井健介、最後の走り、堂々の4位で今、襷リレー!
2区のエース区間を任されました3年生平井の、
背中をポーンと叩き、
大役を果たし終えました。
1区永井の予想を超える快走で、
昨年2区で15人抜きの激走を見せたスーパーエース、
カリキ・カレミを5区山登りに配置転換した策が大きく生きてきそうです!!
本山学院大学、古豪復活、
そして悲願の初優勝に向けて
非常にいいスタートを切りました!!!」
「健介さん、本当にお疲れ様。」
20kmを超える長丁場をいつもの全力の走りで
駆け抜けた健介さん。
見覚えのあるメンバーに支えられながら、
疲れ切った、
それでいて充実感に満ちた表情を見て、
本当に自分のことのような嬉しさが込み上げてくる。
道を分かった自分がその場にいないのは仕方のないことでは
あるけれども、
尊敬する先輩にこの喜びを伝えられないのが
どうにも歯がゆいと思えるほど、
俺は画面の中に没入していた。
「あー、あった、あった、これや。
いやー、あんたらが優勝した時に連載があったんやけど、
見せるの忘れてたわ。
やっぱりすごい立派な先輩なんやねー。」
「・・・本人は単なる『ランニングバカ』を自称していたけどね。
まあ、でもホンマ、健介さんも、カリキ達もホンマすごいよ。」
そんな俺の感慨など気にも留めないお袋が、
例の記事を入れたスクラップブックを手渡してきたことで、
俺のトリップ状態は強制的に中断された。
・・・正直もう少し、
この感動に浸っていたい気分ではあったのだが、
まあ、これはこれで宮城にいては見れないもんだし、
ありがたく見させてもらうおう。
俺はそう気を取り直すと、
俺が高校3年生の時、
石巻本山学院高等学校の全国高等学校駅伝競走大会、
通称都大路での活躍に合わせて作られた、
神戸の地方紙の特集を捲っていった。
その記事は辻監督や当時の優勝メンバーとその家族、
駅伝部のOBや関係者たちへのインタビューを中心に纏められており、
健介さんも東日本大震災の時の主将ということで、
後輩たちの活躍について話を聞かれていた。
石巻本山学院の全国大会での活躍は大きな注目を集め、
俺たちの走る姿が町の復興のシンボルと言われるようになったことから、
新聞の取材も何度か来ていたようで、
この記事もその一つなんだろう。
河北新報や石巻日日新聞など東北の地方紙が中心だったから、
遠く石巻まで、神戸新聞の記者が来ていたというのは少し驚いたが、
だからこそ俺が取材を『受けずに済む』よう監督達が配慮してくれたのは、
正解だったのかもしれないな。
まあ、俺の出生に関わる色々や、
あの日の『無茶』について根掘り葉掘り聞かれるよりも、
全国の舞台で宮城の復興をアピールしたカリキ達や
その土台を作った健介さんたちの話が載る方が絶対に意味があるだろう。
そんな風に当時を懐かしく、
同時に遠く離れた過去として振り返りながら、
記事を捲っていたのだが、
そこに書かれた健介さんの何気ない言葉の中に、
決してそれが「過去」などではないというメッセージが
俺の心に突き刺さってきた。
『俺の走りがみんなを勇気づけたみたいな話が
出回っているみたいなんですけど、
本当は違うんです。
俺もあの日の津波に飲み込まれていくのが、
とてもショックで、
すぐには走ることなんて考えることは出来なかったんです。
でもその日「後輩たち」が地域の人たちのために、
「危険も顧みず」走り回っているのを見て、
俺も「俺が出来る走り」をしなくちゃと思ったんです。
だから本当にすごいのはやっぱり「アイツら」なんですよ。』
知らない人にとってこの言葉は
寮での避難者対策に走り回っていた時のことを
書いているように思うだろうし、
実際そう聞こえるように健介さんは話している。
でも「危険を顧みず」の部分から、
「後輩たち」として彼が語ったのが誰のことなのか、
俺だけは、
いや、あの日あの場所にいた俺たちだけには気づくことが
出来るようになっていた。
あの健介さんの「走り」を生んだのが、
俺だったなんて、
そんなこと俺には一度も・・・
あの日、津波に飲み込まれようとする町の中、
アイツを、彼女を救うために、
俺がやらかした「事件」。
それは俺の出生に関わる事情もあり、
関係者の中だけに伏せられていたことから、
俺もそれを過去の出来事として半ば忘れかけていたのだが、
偶然見つけた記事にある先輩の言葉、
そして先ほどまで目に焼き付けていた彼のラストランが、
それが今も息づいていることを俺に静かに、
しかし明確に指し示したのだった。
2015年1月2日。
阪神淡路大震災、
そして俺の誕生から20年目を迎えた正月は、
風物詩たる箱根駅伝の盛り上がりと共に、
止まっていた「何か」が動き始めていたのだった。
念のため、新聞は実際に存在する名前を使わせていただきましたが、
そんな記事はありませんので、ご注意ください。
今回いつもとは作風を変えて現実のあれこれを
作品に取り込ませていただいているのですが、
どこまでやっていいものか、
悩みますね。
まあ、阪神淡路大震災から20年、
自分にとっても節目になっている
年の始まりとして色々挑戦させて
いただければ幸いです。
大分ながくなってしまいましたが、
ようやくプロローグに近い、
「先輩」に関する章が終わりました。
この後「家族と故郷」「憧れと誓い」
「彼女と自分の居場所」「事件と決意」辺りをテーマに
できれば3月11日、もう一つの震災の日までにまとめたいのですが・・・
まあ、まだ色々定まっていないので、
無理のない範囲でやりたいと思います。
1日が無駄に長くなるのは処女作「いつかまたあの公園のベンチで」
以来の悪癖ですが、
「時空を繋ぐ願い」がこの作品のテーマでもあるので、
主人公の過去と現在を渡る思い巡りに、
皆様どうぞゆんるりお付き合いいただければ幸いです。
次は主人公の故郷を自分の故郷である神戸をモデルに書いていきます。
どうぞお楽しみに。