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「いらっしゃいませ」
少し早い時間に到着したせいか、ASHITAには他にお客さんはおらず、あたしたちはいつもの様にカウンターの左端に並んで腰かけた。
「暑かったでしょう」
そう言ってマスターがおしぼりを出してくれる。蒸し暑い中を歩いてきたので、冷たいおしぼりを出されて少しだけほっとした。
「まだまだ暑いですね」
じっちゃんは世間話するみたいに、のんびりとマスターと話をしている。
あたしは手持ち無沙汰みたいに、カウンターに置かれたお酒のボトルをぼんやりと眺める。いつも注文するお酒はシンプルなものが多いけど、今日はなんだか凝ったカクテルが飲みたいなぁと思った。
目の前にナッツの入ったお皿が置かれ、「お決まりですか?」とマスターが声を掛けてくれる。
「ギネスの生を」
じっちゃんはいつもと同じ注文をした
「炭酸ベースの甘くてスッキリしたもの、作っていただけますか?」
マスターは静かに頷く。
「へー、そんなの飲むんだ。珍しいね」
世間話のついでみたいに、さして興味もなさそうに聞いてくるじっちゃんに
「たまにはね」
とにっこり返してみた。今日はいつもと違うものが飲みたくなったのよ、誰かさんのせいで。と心の中で付け足す。
「ビール好きじゃないもん」
視線をじっちゃんの胸元から手の方に移しながら言い訳みたいにつぶやく。
「ミオは苦いの苦手だもんね。甘すぎるのも好きじゃないけど」
じっちゃんが付け足す。じっちゃんはビールも好きだけど、甘いジュースみたいなカクテルも好きだ。
「あんなに甘くてドロドロしたお酒、最後まで飲みきれないもん」
「それが美味しいのに。でも1口は飲みたくなるんだろ?」
実はじっちゃんが甘いカクテルを注文すると、いつも1口貰っているのだ。
「ふふ。いつもありがとう」
そんな会話をしていると、コトリと目の前にビールとカクテルが置かれる。
「オレンジベースのリキュールに炭酸を加えたものになります」
そうカクテルの説明をして、軽く頭を下げてマスターは行ってしまった。
ここのマスターはどんな時でも無駄に話しかけてきたりはしない。でもタイミングよく声をかけてくれたり、さりげなく必要なものは出してくれる。
ちいさく乾杯をして、1口くちを付けてグラスを置く。それからカウンターの奥のボトルに目線を移した。
「何で、結婚・・?」
「ん?、結婚したいな、ミオと。って思って」
ドキリとした。酔っ払ってなんかいないのに、ほっぺたが赤くなるのを感じた。心臓がドキドキ言って、じっちゃんの方を見れない。
テーブルの上に置いて軽く組んだ自分の手を見ながら、頭をフル回転させた。この人は、あたしと結婚したいって言ってくれている。でも、何で結婚?
「付き合うん、じゃなくって、結婚?」
「・・今まで付き合ってみて、付き合うっていうより結婚の方がいい気がしたんだ。付き合うのは、俺には向いてない、そう思ってて」
学生時代に付き合っていた彼女とはずいぶん前に別れたと聞いていた。それは、じっちゃんは一足先に社会に出てしまって彼女は進学したから、時間や考え方のすれ違いから自然に訪れたものだと思っていた。
その後のことは知らない。どんな人と付き合って、どんな恋愛をしてきたのか。付き合っていた人とどんな風に接してきたのか、過ごしてきたのか。今まで考えたことがなかったわけじゃないけど、あたしとは無関係だと思ってきたから、あえて知ろうとは思わなかったし知りたいとも思わなかった。
恋愛の先に結婚があると思っているあたしには、付き合わずに結婚に結びつく意味が理解できない。付き合ってうまくいくか分からないのに、結婚してしまって合わなかったらどうするのだろうか?とか思ってしまう。
でも、考え方は人それぞれ。お見合い結婚で仲の良い夫婦がいるみたいに、そんな風に結婚から始まる恋愛もあるんじゃないかとも思う。ただ、自分はそんな結婚をしようとは思わないけど。
「それで、あたし?なんであたし?」
「ミオはいつも一生懸命で、目指しているものがあって、そして決して諦めないだろ。いつも何かの目標があって、辛くても苦しくてもそれを目指してがんばってる。どんなに弱音を吐いても、諦めようとはしない。俺はずっと特にやりたいこともなくただ運良く就けた仕事を続けていて、それだけだから、そんな風に何かに向かってがんばってるミオをとても素敵だと思っていたんだ。ミオの頑張る姿を見て、まっすぐに進んでいく姿をずっと応援していたいと思ったんだ」
じっちゃんの方を見ると、目があった。泣きそうになって目をそらしたかったけど、あまりにも真剣なじっちゃんを見てしまったから、動くことができなくなってしまった。
数秒見つめ合った後じっちゃんがふっと笑って瞬きを一度してからカウンターの方に目を向けた。
「あたしは全然がんばれてないよ。いつも言葉ばっかりで、言動に行動が伴ってない」
じっちゃんの方を見ながら、そう言った。
「じっちゃんはあたしを買いかぶりすぎてるよ」
「それでもミオは俺より十分努力してるし、かっこいいよ」
俯いたまま首を振って「そんなことないよ」とつぶやいたけど
「そうなんだよ」ってじっちゃんは返してくれた。
「ミオにとってはそうじゃなくても、俺にとってはそうなんだよ」って。
それからあたしたちは2杯おかわりして、随分長い間その店にいた。
あたしの仕事の話を少しとじっちゃんの飼っている猫の話をして、大半を沈黙のまま過ごした。
あたしの頭の中はまだ混乱だらけで、いつもより少し強いお酒を飲んだせいもあって気付いたらじっちゃんがあたしを抱えるようにしてあたしの家の前まで来ていた。
「ミオ、もうすぐ着くけど鍵は?」
「鍵?」
ほおけた顔でじっちゃんを見上げると、じっちゃんの顔がアップで見えた。
「そう、鍵。鍵がないと家に入れないだろ」
「んー、鞄の中?」
「探していい?」
「うん」
「ミオ、水、飲んで」
次に気付いたら、あたしは部屋のソファーにだらりと横になっていて、じっちゃんが水の入ったグラスを目の前に突き出していた。
「じっちゃん、ごめん。ありがと」
重い体を起こしながらじっちゃんからグラスを受け取って、水を飲む。
そして再び瞼を閉じた。
朝、目が覚めたらあたしはソファーにいて、あたしの身体にはいつも寝室で使っているタオルケットがかけられていた。ダイニングのテーブルに”鍵はポストに入れておくから”というメモ書きが置かれていて、二日酔いで痛む頭を抑えながら、そのメモを3回読み返した。そして、じっちゃんはあたしをこの部屋に送り届けて、そして帰って行ったのだ、と当たり前の結論に達した。
あたしたちはときどき手を繋ぐ。同じお皿の食べ物をシェアするし、注文した飲み物を途中で交換したりもする。でもキスはしない。お互いの家に足を踏み入れたことも一度もない。
これがあたしたちの中の暗黙の了解で、線引きだと思ってきた。
この日初めて、あたしたちはこの線を超えた。